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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 02月 15日

 父母に御孝養の意あらん人人は法華経を贈り給べし、教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈り給い て候、と説かれた【刑部左衛門尉女房御返事】

【刑部左衛門尉女房御返事】
■出筆時期:弘安三年(1280)十月二十一日 五十九歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は尾張に住む刑部(ぎょうぶ)左衛門尉の妻が母の十三回忌の追善供養を願い出て銭20貫文をご供養されたことへの返書となっております。

大聖人は「生てをはせし時は一日片時のわかれをば千万日とこそ思はれしかども、十三年四千余日の程はつやつやをとづれなし如何にきかまほしくましますらん」と記され亡き母の十三回忌を弔う刑部左衛門尉女房の母を思う志を称えられておられます。
さらに本抄後段では法華経化城喩品の「而かも彼の土に於いて仏の智慧を求めて是の経を聞くことを得ん」の文を引いて、この経文は釈尊を生んで七日目で亡くなった実母・摩耶夫人及び父のために説いた経文で「此の法門は唯天台大師と申せし人計りこそ知りてをはし候ひけれ<中略>日蓮が心中に第一と思ふ法門なり」と説かれるとともに「父母に御孝養の意あらん人人は法華経を贈り給べし、教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈り給いて候」と、励まされておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

【刑部左衛門尉女房御返事 本文】
 今月飛来の雁書(がんしょ)に云く此の十月三日母にて候もの十三年に相当れり銭二十貫文等云云、夫外典三千余巻には忠孝の二字を骨とし内典五千余巻には孝養を眼とせり、不孝の者をば日月も光ををしみ地神も瞋(いかり)をなすと見へて候、或経に云く六道の一切衆生仏前に参り集りたりしに仏彼れ等が身の上の事を一一に問い給いし中に・仏地神に汝大地より重きものありやと問い給いしかば地神敬(つつし)んで申さく大地より重き物候と申す、仏の曰くいかに地神偏頗(へんぱ)をば申すぞ此の三千大千世界の建立は皆大地の上にそなわれり、所謂須弥山の高さは十六万八千由旬(ゆじゅん)横は三百三十六万里なり・大海は縦横八万四千由旬なり、其の外の一切衆生・草木等は皆大地の上にそなわれり、此れを持てるが大地より重き物有らんやと問い給いしかば、地神答て云く仏は知食(しろしめ)しながら人に知らせんとて問い給うか、我地神となること二十九劫なり其の間大地を頂戴して候に頚も腰も痛むことなし、虚空を東西南北へ馳走するにも重きこと候はず、但不孝の者のすみ候所が身にあまりて重く候なり、頚もいたく腰もおれぬべく膝もたゆく足もひかれず眼もくれ魂もぬけべく候、あわれ此の人の住所の大地をば・なげすてばやと思う心たびたび出来し候へば不孝の者の住所は常に大地ゆり候なり、されば教主釈尊の御いとこ提婆達多と申せし人は閻浮提第一の上臈(じょうろう)・王種姓なり、然れども不孝の人なれば我等彼の下の大地を持つことなくして大地破れて無間地獄に入り給いき、我れ等が力及ばざる故にて候と、かくの如く地神こまごまと仏に申し上げ候しかば・仏はげにもげにもと合点せさせ給いき、又仏歎いて云く我が滅後の衆生の不孝ならん事・提婆にも過ぎ瞿伽利(くぎゃり)にも超えたるべし等云云取意、涅槃経に末代悪世に不孝の者は大地微塵よりも多く孝養の者は爪上の土よりもすくなからんと云云。

今日蓮案じて云く此の経文は殊にさもやとをぼへ候、父母の御恩は今初めて事あらたに申すべきには候はねども・母の御恩の事殊に心肝に染みて貴くをぼへ候、飛鳥の子をやしなひ地を走る獣の子にせめられ候事・目もあてられず魂もきえぬべくをぼへ候、其につきても母の御恩忘れがたし、胎内に九月(ここのつき)の間の苦み腹は鼓をはれるが如く頚は針をさげたるが如し、気は出づるより外に入る事なく色は枯れたる草の如し、臥(ふせ)ば腹もさけぬべし坐すれば五体やすからず、かくの如くして産も既に近づきて腰はやぶれて・きれぬべく眼はぬけて天に昇るかとをぼゆ、かかる敵をうみ落しなば大地にも・ふみつけ腹をもさきて捨つべきぞかし、さはなくして我が苦を忍びて急ぎいだきあげて血をねぶり不浄をすすぎて胸にかきつけ懐きかかへて三箇年が間慇懃(ねんごろ)に養ふ、母の乳をのむ事・一百八十斛(こく)三升五合なり、此乳のあたひは一合なりとも三千大千世界にかへぬべし、されば乳一升のあたひをかんがへて候へば米に当れば一万一千八百五十斛五升・稲には二万一千七百束に余り・布(ぬの)には三千三百七十段なり、何に況や一百八十斛三升五合のあたひをや、他人の物は銭の一文・米一合なりとも盗みぬればろうのすもりとなり候ぞかし。

而るを親は十人の子をば養へども子は一人の母を養ふことなし、あたたかなる夫をば懐きて臥せどもこごへたる母の足をあたたむる女房はなし、給孤独園(ぎっこどくおん)の金鳥は子の為に火に入り・憍尸迦(きょうしか)夫人は夫の為に父を殺す。

仏の云く父母は常に子を念へども子は父母を念はず等云云、影現王の云く父は子を念ふといえども子は父を念はず等是れなり、設ひ又今生には父母に孝養をいたす様なれども後生のゆくへまで問う人はなし母の生てをはせしには心には思はねども一月に一度・一年に一度は問いしかども・死し給いてより後は初七日より二七日乃至第三年までは人目の事なれば形の如く問い訪(とぶら)ひ候へども・十三年・四千余日が間の程は・かきたえ問う人はなし、生てをはせし時は一日片時のわかれをば千万日とこそ思はれしかども十三年四千余日の程はつやつやをとづれなし如何(いか)にきかまほしくましますらん夫(それ)外典の孝経には唯今生の孝のみををしへて後生のゆくへをしらず身の病をいやして心の歎きをやめざるが如し内典五千余巻には人天二乗の道に入れていまだ仏道へ引導する事なし。

夫目連尊者の父をば吉占師子(きっせんしし)・母をば青提女(しょうだいにょ)と申せしなり、母死して後餓鬼道に堕ちたり、しかれども凡夫の間は知る事なし、証果の二乗となりて天眼を開きて見しかば母餓鬼道に堕ちたりき、あらあさましやといふ計りもなし、餓鬼道に行きて飯をまいらせしかば纔(わずか)に口に入るかと見えしが飯変じて炎となり・口はかなへの如く飯は炭をおこせるが如し、身は灯炬(とうこ)の如くもえあがりしかば神通を現じて水を出だして消す処に・水変じて炎となり弥(いよいよ)火炎のごとくもゑあがる、目連自力には叶はざる間・仏の御前に走り参り申してありしかば、十方の聖僧を供養し其の生飯(さば)を取りて纔に母の餓鬼道の苦をば救い給へる計りなり・釈迦仏は御誕生の後・七日と申せしに母の摩耶夫人にをくれまいらせましましき、凡夫にてわたらせ給へば母の生処を知しめすことなし、三十の御年に仏にならせ給いて父浄飯王を現身に教化して証果の羅漢となし給ふ、母の御ためにはとう利天に昇り給いて摩耶経を説き給いて父母を阿羅漢となしまいらせ給いぬ、此れ等をば爾前の経経の人人は孝養の二乗・孝養の仏とこそ思い候へども、立ち還つて見候へば不孝の声聞・不孝の仏なり、目連尊者程の聖人が母を成仏の道に入れ給はず、釈迦仏程の大聖の父母を二乗の道に入れ奉りて永不成仏の歎きを深くなさせまいらせ給いしをば、孝養とや申すべき不孝とや云うべき、而るに浄名居士・目連を毀(そしり)て云く六師外道が弟子なり等云云、仏自身を責めて云く我則ち慳貪(けんどん)に堕ちなん此の事は為めて不可なり等云云、然らば目連は知らざれば科(とが)浅くもやあるらん、仏は法華経を知ろしめしながら生てをはする父に惜み・死してまします母に再び値(あ)い奉りて説かせ給はざりしかば大慳貪の人をば・これより外に尋ぬべからず。

つらつら事の心を案ずるに仏は二百五十戒をも破り十重禁戒をも犯し給う者なり、仏・法華経を説かせ給はずば十方の一切衆生を不孝に堕し給ふ大科まぬかれがたし、故に天台大師此の事を宣べて云く「過(とが)則ち仏に属す」云云、有人云く是れ十方三世の御本誓に違背し衆生を欺誑(ぎおう)すること有るなり等云云、夫四十余年の大小・顕密の一切経並に真言・華厳・三論・法相・倶舎・成実・律・浄土・禅宗等の仏・菩薩・二乗・梵釈・日月及び元祖等は法華経に随ふ事なくば何なる孝養をなすとも我則堕慳貪の科脱るべからず、故に仏本願に趣いて法華経を説き給いき、而るに法華経の御座には父母ましまさざりしかば親の生れてまします方便土と申す国へ贈り給て候なり、其の御言に云く「而かも彼の土に於いて仏の智慧を求めて是の経を聞くことを得ん」等云云、此の経文は智者ならん人人は心をとどむべし、教主釈尊の父母の御ために説かせ給いて候経文なり、此の法門は唯天台大師と申せし人計りこそ知りてをはし候ひけれ、其の外の諸宗の人人知らざる事なり、日蓮が心中に第一と思ふ法門なり。

父母に御孝養の意あらん人人は法華経を贈り給べし、教主釈尊の父母の御孝養には法華経を贈り給いて、日蓮が母存生してをはせしに仰せ候し事をも・あまりにそむきまいらせて候しかば、今をくれまいらせて候が・あながちにくやしく覚へて候へば一代聖教をかんがへて母の孝養を仕らんと存じ候間、母の御訪い申させ給う人人をば我が身の様に思ひまいらせ候へば、あまりにうれしく思ひまいらせ候間あらあら・かきつけて申し候なり。定めて過去聖霊も忽に六道の垢穢(くえ)を離れて霊山浄土へ御参り候らん、此の法門を知識に値わせ給いて度度きかせ給うべし、日本国に知る人すくなき法門にて候ぞ、くはしくは又又申すべく候、恐恐謹言

十月二十一日    日 蓮 花 押
尾張刑部左衛門尉殿女房御返事


【妙法蓮華経 化城喩品第七】
我滅度後。復有弟子。不聞是経。不知不覚。
菩薩所行。自於所得功徳。生滅度想。当入涅槃。
我於余国作仏。更有異名。是人雖生。滅度之想。
入於涅槃。而於彼土。求仏智慧。得聞是経。
唯以仏乗。而得滅度。更無余乗。
[和訳]
我(釈尊)が滅度の後、復、弟子有りて、是の経(法華経)を聞かず、
菩薩の所行を知らず覚らざれば、自から得た所の功徳に於て、滅度の想を生じて当に涅槃に入るべし。
我は余国に於いて作仏し、更に異名有らんに、是の人、滅度の想を生じ、
涅槃に入ると雖も、而して彼の土(余国)に於いて、仏の智慧を求め、是の経を聞くことを得ん。
唯、仏乗を以てのみ滅度することを得、更に(仏乗以外の)余乗無けり。





by johsei1129 | 2016-02-15 19:42 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
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