2016年 02月 11日
十 八 日 一 而るに今の代の世間の学者等文。 此の下は二に当世の謬解を破し、重ねて唱題の妙用を顕す、亦二。初めに牒破、次に「蓮華」の下は重ねて唱題の妙用を顕す、亦二。初めに正しく明かし、次に「法華経の第一の巻」の下は法の希有なることを歎ず云云。 「只信心計り」等とは、此の謬解の中に信行の二意有り云云。然るに此の謬解は蓮祖の正義に敵対し相翻す。故に先ず須く蓮師の正義を了すべし。蓮師の正義に就いて亦二意あり。所謂附文・元意なり。初めに附文とは、既に当抄は佐渡已前なるが故に且く仏の爾前経に同じ、分明に未だ本迹の起尽を判ぜず。未だ三大秘法の名目を出さず。故に但汎く法華経を信じて法華の題目を唱うべしと勧めたもうなり。 若し其の元意は、法華経の本門寿量品の肝要・南無妙法蓮華経の五字の本尊を信じて、法華経の本門寿量品の肝要・南無妙法蓮華経と唱うべし云云。附文・元意、並びに信行有り云云。 問う、但法華経の本門寿量品の肝要・南無妙法蓮華経の五字の本尊を信ずべき証文、如何。 答う、証文分明なり。 下山抄二十六・四十四に云く「実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり」文。文の中の「実」の字、深く意を留むべし。例せば「我実成仏」の「実」の字の如し。亦「肝要」とは即ち文底の異名なり。諸文も例して爾なり。文の意に云く、既に寿量品の説已りて神力結要付嘱の時に至り、先ず釈迦・多宝・十方分身の諸仏、広長舌を出して上梵世に至りたまう。其の本意を尋ぬれば、実に滅後末法の衆生をして但本門寿量品の肝要・南無妙法蓮華経の五字の本尊を信ぜしめんが為なり云云。 問う、文には但「寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字」と云って「五字の本尊」とはいわず。何ぞ「五字の本尊」と云うや。 答う、既に神力品に於て諸仏舌を出し、五字の本尊を付嘱せる故なり。 問う、其の証如何。 答う、経に云く「要を以て之を言わば乃至皆此の経に於いて宣示顕説す」と云云。「此の経」とは即ち妙法蓮華経の五字の本尊なり。意に云く、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力等、皆妙法蓮華経の五字の本尊に於て宣示顕説す等云云。故に天台云く「其の樞柄を撮って而して之を授与す」云云。「而して之を授与す」の文、深く意を留むべし。又本尊抄に云く云云。 汝若し信ぜずんば、今、明文を引かん。 新尼御前御抄に云く、外十二・二十七に云く「今此の御本尊は教主釈尊・五百塵点劫より心中にをさめさせ給い(乃至)四十余年乃至迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候いしが乃至上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆずらせ給いて乃至此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、乃至後生の大火炎を脱るべしと仏・記しをかせ給いぬ」文。 此の文は晴天の日輪、夜中の満月なり。豈結要付嘱の当体は、妙法蓮華経の五字の本尊に非ずや。故に知んぬ、下山抄に「寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり」と云うは、文の意、正しく是れ妙法蓮華経の五字の本尊を信ぜしめんが為に出し給う広長舌なり。 問う、本門寿量の肝心・南無妙法蓮華経と唱うべき証文、如何。 答えて云く、下山抄二十六・十八に云く「世尊、眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に法華経の半分・迹門十四品を譲り給う、是れは又地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり」云云。 既に地涌の菩薩末法に出現して、本門寿量の肝心・南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべしと云う。豈明文分明に非ずや。然るに一流の義「本迹一致の南無妙法蓮華経」とは蓮祖違背の謗罪、不相伝の大僻見なり。 一 此の人人等文。 正しく謬解を破するなり。 「世間の学者」の意に云く、博学才智にして解了を備え、勤行精進して広く経巻を読まんは、悪道を脱れ、不退の位に到るべし。何ぞ只法華経を信ずる信心計りにて解了も無く、只法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱うる計りにて争か悪趣を脱るべけんや等云云。 今、破する意に云く、既に法華・涅槃の経文を閲するに、善星・提婆は博学才智にして解了を備え、勤行精進して広く衆経を読めども、信心無きを以て淪堕を脱れず。若し槃特は只一念の信有り。此等の経文の如くんば、当世の学者は阿鼻大城を脱れ難し云云。 一 さればさせる解りなくとも等文。 四信抄十六・七十に云く「小児乳を含むに其の味を知らざれども自然に身を益す、耆婆が妙薬誰か弁えて之を服せん、水心無けれども火を消し火物を焼く、豈覚有らんや」。亦云く「濁水心無けれども月を得て自ら清めり、草木雨を得豈覚有って花さくならんや乃至初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずるに自然に意に当るなり」云云。
by johsei1129
| 2016-02-11 10:52
| 日寛上人 御書文段
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