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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 09月 06日

悪知識は善法の為にあだなり、故に畏る可きは大毒蛇悪鬼神よりも弘法善導法然等の流の悪知識を畏 るべし、と断じた【星名五郎太郎殿御返事】

【星名五郎太郎殿御返事】
■出筆時期:文永四年(1267)十二月五日 四十六歳御作。
■出筆場所:下総の富木常忍の邸宅と思われます。
■出筆の経緯:本抄は上総国・興津村の領主・佐久間兵庫亮の家臣・星名五郎太郎に宛てられた消息です。
本抄を記された文永四年は、大聖人の御母妙蓮尼が八月十五日にお亡くなりになり大聖人は故郷安房小湊に戻られておられます。
恐らくその時に主君佐久間兵庫亮(ひょうごのすけ)とともに星名五郎太郎も大聖人に帰依されたと思われます。

本抄は真言の破析を論じられおり、佐久間兵庫亮、星名五郎太郎が以前は真言を信仰していたことを伺わせます。
大聖人は「今法華経には二乗成仏あり真言経には之無しあまつさへあながちに是をきらへり、法華経には女人成仏之有り真言経にはすべて是なし、法華経には悪人の成仏之有り真言経には全くなし、何を以てか法華経に勝れたりと云うべき」と記されるとともに「故に畏る可きは大毒蛇悪鬼神よりも弘法善導法然等の流の悪知識を畏るべし」と断じられておられます。
また文末では「外見あるべからず候、若(もし)命つれなく候はば仰せの如く明年の秋下り候て且つ申すべく候」と記され、この消息は他人には見せてはならないと諭されるともに、もし私の命が変わらず無事であれば明年の秋にはお伺いして法門の事を詳しく申しましょうと約束されておられます。ここでの「若命つれなく候はば」とは「三年前の小松原の法難のようなことが再び起きなければ」との思いを示されておられると拝されます。
■ご真筆:現存しておりません。

【星名五郎太郎殿御返事 本文】

漢の明(めい)夜夢みしより迦・竺(か・じく)二人の聖人初めて長安のとぼそに臨みしより以来唐の神武皇帝に至るまで天竺の仏法震旦(しんたん)に流布し、梁(りょう)の代に百済(くだら)国の聖明王より我が朝の人王三十代欽明の御宇に仏法初めて伝ふ、其れより已来一切の経論諸宗皆日域にみてり、幸なるかな生を末法に受くるといへども霊山(りょうぜん)のきき耳に入り、身は辺土に居せりといへども大河の流れ掌に汲めり、但し委(くわし)く尋ね見れば仏法に於て大小権実前後のおもむきあり、若し此の義に迷いぬれば邪見に住して仏法を習ふといへども還つて十悪を犯し五逆を作る罪よりも甚しきなり、爰を以て世を厭ひ道を願はん人先ず此の義を存ずべし、例せば彼の苦岸比丘等の如し、故に大経に云く「若し邪見なる事有らんに命終の時正に阿鼻獄に堕つべし」と云へり。

 問う何を以てか邪見の失を知らん予不肖の身たりといへども随分後世を畏れ仏法を求めんと思ふ、願くは此の義を知らん、若し邪見に住せばひるがへして正見におもむかん、答う凡眼を以て定むべきにあらず浅智を以て明むべきにあらず、経文を以て眼とし仏智を以て先とせん、但恐くは若し此の義を明さば定めていかりをなし憤りを含まん事を、さもあらばあれ仏勅を重んぜんにはしかず、其れ世人は皆遠きを貴み近きをいやしむ但愚者の行ひなり、其れ若し非ならば遠とも破すべし其れ若し理ならば近とも捨つべからず、人貴むとも非ならば何ぞ今用いん、伝え聞く彼の南三北七の十流の学者威徳ことに勝れて天下に尊重せられし事既に五百余年まで有りしかども陳隋二代の比(ころ)天台大師是を見て邪義なりと破す、天下に此の事を聞いて大きに是をにくむ、然りといへども陳王隋帝の賢王たるに依て彼の諸宗に天台を召し決せられ、邪正をあきらめて前五百年の邪義を改め皆悉く大師に帰す。

 又我が朝の叡山の根本大師は南都北京の碩学(せきがく)と論じて仏法の邪正をただす事皆経文をさきとせり、今当世の道俗貴賎皆人をあがめて法を用いず心を師として経によらず、之に依て或は念仏権教を以て大乗妙典をなげすて或は真言の邪義を以て一実の正法を謗ず、是等の類豈大乗誹謗のやからに非ずや、若し経文の如くならば争(いかで)か那落(ならく)の苦みを受けざらんや、之に依て其の流をくむ人もかくの如くなるべし、疑つて云く念仏真言は是れ或は権或は邪義又行者或は邪見或は謗法なりと此の事甚だ以て不審なり、其の故は弘法大師は是れ金剛薩埵(こんごうさった)の化現第三地の菩薩なり。真言は是れ最極甚深の秘密なり、又善導和尚は西土の教主弥陀(みだ)如来の化身なり、法然上人は大勢至菩薩の化身なりかくの如きの上人を豈に邪見の人と云うべきや、答えて云く此の事本より私の語を以て是を難ずべからず経文を先として是をただすべきなり、真言の教は最極の秘密なりと云うは三部経の中に於て蘇悉地(そしっち)経を以て王とすと見えたり、全く諸の如来の法の中に於て第一なりと云う事を見ず、凡そ仏法と云うは善悪の人をゑらばず皆仏になすを以て最第一に定むべし、是れ程の理をば何(いか)なる人なりとも知るべきことなり、若し此の義に依らば経と経とを合せて是を挍(ただ)すべし。

今法華経には二乗成仏あり真言経には之無しあまつさへあながちに是をきらへり、法華経には女人成仏之有り真言経にはすべて是なし、法華経には悪人の成仏之有り真言経には全くなし、何を以てか法華経に勝れたりと云うべき、又若し其の瑞相を論ぜば法華には六瑞あり、所謂(いわゆる)雨華地動し白毫(びゃくごう)相の光り上は有頂を極め下は阿鼻獄を照せる是なり、又多宝の塔大地より出て分身の諸仏十方より来る、しかのみならず上行等の菩薩の六万恒沙(ごうじゃ)五万四万三万乃至一恒沙半恒沙等大地よりわきいでし事此の威儀不思議を論ぜば何を以て真言法華にまされりと云わん、此等の事委(くわし)くのぶるにいとまあらずはづかに大海の一滴を出す。

爰(ここ)に菩提(ぼだい)心論と云う一巻の文あり竜猛菩薩の造と号す、此の書に云く「唯真言法の中に即身成仏す故に是れ三摩地の法を説く諸教の中に於て闕(か)いて書(し)るさず」と云えり、此の語は大に不審なるに依て経文に就てこれを見るに即身成仏の語は有れども即身成仏の人全くなし、たとひありとも法華経の中に即身成仏あらば諸教の中にをいてかいて而もかかずと云うべからず此の事甚だ以て不可なり、但し此の書は全く竜猛の作にあらず委き旨は別に有るべし、設ひ竜猛菩薩の造なりともあやまりなり、故に大論に一代をのぶる肝要として「般若(はんにゃ)は秘密にあらず二乗作仏なし、法華は是秘密なり二乗作仏あり」と云えり、又云く「二乗作仏あるは是秘密二乗作仏なきは是顕教」と云えり、若し菩提心論の語の如くならば別しては竜樹の大論にそむき総じては諸仏出世の本意一大事の因縁をやぶるにあらずや、今竜樹天親等は皆釈尊の説教を弘めんが為に世に出(い)ず、付法蔵二十四人の其の一なり何ぞ此(か)くの如き妄説をなさんや、彼の真言は是れ般若経にも劣れり、何に況や法華に並べんや、爾(しか)るに弘法の秘蔵宝鑰(やく)に真言に一代を摂するとして法華を第三番に下し、あまつさへ戯論(けろん)なりと云えり、謹んで法華経を披(ひら)きたるに諸の如来の所説の中に第一なりと云えり、又已今当の三説に勝れたりと見えたり、又薬王の十喩(ゆ)の中に法華を大海にたとへ日輪にたとへ須弥山(しゅみせん)にたとへたり、若し此の義に依らば深き事何ぞ海にすぎん明かなる事何ぞ日輪に勝れん高き事何ぞ須弥山に越ゆる事有らん、喩を以て知んぬべし何を以てか法華に勝れたりと云はんや、大日経等に全く此の義なし但己が見に任せて永く仏意に背く、妙楽大師日く「請う眼有らん者は委悉(いしつ)に之を尋ねよ」と云へり、法華経を指て華厳に劣れりと云うは豈(あに)眼ぬけたるものにあらずや、又大経に云く「若し仏の正法を誹謗(ひぼう)する者あらん正に其の舌を断(たつ)べし」と、嗚呼(ああ)誹謗の舌は世世に於て物云うことなく邪見の眼は生生にぬけて見ること無らん、加之(しかのみな)らず「若し人信ぜずして此の経を毀謗(きぼう)せば乃至其の人命終えて阿鼻獄に入らん」の文の如くならば定めて無間大城に堕ちて無量億劫(おくこう)のくるしみを受けん。

善導法然も是に例して知んぬべし、誰か智慧有らん人此の謗法(ほうぼう)の流を汲んで共に阿鼻(あび)の焔(ほのお)にやかれん、行者能く畏(おそ)るべし、此れは是れ大邪見の輩なり、所以に如来誠諦の金言を按ずるに云く「我が正法をやぶらん事は譬えば猟師の身に袈裟(けさ)をかけたるが如し、或は須陀洹(しゅだおん)斯那含(しなごん)阿那含(あなごん)阿羅漢・辟支仏(びゃくしぶつ)及び仏の色身を現じて我が正法を壊(やぶ)らん」といへり。

 今此の善導法然等は種種の威を現じて愚癡(ぐち)の道俗をたぶらかし如来の正法を滅す、就中(なかんずく)彼の真言等の流れ偏(ひとえ)に現在を以て旨とす、所謂畜類を本尊として男女の愛法を祈り荘園等の望をいのる、是くの如き少分のしるしを以て奇特とす、若し是を以て勝れたりといはば彼の月氏の外道等にはすぎじ、彼の阿竭多(あかだ)仙人は十二年の間恒河(こうが)の水を耳にただへたりき、又耆菟(ぎと)仙人の四大海を一日の中にすひほし、く留外道は八百年の間石となる豈是にすぎたらんや、又瞿曇(くどん)仙人が十二年の程釈身と成り説法せし、弘法が刹那の程にびるさな(毘盧舎那)の身と成りし、其の威徳を論ぜば如何(いかん)、若し彼の変化のしるしを信ぜば即ち外道を信ずべし、当(まさ)に知るべし彼れ威徳ありといへども猶阿鼻の炎をまぬがれず、況(いわん)やはづかの変化にをいてをや況や大乗誹謗にをいてをや、是一切衆生の悪知識なり近付くべからず畏る可し畏る可し。

仏の曰く「悪象等に於ては畏るる心なかれ悪知識に於ては畏るる心をなせ、何を以ての故に悪象は但身をやぶり意をやぶらず悪知識は二共にやぶる故に、此の悪象等は但一身をやぶる悪知識は無量の身無量の意をやぶる、悪象等は但不浄の臭き身をやぶる悪知識は浄身及び浄心をやぶる、悪象は但肉身をやぶる悪知識は法身をやぶる、悪象の為にころされては三悪に至らず悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る、此の悪象は但身の為のあだなり、悪知識は善法の為にあだなり」と、故に畏る可きは大毒蛇悪鬼神よりも弘法善導法然等の流の悪知識を畏るべし、略して邪見の失(とが)を明すこと畢(おわ)んぬ。

 此の使あまりに急ぎ候ほどにとりあへぬさまにかたはしばかりを申し候、此の後又便宜(びんぎ)に委く経釈を見調(みしら)べてかくべく候、穴賢穴賢、外見あるべからず候、若(もし)命つれなく候はば仰せの如く明年の秋下り候て且つ申すべく候、恐恐。

十二月五日   日蓮 花押
星名五郎太郎殿御返事








by johsei1129 | 2019-09-06 21:33 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
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