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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 01月 29日

報恩抄文段 下三一  本因妙の教主自受用身は、人法体一にして更に勝劣無し。法に即(そく)して人、人に即して法なり。

  問う、当文の(こころ)如何(いかん)

  答う、大段(だいだん)二義あり。

  一には諸流一同の義に云く、在世の本門の教主釈尊を本尊とすべし。是れ(すなわ)ち色相を以て本尊とすべきなり。戒壇・題目も亦(しか)なり。(いわ)く、在世の本門の戒壇、在世の本門の題目なりと云云。故に諸流一同に色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の仏を造立(ぞうりゅう)して本尊と為せり。

  二には当流の(じん)()の意に云く、本門寿量文底の教主釈尊を本尊とすべし。是れ則ち名字(みょうじ)凡夫(ぼんぷ)の当体、本因妙の教主釈尊なり。戒壇・題目も亦(しか)なり。謂く、本門寿量文底の戒壇、本門寿量文底の題目なり。故に開目抄に「本門寿量文底秘沈(ひちん)」と云うは是れなり。

  先ず道理を明かさん。()在世(ざいせ)の本門の教主は(もと)是れ脱益(だっちゃく)()(しゅ)なり。久遠(くおん)本因の教主は本是れ下種(げしゅ)法主(ほっす)なり。今(すで)に末法下種の時なり。何ぞ下種の教主を(さしお)いて、(かえ)って脱仏を以て本尊と()すべけんや。是一。

  (いわん)(また)末法は(ほん)未有(みう)(ぜん)の衆生なり。故に脱益の仏に於ては三徳の(えん)浅し。何ぞ我が三徳の仏を閣いて、他の三徳の仏を以て本尊と為すべけんや是二。

  况や復本尊とは、(まさ)に勝れたるを用うべし。(しか)るに色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の仏は(にん)(ぽう)体別なり。故に法に望むれば(すなわ)ち既に師資(しし)、父子、君臣の別あり。

(しばら)く一文を引かん。経に云く「()(また)人有って、七宝(しっぽう)を以て乃至供養(くよう)せん、()の人の所得の功徳(くどく)も、()の法華経の乃至一四(いっし)句偈(くげ)(じゅ)()する()の福の最も多きには()かじ」云云。

文の十・三十一に云く「七宝を四聖に(たてまつ)るは、一偈(いちげ)(たも)つに()かず。法は是れ聖の師なり。能生(のうしょう)(のう)(よう)(のう)(じょう)(のう)(えい)、法に()ぎたるは()し。故に人は軽く法は重し」云云。

(せん)八・二十五に云く「父母に(あら)ざれば以て(しょう)ずること無く、()(ちょう)に非ざれば以て(じょう)ずること無く、君主に非ざれば以て(さか)ること無し」文。

故に人法(にんぽう)の勝劣(あたか)も天地の如し。何ぞ(おと)れる仏を以て本尊と()すべけんや是三。

  (けだ)本因(ほんにん)(みょう)の教主自受用(じじゅゆう)(しん)は、人法(たい)(いつ)にして(さら)に勝劣無し。法に(そく)して人、人に即して法なり。故に経に云く「若しは経巻(きょうかん)所住の(ところ)には乃至()の中には、(すで)に如来の全身(いま)す」云云。天台云く「此の経は是れ(ほっ)(しん)舎利(しゃり)なり」と云云。今「法身」とは(すなわ)ち是れ自受用身なり。

  宗祖云く「自受用身即一念三千」と。伝教(でんぎょう)云く「一念三千即自受用身」等云云。故に知んぬ、本因(ほんにん)(みょう)の教主釈尊、自受用の全体(すなわ)ち是れ()の一念三千の法の本尊なり。事の一念三千の法の本尊の全体、即ち是れ本因妙の教主釈尊、自受用身なり。譬えば()()(やく)(どう)薬種(やくしゅ)(まった)く是れ童子(どうじ)にして、童子全く是れ薬種なるが如し。

  問う、何が故に体別・体一の(ことなり)ありや。

  答う、若し()()って論ずれば法界に非ざる無し。今、事に()いて論ずるに、差異無きに(あら)ず。(いわ)く、自受用身は(もと)是れ境地冥合(きょうちみょうごう)の真仏なり。故に(たい)(いつ)なり。(たと)えば月と光と冥合するが故に是れ体一なるが如し。若し色相荘厳の仏は世情(せじょう)随順(ずいじゅん)する形貌(ぎょうみょう)なり。故に体別なり。譬えば水月は方円(ほうえん)(うつわ)に移るが故に、天月と体は別なるが如し。

  問う、色相の応仏は世情に随順するの証文如何(いかん)

  答う、教時義に云く「世間(みな)仏に三十二相を具することを知る。()の世情に(したが)って、三十二相を(もっ)て仏と()す」と云云。金剛(こんごう)般若経(はんにゃきょう)に云く「()し三十二相を以て如来を見れば、(てん)(りん)(じょう)(おう)(すなわ)ち是れ如来ならん」文。止の七・六十七に云く「縁の(ため)に同じからず、多少は(かれ)()り」等云云。

  次に文相に(しょう)せん。「本門の教主釈尊」とは、是れ標の文にして人の本尊なり。「所謂(いわゆる)宝塔」の下は、是れ釈の文にして法の本尊なり。即ち本尊抄の文に同じ、少しく略なるのみ。(すで)人の本尊を標して、法の本尊を以て(これ)を釈す。故に知んぬ「本門の教主釈尊」とは、即ち是れ人法体一の遠元(くおんがん)(じょ)自受用報(じじゅゆうほう)(しん)本因(ほんにん)(みょう)の教主釈尊なり。意に云く、本因妙の教主釈尊の全体、即ち是れ一念三千の法の本尊なり。故に本尊とすべしと云云。()色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の脱仏を(もっ)て「本門の教主釈尊」と名づけば、(すで)に是れ(にん)(ぽう)体別にして勝劣(しょうれつ)も亦雲泥(うんでい)なり。何ぞ一念三千の法の本尊を以て(これ)を釈すべけんや。之を思え、之を思え。

故に知んぬ「本門の教主釈尊」とは本門寿量文底、本因妙の教主釈尊なること、其の義(うた)た明らかなり。

 問う、若し(しか)らば、本因妙の教主釈尊を以て本尊と為すべし。何ぞ(れん)()を以て本尊と為すや。

 答う、云云。()末法相応抄の如し。啓蒙(けいもう)十五・七十三に多義あり云云。



報恩抄文段下 目次



by johsei1129 | 2016-01-29 21:52 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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