日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 01月 29日

大聖人が開目抄で説かれた寿量品の文底秘沈の口伝を日興上人が記された相伝書【寿量品文底大事】

【寿量品文底大事】
■出筆時期:佐渡で開目を著された文永九年二月以降と思われます。
■出筆場所:佐渡地にて。
■出筆の経緯:日興上人が大聖人に『開目抄上』に記された「一念三千の法門は寿量品の文の底に秘し沈め給へり」の意趣に付いて問われ、その口伝を後世の弟子・信徒のために書き記された書と思われます。
恐らく大聖人が佐渡で開目抄を著され、それを日興上人が書写された時に直ぐに寿量品の文底秘沈について問われたものと思われます。
一念三千の法門が文底秘沈されている寿量品の偈は「我本行菩薩道」で、大聖人は釈尊が五百塵点劫久遠に菩薩であった時に修行した覚知した法門が一念三千の妙法蓮華経であると断じられておられます。
つまり妙法蓮華経は、宇宙森羅万象の根源の法である故、無始無終で、それを覚知したのが仏であると説かれておられます。
大聖人はこの事について【百六箇抄 種の本迹勝劣・五十五箇条】で次のように説かれておられます。
[十五、 末法の時刻の弘通の本迹]
本因妙を本とし今日寿量の脱益を迹とするなり。久遠の釈尊の修行と今日蓮の修行とは芥子計も違わざる勝劣なり云云。
■ご真筆:現存しておりません。古写本(書写名不詳)富士大石寺蔵。

【寿量品文底大事】
問ふて曰く開目抄上に云く一念三千の法門は寿量品の文の底に秘し沈め給へりと云ふ意趣如何。
仰に云く当流の相伝惟に谷れり口外すべからずと雖も、末代の為に一筆之を残り敢て聊爾の義有るべからず。
文底とは他の門徒に於いては平文面には様々の料簡を為すと雖も聖人の御本懐に於ては全く知らざる者なり。
所謂文底とは久遠下種の法華経、名字の妙法に今日熟脱の法華経の帰入する処を志し給ふなり。
されば妙楽大師釈して云く雖脱在現具謄本種と云云。今日霊山会上の熟脱の法華経は我等が得分に非らず、断惑証理の聖者三周得悟の声聞の為なり。

さて下種の法華経は久遠名字の妙法なり。然れば日蓮聖人本因妙の修行を手本として妙法蓮花経の五字を余行に亘さずして下種し給ふ者なり。一毫未断の我れ等末代嬰児の一切衆生、妙法の名字を聞いて持つ処に即身成仏を遂ぐるなり。誠に我れ等が為に有り難き法相なり。 
若し余行に亘さば一部の法華経なるべきなり。夫れを宗旨の本意とは沙汰せざるなり。
されば一所の所判に末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し。乃至妙法蓮華経に余行を交へばゆゝしき僻事なりと遊ばさるゝ此の意なり、秘すべきなり。

南無妙法蓮華経 日蓮 日興記


【妙法蓮華経 如来寿量品第十六】
諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。
復倍上数。然今非実滅度。而便唱言。当取滅度。
如来以是方便。教化衆生。
[和訳]
諸の善男子よ、我(釈尊)本より菩薩の道を行じ、成ぜじ所の寿命は、今猶、未だ尽きず、
復た上の数に倍せり。然して今、実の滅度に非ざれど、而して便を唱えて当に滅度を取るべしと言わん。
如来は是の方便を以て衆生を教化せり。




by johsei1129 | 2016-01-29 18:51 | 血脈・相伝・講義 | Trackback | Comments(0)
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