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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 05日

日蓮門下の信徒教化のため「俱舎・成実・律・法相・三論・華厳・浄土・真言八宗」と法華宗の違目を詳細に説いた【八宗違目抄】

【八宗違目抄】
■出筆時期:文永九年(1272)二月十八日 五十一歳御作。
■出筆場所:佐渡 塚原三昧堂にて。
■出筆の経緯:本抄は富木常忍に当てられた書で、俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の南都六宗と
浄土宗・真言の二宗を加えた八宗と天台宗、及び法華宗の違いについて、日蓮の弟子・信徒の教化のために分かりやすく記された書となっております。
■ご真筆:京都市 妙顕寺所蔵。

【八宗違目抄 本文】

記の九に云く「若し其れ未だ開せざれば法報は迹に非ず若し顕本し已れば本迹各三なり」文句の九に云く「仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」

   法身如来
仏  報身如来
  応身如来

   正因仏性
衆生 了因仏性
   縁因仏性

衆生の仏性  小乗経には仏性の有無を論ぜず。
      華厳・方等・般若・大日経等には衆生本より正因仏性有つて了因・縁因無し。
      法華経には本より三因仏性有り。

文句の十に云く「正因仏性法身の性なりは本当に通亙す、縁・了仏性は種子本有なり今に適(はじ)むるに非ざるなり」

法華経第二に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり」 主・国王・世尊なり。
        「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」 親父なり。
        「而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護をなす」導師。「寿量品に云く我も亦為世の父」文。

主- 国王 報身如来
師- 応身如来
親- 法身如来

五百問論に云く「若し父の寿の遠を知らずして復父統(ふとう)の邦(くに)に迷わば徒らに才能と謂うとも全く人の子に非ず」又云く「但恐らくは才一国に当るとも父母の年を識らざらんや」
古今仏道論衡(こう)道宣の作に云く「三皇已前は未だ文字有らず但其の母を識つて其の父を識らず禽獣(きんじゅう)に同じ鳥等なり」等云云、慧遠法師周の武帝を詰る語なり

倶舎宗
成実宗  一向に釈尊を以て本尊と為す爾りと雖も但応身に限る。
律宗

華厳宗
三論宗 釈尊を以て本尊と為すと雖も法身は無始無終・報身は有始無終・応身は有始有終なり。
法相宗

真言宗 一向に大日如来を以て本尊と為す二義有り。一義に云く大日如来は釈迦の法身なり。 一義に云く大日如来は釈迦の法身には非ず。
但し大日経には大日如来は釈迦牟尼仏なりと見えたり人師よりの僻見(びゃっけん)なり。

浄土宗 一向に阿弥陀如来を以て本尊と為す。

法華宗より外の真言等の七宗・並に浄土宗等は釈迦如来を以て父と為すことを知らず、例せば三皇已前の人・禽獣に同ずるが如し鳥の中に鷦鷯鳥(しょうりょうちょう)も鳳凰鳥(ほうおうちょう)も父を知らず獣の中には兎も師子も父を知らず、三皇以前は大王も小民も共に其の父を知らず天台宗よりの外真言等の諸宗の大乗宗は師子と鳳凰(ほうおう)の如く小乗宗は鷦鷯(しょうりょう)と兎等の如く共に父を知らざるなり。
華厳宗に十界互具一念三千を立つること澄観の疏(じょ)に之有り。
真言宗に十界互具一念三千を立つること大日経の疏に之を出す。
天台宗と同異如何、天台宗已前にも十界互具・一念三千を立つるや、記の三に云く「然るに衆釈を攅(あつ)むるに既に三乗及び一乗・三一倶に性相等の十有りと許す何(なん)すれぞ六道の十を語らざるや」此の釈の如くんば天台已前五百余年の人師三蔵等の法華経に依る者一念三千の名目を立てざるか。

問うて云く華厳宗は一念三千の義を用いるや華厳宗は唐の則天皇后の御宇に之を立つ、答えて云く澄観の疏三十三清涼国師に云く「止観の第五に十法成乗を明す中の第二に真正発菩提心○釈して云く然も此の経の上下の発心の義は文理淵博(もんりえんばく)にして其の撮略(さつりゃく)を見る故に取つて之を用い引いて之を証とす」と、二十九に云く「法華経に云く唯仏与仏等と天台云く○便(すなわ)ち三千世間を成すと彼の宗には此れを以つて実と為す○一家の意理(こころ)として通ぜざる無し」文。

華厳経に云く旧訳には功徳林菩薩之を説くと、新訳には覚林菩薩之を説くと、弘決には如来林菩薩と引く「心は工(たくみ)なる画師の種種の五陰を画くが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾(しか)なり仏の如く衆生も然なり心と仏と及び衆生と是の三差別無し若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば当に是くの如く観ずべし心は諸の如来を造ると」

法華経に云く此れは略開三の文なり仏の自説なり「所謂諸法とは如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」又云く「唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」
蓮華三昧(さんまい)経に云く「本覚心・法身常に妙法の心蓮台に住して本より来(このか)た三身の徳を具足し三十七尊金剛界の三十七尊なり心城に住したまえるを帰命したてまつる・心王大日遍照尊・心数恒沙・諸(もろもろ)の如来も普門塵数(ふもんじんすう)・諸の三昧・因果を遠離(おんり)して法然として具す無辺の徳海・本より円満還つて我・心の諸仏を頂礼す」、仏蔵経に云く「仏一切衆生心中に皆如来有(いま)して結跏趺坐(けっかふざ)すと見そなわす」文。

問うて云く真言宗は一念三千を用いるや、答えて云く大日経の義釈善無畏・金剛智・不空・一行に云く此の文に五本有り十巻の本は伝教弘法之を見ず智証之を渡す「此の経は是れ法王の秘宝なり妄(みだ)りに卑賤(ひせん)の人に示さざれ、釈迦出世して四十余年に舎利弗の慇懃(おんごん)なる三請に因りて方(まさ)に為に略して妙法蓮華の義を説きたまいしが如し、今此の本地の身又是れ妙法蓮華最深の秘処なるが故に、寿量品に云く常在霊鷲山・及余諸住処・乃至・我浄土不毀・而衆見焼尽と即ち此の宗の瑜伽(ゆが)の意ならくのみ又補処(ふしょ)の菩薩の慇懃(おんごん)の三請に因つて方(まさ)に為に之を説けり」と、又云く「又此の経の宗は横に一切の仏教を統(す)ぶ、唯蘊(ゆいおん)無我にして世間の心を出で蘊(おん)の中に住すと説くが如きは即ち諸部の小乗三蔵を摂す、蘊(おん)の阿頼耶(あらや)を観じて自心の本不生を覚ると説くが如きは即ち諸経の八識・三性・無性の義を摂す、極無自性心と十縁生の句を説くが如きは即ち華厳・般若の種種の不思議の境界を摂して皆其の中に入る、如実知自心を一切種智と名づくと説くが如きは則ち仏性涅槃経なり一乗法華経なり如来秘蔵大日経なり皆其の中に入る種種の聖言に於て其の精要を統(す)べざること無し、毘盧遮那(びるしゃな)経の疏伝教弘法之を見る第七の下に云く天台の誦経は是れ円頓(えんどん)の数息(すそく)なりと謂う是れ此の意なり」と。

大宋の高僧伝巻の第二十七の含光(ごんこう)の伝に云く「代宗(だいそう)光を重んずること 玄宗代宗の御宇に真言わたる含光は不空三蔵の弟子なり 不空を見るが如し勅委(ちょくい)して五台山に往(ゆ)いて功徳を修せしむ、時に天台の宗学湛然(たんねん) 妙楽・天台第六の師なり 禅観を解了して深く智者天台なりの膏腴(こうゆ)を得たりと、嘗つて江淮(こうわい)の僧四十余人と清涼の境界に入る、湛然・光と相見て西域伝法の事を問う、光の云く一国の僧空宗を体得する有りと問うて智者の教法に及ぶ、梵僧云く曾て聞く此の教邪正を定め偏円を暁(さと)り止観を明して功第一と推す再三・光に嘱(しょく)す或は因縁あつて重ねて至らば為に唐を翻(ひるがえ)して梵と為(な)して附し来れ某(それがし)願くは受持せんと屡屡(しばしば)手を握つて叮嘱(ていしょく)す、詳(つまびら)かにするに其の南印土には多く竜樹の宗見を行ず故に此の流布を願うこと有るなりと、菩提心義の三に云く一行和上は元是れ天台一行三昧の禅師なり能く天台円満の宗趣を得たり故に凡そ説く所の文言義理動(やや)もすれば天台に合す、不空三蔵の門人含光(ごんこう)・天竺に帰るの日・天竺の僧問わく伝え聞く彼の国に天台の教有りと理致・須(もち)ゆ可くば翻訳(ほんやく)して此の方に将来せんや云云、此の三蔵の旨も亦天台に合す、今或る阿闍梨(あじゃり)の云く真言を学せんと欲せば先ず共に天台を学せよと而して門人皆瞋(いか)る」云云。

問うて云く華厳経に一念三千を明すや、答えて云く「心仏及衆生」等云云、止観の一に云く「此の一念の心は縦ならず横ならず不可思議なり但己のみ爾(しか)るに非ず仏及び衆生も亦復是(か)くの如し、華厳(けごん)に云く心と仏と及び衆生と是の三差別無しと当に知るべし己心に一切の法を具することを」文、弘の一に云く「華厳の下は引いて理の斉(ひとし)きことを証す、故に華厳に初住の心を歎じて云く心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然り心と仏と及び衆生と是の三差別無し諸仏は悉く一切は心に従つて転ずと了知したまえり、若し能く是くの如く解すれば彼の人真に仏を見たてまつる、身亦是れ心に非ず心も亦是れ身に非ず一切の仏事を作すこと自在にして未曾有なり、若し人・三世一切の仏を知らんと欲求せば応に是くの如き観を作すべし心・諸の如来を造(な)すと、若し今家の諸の円文の意無くんば彼の経の偈の旨・理として実に消し難からん」と。

三蔵教 小乗の四阿含経  心生の六界 心具の六界を明さず。
通教 大乗 心生の六界 亦心具を明さず。
別教  思議の十界 心生の十界 心具の十界を明さず。

  爾前・華厳等の円
円教 -------不思議の十界互具。
  法華の円

止の五に云く「華厳(けごん)に云く心は工(たくみ)なる画師の種種の五陰(おん)を造るが如く一切世間の中に心より造らざること莫(な)しと、種種の五陰とは前の十法界の五陰の如きなり」又云く「又十種の五陰・一一に各十法を具す謂く如是相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等なり」文、又云く「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界には即ち三千種の世間を具す此(こ)の三千・一念の心に在り」文、弘の五に云く「故に大師・覚意三昧・観心食法及び誦経法・小止観等の諸の心観の文に但自他等の観を以て三仮を推せり並びに未だ一念三千具足を云わず、乃至観心論の中に亦只三十六の問を以て四心を責むれども亦一念三千に渉(わた)らず、唯四念処の中に略して観心の十界を云うのみ、故に止観に正しく観法を明すに至つて並びに三千を以て指南と為せり、乃ち是れ終窮究竟(しゅうぐくきょう)の極説なり、故に序の中に説己心中所行法門と云う良(まこと)に以(ゆえ)有るなり、請う尋ね読まん者心に異縁無かれ」、止の五に云く「此の十重の観法は横竪(おうじゅ)に収束し微妙精巧なり初は則ち境の真偽を簡(えら)び中は則ち正助相添い後は則ち安忍無著(あんにんむじゃく)なり、意円(こころまど)かに法巧みに該括周備(がいかつしゅうび)して初心に規矩(きく)し将に行者を送つて彼の薩雲に到らんとす初住なり闇証の禅師・誦文の法師の能く知る所に非ざるなり、蓋(けだ)し如来積劫(しゃくごう)の懃求(ごんぐ)したまえる所・道場の妙悟したまえる所・身子の三請する所・法譬(ほっぴ)の三たび説く所正しく滋に在るに由るか」、

弘の五に云く「四教の一十六門乃至八教の一期の始終に遍せり今皆開顕して束ねて一乗に入れ遍(あまね)く諸経を括(くく)りて一実に備う、若し当分を者(いわば)尚偏教の教主の知る所に非ず況(いわ)んや復た世間闇証の者をや○、蓋(けだ)し如来の下は称歎なり十法は既に是れ法華の所乗なり是の故に還つて法華の文を用いて歎ず、迹の説に約せば即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し寂滅(じゃくめつ)道場を以て妙悟と為す、若し本門に約せば我本行菩薩道の時を指して以て積劫と為し本成仏の時を以て妙悟と為す、本迹二門只是れ此の十法を求悟せるなり、身子等とは寂場にして説かんと欲するに物の機未だ宜(よろし)からず、其の苦に堕せん事を恐れて更に方便を施す四十余年種種に調熟し法華の会に至つて初めて略して権を開するに動執生疑(どうしゅうしょうぎ)して慇懃(おんごん)に三請す、五千起ち去つて方(まさ)に枝葉無し、四一を点示して五仏の章を演べ上根の人に被るを名づけて法説と為し、中根は未だ解せざれば猶譬喩(ひゆ)を悕(ねが)う下根は器劣にして復た因縁を待つ、仏意聯綿(れんめん)としてこの十法に在り、故に十法の文の末に皆大車に譬えたり今の文の憑(よ)る所意此に在り、惑者は未だ見ず尚華厳を指す唯華厳円頓(えんどん)の名を知つて而して彼の部の兼帯(けんたい)の説に昧(くら)し、全く法華絶待の意を失つて妙教独顕の能を貶挫(へんざ)す、迹本の二文を験して五時の説を撿(かんが)うれば円極謬らず何ぞ須らく疑を致すべけん是の故に結して正しくこに在るかと曰う」、又云く「初に華厳を引くことを者(いわば)重ねて初に引いて境相を示す文を牒(ちょう)す、前に心造と云うは即ち是れ心具なり故に造の文を引いて以て心具を証す、彼の経第十八の中に功徳林菩薩の偈を説いて云うが如く心は工(たくみ)なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世界の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり心と仏と及び衆生と是の三差別無し、若し人三世の一切の仏を知らんと欲求せば応に是くの如く観ずべし心は諸の如来を造ると今の文を解せずんば如何ぞ偈の心造一切三無差別を消せん」文、諸宗の是非之を以て之を糾明す可きなり、恐恐謹言。

二月十八日 日 蓮 花押



by johsei1129 | 2019-10-05 17:36 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)
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