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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 09月 14日

但恃む所は妙法蓮華経第七の巻の後五百歳、於閻浮提広宣流布の文か、と示された【御輿振御書】

【御輿振(みこしぶり)御書】
■出筆時期:文永六年(西暦1269)三月一日 四十八歳御作。
■出筆場所:鎌倉 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は従来、京都遊学中の三位房日行が比叡山の山堂炎上、並びに御輿振の日記を大聖人に送った事への返書とつたえられております。また出筆時期も文永六年とも伝えられており、その場合は鎌倉の草庵で出筆されたと思われます。また文永十年出筆の説は佐渡流罪中に書かれたことになり「事事紙面に尽し難し、早早見参を期す」の文とはそぐわないと思われます。
尚、御輿振とは、比叡山の僧侶等が、朝廷に自分たちの訴えを聞き入れさせようとして強訴したことをいい、大聖人本書で「滅するは生ぜんが為・下るは登らんが為なり。山門繁昌の為に是くの如き留難を起すか」と推察されておられます。また比叡山の中堂炎上については「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)・雞頭摩寺(けいずまじ)・漢土には天台山・正像二千年の内に以て滅尽せり」と断ずるとともに「但恃む所は妙法蓮華経第七の巻の後五百歳・於閻浮提・広宣流布の文か」と記され、いよいよ末法の広宣流布の時が来ていることを示唆されておられます。
また京都の公家に説法するなどして才智溢れた三位房でしたが【法門申さるべき様の事】では「総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば、始めはわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるう」と名聞名利に走る三位房を厳しく諫められておられますが、熱原の法難で敵方に寝返り日蓮門下の弟子信徒を弾圧、その悪行の報いで横死することになります。
■ご真筆:高知市 要法寺(断簡:末尾四十五字)所蔵。
但恃む所は妙法蓮華経第七の巻の後五百歳、於閻浮提広宣流布の文か、と示された【御輿振御書】_f0301354_19471720.jpg

















[真筆原文]
時之尺也 滅為生下為登也
為山門繁昌起如是留難歟
事々難盡紙上 早々期
見参 謹言。
三月一日
日蓮花押
御返事

【御輿振御書 本文】

 御文並びに御輿振の日記・給(た)び候いぬ、悦び入つて候。
 中堂炎上の事・其の義に候か、山門破滅の期・其の節に候か。
 此等も其の故無きに非ず。天竺には祇園精舎・雞頭摩寺、漢土には天台山、正像二千年の内に以て滅尽せり。
 今末法に当つて日本国計(ばか)りに叡山(えいざん)有り。三千界の中の但此の処のみ有るか。定めて悪魔一跡に嫉(ねたみ)を留むるか。
 小乗権教の輩も之を妬(ねた)むか。随つて禅僧・律僧・念仏者、王臣に之を訴へ三千人の大衆は我が山・破滅の根源とも知らず師檀共に破国・破仏の因縁に迷えり。
 但恃む所は妙法蓮華経第七の巻の後五百歳・於閻浮提・広宣流布の文か。又伝教大師の「正像稍(やや)過ぎ已つて末法太(はなは)だ近きに有り。法華一乗の機・今正しく是れ其の時なり」の釈なり。
 滅するは生ぜんが為・下るは登らんが為なり。山門繁昌の為に是くの如き留難を起すか。事事紙面に尽し難し。早早見参を期す、謹言。

 三月一日      日 蓮 花 押

 御返事




by johsei1129 | 2019-09-14 22:06 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)


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