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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 01月 16日

報恩抄文段 下十七

承久(じょうきゅう)の乱の大旨

 後日、承久記を見るべし。東鑑並びに御書の意に(じゅん)ず。

 (そもそも)去ぬる元暦(げんりゃく)年中、(より)(とも)平家を追討(ついとう)し給う時、御白河(ごしらかわ)院叡(いんえい)(かん)(あま)り、六十六箇国の総追捕使(そうついぶし)に補せらる。是れより武家始めて諸国に守護(しゅご)を立て、庄園(しょうえん)地頭(じとう)を置く。頼朝の長男頼家(よりいえ)、次男(さね)(とも)続いて将軍の武将に(そなわ)る。是れを三代将軍と号す。頼家は実朝の(ため)()たれ、実朝は()(ぎょう)の為に討たれて、父子三代(わず)かに四十二年にして()きぬ。

其の後、頼朝の(しゅうと)時政の子息(よし)(とき)自然(じねん)に天下の権柄(けんぺい)()り、勢い(ようや)く四海を(おお)わんと欲す。

此の時太上(だじょう)天皇は後鳥羽院なり。武威(ぶい)(しも)(ふる)い、朝憲上(ちょうけんかみ)(すた)るる事を(なげ)思召(おぼしめ)して、()ねて義時を(ほろぼ)さんとし給うに、()る時、舞女(まいめ)(かめ)(ぎく)申状(もうしじょう)()り、摂津(せっつの)(くに)長江・倉橋の両庄の地頭職を停止すべきの(よし)、二箇度宣旨(せんじ)を下さるるの(ところ)、武家(あえ)(だく)し申さず。其の故は勲功(くんこう)の賞に(つの)り、定補(ていほ)(やから)所以(ゆえ)なく(あらた)(がた)きの(よし)を申す。()って逆鱗(げきりん)最も(はなは)だし。

(これ)()多くの子細之(しさいこれ)るによって、()ねて諸寺諸山の貴僧・高僧に命じて、内々調伏(じょうぶく)の法を(ぎょう)ぜしむ。(まさ)しく承久三辛巳(かのとみ)五月十五日に伊賀の太郎(みつ)(すえ)()()る。是れ(よし)(とき)を打ち給わんとての門出(かどで)なり。

 此の事、十五日に京都の飛脚(ひきゃく)、同じき十九日に鎌倉に下著(げちゃく)し、一門の(ろう)(じゅう)群集して、評議(ひょうぎ)(まちまち)に分かれたり。(あるい)は云く「関を足柄(あしがら)(はこ)()の両道に固めて(あい)()つべきか」云云。大官令(かく)()云く「群議一旦(いったん)(しか)るべし。(ただ)し東士一揆(いっき)せずんば、関を守って日を(わた)るの条、(かえ)って敗北(はいぼく)の因たるべし。運を天道に(まか)せ、早く軍兵(ぐんぴょう)を京都に発遣(はっけん)すべし」云云。

此の義最も(しか)るべしとて、国々の諸士に()(さつ)(もっ)()(なが)し、義時の長男武蔵守(やす)(とき)、同じき二十一日の夜門出す。其の夜は藤沢左衛門(きよ)(ちか)(いえ)に宿し、同じき二十二日京都に進発(しんぱつ)す。其の(ぜい)(わず)かに十八騎なり。東国の軍勢(ぐんぜい)追々(おいおい)()せ付け馳せ付け、同じき二十五日には其の(ぜい)総じて十九万余騎なり。此の勢を三手に分け、相州・武州大将にて十万余騎は東海道より()(のぼ)る。一手は武田太郎信光(のぶみつ)等を大将として、五万余騎は東山道(とうざんどう)より責め上がる。一手は式部丞(しきぶのじょう)(とも)(とき)等を大将として、四万余騎は北陸道より責め上り、同じき六月十四日に宇治(うじ)勢多(せた)を責め破り、洛陽(らくよう)に打入って三院を()()り三国へ流し奉る。所謂(いわゆる)後鳥羽院は隠岐(おき)の国、(じゅん)徳院(とくいん)は佐渡の国、土御門(つちみかど)阿波(あわ)の国。終には()の国々にして(かく)れさせ給いぬ。


                   つづく
報恩抄文段下 目次



by johsei1129 | 2016-01-16 12:44 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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