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日蓮大聖人『御書』解説

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2016年 01月 02日

報恩抄文段 下一 悪師は無量無辺の人を導き、たぼらかし、無間地獄に堕とす。

報恩抄文段下本



  第八段 日蓮大聖人の諫暁



日本国は()(かく)智証(ちしょう)弘法(こうぼう)の流なり等

 此の(しも)は次に末法今時は(ただ)(れん)()一人のみ法華経の行者(ぎょうじゃ)なることを明かす、亦二と()す。初めに(さき)を結して(のち)を生じ、次に「かかる謗法(ほうぼう)の国」の下は、(まさ)しく明かす。

 初めの文、(また)三と為す。初めに正しく結し、次に例を引き、三に「いわ()うや」は結なり。 

文に云う「大荘厳(しょうごん)仏の末・一切(いっさい)明王仏(みょうおうぶつ)の末法」等とは、此の下は次に例を引くなり。

(ごん)抄に云く「諸法無行経に明王仏の末法の事を()く、()れは()(こん)(しょう)()の事なり」云云。此の中に「明王仏」とは、是れあやまりなり。諸法無行経には子音しおん王仏のうぶつの末法の喜根勝意の事を説く故なり。の八本二十七、大論の第六・二十二に云云。啓蒙けいもうに云く「仏蔵経の説相、大荘厳仏の滅後にがんの四比丘びく普事ふじ比丘を謗じて無間むけんち、久久ののち、一切明王仏の法の中に於て出家しゅっけ修道すといえども、得道とすること無く、亦無間に堕つ云云。故に今の文、此の始終しじゅうって二仏をいだす。別の因縁いんねんあらず」等云云。

  今(いわ)く、(おそ)らくは是れ別の因縁なり。謂く、初めに仏蔵経の大荘厳(だいしょうごん)(ぶつ)の末法の()(がん)等に例し、次に諸法無行経の師子音王仏の末法の(しょう)()等に例するなり。故に「一切明王仏」と云うは、恐らくは此の文(あやま)れり。(まさ)に「師子音王仏」に作るべきなり。

  問う、何を(もっ)て此の文の謬れることを知るを得んや。

  答う一には(すで)に彼の末法を引き、()の末法に例す故。今「末法のごとし」と云うが故なり。(しか)るに仏蔵経の一切明仏は末法の事を説くに非ず、(ただ)ちに出世の時を説く。故に彼の文に云く「然る後に一切明仏に()うことを得て」等云云。此の文分明(ふんみょう)なり。

二には兄弟抄に例して当文の意を(すい)するが故に。

御書十六・七に云く「大荘厳仏の末の六百八十億の檀那(だんな)等は苦岸等の四比丘に・たぼ()らかされて普事(ふじ)比丘(びく)(あだ)みてこそ乃至無間(むけん)地獄を()しぞかし、一切明(師子音)王仏の末の男女等は(しょう)()比丘と申せし持戒の僧をたのみて()(こん)比丘を笑うてこそ無量劫が間・地獄に()ちつれ」等略抄。

  此の文、明王仏と云うと(いえど)も、既に勝意比丘等と云う。明らかに知んぬ「一切明王仏」の五字、(まさ)しく是れ(あやま)りなり。彼を以て(これ)に例するに、(あに)(しか)らざんや。

(まさ)に知るべし、兄弟抄及び当抄は同じく是れ建治二年の御述作なり。(あるい)は恐らく()同凡夫(どうぼんぷ)の日、臨時の御失念ならんか。(みょう)(らく)大師、夢に(しょう)(しん)に告げて云く「()れは是れ臨時の失錯(しっさく)不慮(ふりょ)筆謬(ひつびゅう)なり。取捨(しゅしゃ)情に(まか)せて、改定を(はばか)ること(なか)れ」等云云。宗祖の御意も(また)(また)(しか)るべし。故に(はばかり)少なからずと雖も(つつし)んで之を(あらた)むるのみ。

 問う、(なお)分明の証文之有りや。

  答う、諌暁八幡抄二十七・二十二に云く「弘法(こうぼう)()の三大師は法華経の名をかきあげて戯論(けろん)なんどかかれて四百余年一切衆生を皆謗法(ほうぼう)の者となせり、例せば大荘(だいしょう)厳仏(ごんぶつ)の末の四比丘が六百億那由佗(なゆた)の人を皆無間(むけん)地獄に(おと)せると、師子音王仏の末の(しょう)()比丘が無量無辺の持戒の四衆を皆阿鼻(あび)大城(だいじょう)に導きしと」(取意)。

  此の文分明なり。(すなわ)ち当抄の意に同じきなり。八幡抄は弘安三年の御述作(ごじゅっさく)なり。



報恩抄文段下 目次



by johsei1129 | 2016-01-02 19:16 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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