一 それは・いかにもあれ慈覚・智証の等文。
此の下は次に先師の違背を釈成するなり。
一 かうせめ候もをそれにては候へども等文。
此の下は次に破責の所以を明かすなり。
是れ則ち「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」及び「寧ろ身命を喪うとも、教を匿さざれ」等の厳命を固く守るが故なり。是の故に「いのちをまとに・かけて」等と云うなり。
一 されば粮米を等文。
此の下は第三に総結の文なり。此れ亦二と為す。初めに結して破し、次に覚・証の謗法、弘法に超過するを示すなり。
文に云う「已今当の経文をやぶらせ給う」とは、覚・証の理同事勝は即ち三説超過の経文を破れり。若し爾らば、豈三仏の怨敵に非ずや。
文に云う「弘法大師こそ」等文。此の下は次に覚・証の謗法、弘法に超過するを示す、亦三と為す。初めに正しく示し、次に「例せば」の下は譬を挙げ、三に「慈覚」の下は譬を合す。
文に云う「弟子も用ゆる事なし」とは、撰時抄下十三に云く「弘法の門人等は、大師の法華経を華厳経に劣るとかかせ給へるは、我がかたながらも少し強きやうなれども」等云云。
つづく
報恩抄文段上 目次