【土木殿御返事】
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■出筆時期:文永10年(1273) 十一月三日 五十二歳御作
■出筆場所:佐渡国 一の谷入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本書は富木常忍が佐渡の大聖人のもとに白小袖を送られたことへの返書となっております。また「仕(つかい)候なり。褒美に非ず実に器量者なり」と記され、富木常忍が大聖人に常随給仕するために遣わされた子息(養子)の伊与房について優れた人物であると称えられておられます。
さらに石灰虫が大発生し、長雨とあいまって作物が被害を受け「方方(かたがた)死難脱れ難きか」と示し、信徒の代表格であった富木常忍に佐渡の窮状を伝えられておられます。
伊与房は後に六老僧の一人となった日頂上人で、大聖人御遷化の後は日興上人に仕え重須で弘教に励みます。
※本消息の前半部分は従来真筆が不明となっておりましたが、弘安四年十月二十七日作の『越州嫡男並妻尼事』が該当すると分かり二つの御書を合わせて文永10年十一月三日作の 『土木殿御返事』と致します。なお前半部分は北条氏一門の北条時光の流罪事件を示しておられます。※2016.2.10修正。
■ご真筆:前半箇所:大阪市 坂田氏所蔵。

【御真筆 後半箇所:京都市 本圀寺所蔵。】
【御真筆 後半箇所:京都市 本圀寺所蔵】
【土木殿御返事 本文】
九月九日の雁鳥(てがみ)同じき十月廿七日飛来仕り候ひ了んぬ。
抑(そもそも)越州の嫡男並びに妻尼の御事、是非を知らざれども・此の御一門の御事なれば謀反よりの外は異島流罪は過分の事か。
将又・四条三郎左衛門尉殿の便風、今に参府せざるの条何事ぞや。定めて三郎左衛門尉殿より申す旨候か。
伊与殿の事・存の外の性情にして智者なり。当時学問隙(ひま)無く[ここまで従来『越州嫡男並妻尼事』と命名されていた御書]仕(つかい)候なり。褒美に非ず・実に器量者なり。来年正月・大進阿闍梨房と越中に之を遣わし去るべく候。
白小袖一つ給い候い畢んぬ。
今年日本国一同に飢渇の上、佐渡の国には七月七日已下・天より忽ちに石灰虫と申す虫と雨等にて一時に稲穀損し、其の上疫病処処に遍満し、方方死難脱れ難きか。事事紙上に尽し難く候。恐恐謹言。
十一月三日 日蓮 花押
土木殿御返事