人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2015年 12月 16日

報恩抄文段 上十二  「迹門は二乗鈍根の菩薩を以て怨嫉(おんしつ)と為し、本門の中には菩薩の中の近成(ごんじょう)を楽(ねが)う者を以て怨嫉と為す」


一 むべなるかなや、法華経の文に云く等

  此の下は次に広く値難(ちなん)(もっ)て法華の行者を(あらわ)す、亦二と為す。初めに経文を引き、次に引文を釈す。初めに経文を引く意は、(いわ)く、二辺の中には(まさ)に言うべし、若し言うならば(すなわ)ち大難必ず(きそ)い起るべし。大難競い起るとも身命(しんみょう)()しまずして謗法を呵責(かしゃく)して、()く大難を忍んで法華経の行者と(あらわ)れ、父母・師匠()の大恩を報ずべしとなり。

「むべなるかなや、法華経の文に云く」等云云は、或は「(うれえ)なるかなや」に作り、(あるい)は「喜ばしきかなや」に作る。御直書(じきしょ)には「(むべ)なるかなや」と云云。「むべなるかなや」とは「げにも」と()う意なり云云。

一 ()かも(この)経は等

  此の文に三意を(ふく)む。中正の六・五十五。

一 釈迦仏を摩耶(まや)夫人はらませ給いたりければ等

  此の下は次に引文を釈す、亦二と()す。初めに「如来の現在にすら(なお)(おん)(しつ)多し」を釈し、次に「(いわん)んや滅度の(のち)をや」の文を釈す。初めの文(また)二と為す。初めに遠き難、次に近き(さわ)。初めの文(また)二と為す。初めに釈、次に「(これ)()の大難」の下は結。

  文に云う「法華経と申す利剣(りけん)をはらみたり」とは、(ただ)一大事(いちだいじ)(もっ)て世に出現し(もろもろ)所作(しょさ)有るは常に一事の為の故なり。一乗要決(ようけつ)上二に云く「金鏘(こんず)()(みゃく)()れ一乗の弄引(ろういん)なり」と釈したる是れなり。

初めの釈の文中に(しばら)く七難を挙ぐ。所謂(いわゆる)、一には母胎(ぼたい)毒害(どくがい)の難、二には初生降(しょしょうこう)(しゃく)の難、三には乳中(にゅうちゅう)置毒(ちどく)の難、四には(しゅつ)(じょう)毒蛇(どくじゃ)の難、五には提婆擲(だいばちゃく)(しゃく)の難、六には瑠璃(るり)殺釈(せっしゃく)の難、七には闍王酔(じゃおうすい)(ぞう)の難なり。開目抄上四十に云く「千万の眷属(けんぞく)は酔象にふまれ」等云云。故に「御弟子(みでし)等を殺す」とは闍王酔象の難なり。

一 近き難には舎利(しゃり)(ほつ)目連(もくれん)

  記の八の意に云く「迹門は二乗(にじょう)(どん)(こん)の菩薩を(もっ)怨嫉(おんしつ)と為し、本門の中には菩薩の中のごん(じょう)(ねが)う者を以て怨嫉と為す」と云云。

一 況滅度後(きょうめつどご)と申して等

  此の下は次に「況んや滅度の後をや」の文を釈す、(また)二と為す。初めに略して釈し、次に「付法蔵(ふほうぞう)」の下は広く釈す。

  文に云う「少しも(とが)なくとも大難(だいなん)度度(たびたび)()う人をこそ」等文。文意は、少しも世間の(とが)なく法華経の為に大難に度々()う人々を、滅後法華の行者とはしり候はめとなり。

「況滅度後」の文に(つう)(べつ)あり。通じては三時に(わた)り、別しては末法に()り。今は別意に(やく)するなり。故に、前に「末代(まつだい)凡夫(ぼんぷ)(いか)でか(しの)ぶべき」等と云う、之を思え。

一 付法蔵の人人等

  此の下は次に広く三時に約し三国に()す。釈(また)三と為す。初めに正法(しょうほう)(がっ)()四依(しえ)値難(ちなん)、次に像法の弘通怨嫉(ぐつうおんしつ)、三に末法日本の蓮師の弘通(ぐつう)怨敵(おんてき)

提婆(だいば)菩薩」は統紀(とうき)五・二十、「師子(しし)尊者(そんじゃ)」は啓蒙(けいもう)九・十九。「仏陀(ぶっだ)(みっ)()」は啓蒙十三・四十五、「竜樹(りゅうじゅ)菩薩」は啓蒙八・二十九。

文に「七年・十二年」と云うは、仏陀蜜多十二年、竜樹菩薩七年なり。「馬鳴(めみょう)菩薩」は啓蒙八・六十三。「如意論師(にょいろんし)」は西域記(せいいきき)二・十九に「党援(とうえん)の衆と大義を(きそ)うこと無かれ。群迷(ぐんめい)の中に正論(しょうろん)を弁ずること無かれ」と。

 問う、此等の四依(しえ)は大小(とき)(したが)う、何ぞ値難を()って法華の行者(ぎょうじゃ)(あらわ)すと云うや。

  答う、外用(げゆう)(しか)りと(いえど)も、今は内証(ないしょう)の同じきに約する故なり。啓蒙九・二十一。
 故に開目抄下四十に云く 「提婆(だいば)菩薩乃至師子(しし)尊者(そんじゃ)の二人は人に殺されぬ、(これ)()は法華経の行者にはあらざるか」と云云。
下の文三十四に云く「されば内証は同じけれども法の流布(るふ)迦葉(かしょう)阿難(あなん)よりも馬鳴(めみょう)竜樹(りゅうじゅ)等はすぐ()れ」等云云。


                 つづく


by johsei1129 | 2015-12-16 21:56 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


<< GOSHO 立正安国論51 施...      GOSHO 立正安国論50 勘... >>