第四段 在世及び正法時代の値難
一 問て云く華厳の澄観等乃至仏の敵との給うか文。
此の下は次に広く諸宗の謗法を呵責するに、亦二と為す。初めに問、次に答。
初めの問の起は、既に此等の人々を指して「諸仏の大怨敵」と云う。故に今驚きて問難するなり。問の意に多くの意あり。今略して之を示す。
問の意に謂く、凡そ「華厳の澄観」とは、即ち清涼国師の御事なり。清涼山に居する故に清涼国師と名づく。亦唐の徳宗皇帝「能く聖法を以て朕が心を清涼にす」と云たまうが故に清涼国師と号す。身の長九尺四寸、手を垂るれば膝を過ぐ。目は夜も光を発し、昼は視て瞬がず。才は二筆を供え、声韻は鐘の如し。十一にして出家し、法華経を誦す。後普く諸宗を学ぶ。妙楽大師に従い天台止観、法華の疏等を習う。而る後、五台山大華厳寺に居す。将に華厳の疏を撰せんとする時に、金人の光明を呑むと夢み、常に付嘱せんことを思いたまうに、或る時、身化して大竜と成り、亦化して一千の小竜と成り、分散して去ると夢む。生れて九朝を歴、七帝の国師と為る。春秋一百二歳にして化す。
「三論の嘉祥」とは即ち吉蔵法師なり。後、嘉祥寺に居す、故に嘉祥大師と云う。興皇の入室なり。七歳にして出家し、世に学海と称す。心に難伏の慧を包み、口に流るるが如きの弁を瀉ぐ。随の煬帝、勅して京師日厳寺に住せしむ。唐の高祖詔して延興寺に居く。平時、妙経二千部を写造し、玄論義疏を述ぶ。法華経を講ずること三百遍、大品・華厳・大論各数十遍、普く章疏を著す。臨終の日、死不怖論を製し、筆を投じて化す。
「法相の慈恩」とは玄奘三蔵の御弟子、唐の太宗皇帝の御師なり。梵漢を暗に浮べ、一切経を胸に湛え、仏舎利を筆末より雨らし、牙より光を放つ。朝に講じ夕に述作すと云云。守護抄に「玄賛十巻を撰し、専ら法華経を讃す」と出でたり。世人は日月の如く恭敬し、後世は眼目の如く渇仰す。智行兼備の高徳なり。
つづく
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