【妙法尼御返事】
■出筆時期:弘安元年(1278年)五月一日 五十七御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は松野入道に送られておりますが実質の内容は駿河国・岡安に住む妙法尼への消息となっております。妙法尼は六老僧の一人、日持上人の父である松野六郎左衛門入道の縁戚と伝えられており、本消息の追伸「日月は地におち須弥山はくづるとも、彼の女人・仏に成らせ給わん事疑いなし。あらたのもしや・たのもしや」は松野入道に妙法尼の信仰を称えていることを伝えられた文言と思われます。
尚、本消息を記された弘安元年は前年から疫病が大流行し、鎌倉幕府はこの年の五月二十六日には、日本国内二十二の社司(神主)に疫病退治の祈祷を命じられたほどでした。
大聖人はこのような厳しい状況の中、常に変わることなくご供養を続けられた妙法尼の志を「民のほねをくだける白米、人の血をしぼれるが如くなるふるさけ(古酒)を仏・法華経にまいらせ給へる女人の成仏得道、疑うべしや」と称えられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。
[妙法尼御返事 本文]
干飯(ほしいい)一斗・古酒一筒(ひとつつ)・ちまき(角粽)・あうざし(青麨)・たかんな(筍)方方の物送り給いて候。
草にさ(咲)ける花・木の皮を香として仏に奉る人、霊鷲山へ参らざるはなし。況(いわ)んや民のほね(骨)をくだける白米、人の血をしぼれるが如くなるふるさけ(古酒)を仏・法華経にまいらせ給へる女人の成仏得道、疑うべしや。
五月一日 日 蓮 花 押
妙法尼御返事
日月は地におち・須弥山はくづるとも、彼の女人・仏に成らせ給わん事疑いなし。あらたのもしや・たのもしや。