報恩抄文段 上四

　　　第一段　　 報恩の道理を明かす

　

一　夫(そ)れ老狐(ろうこ)は塚をあとにせず文。

淮南子(えなんじ)に云く「兎(うさぎ)は死して窟(いわや)に帰り狐(きつね)は死するに丘(おか)を首(まくら)にす」と文。楚辞(そじ)に云く「鳥飛んで古郷(こきょう)に帰り、狐死するに必ず丘を首にす」と云云。朱子(しゅし)の註に云く「鳥の飛んで古郷に帰るは、古巣(ふるす)を思えるなり。狐の死して必ず丘を首(まくら)にするは、其の自(みずか)ら生るる所を忘れざるなり」と。鄭(じょう)玄(げん)の註に云く「狐は穴(けつ)丘(きゅう)を以(もっ)て生る、亦(また)丘に背(そむ)いて死するに忍(しの)びざるは、恩を忘れざるなり」と。具(つぶさ)に註及び啓蒙の中に諸文を引くが如し。

一　白(はく)亀(き)は毛(もう)宝(ほう)が恩をほうず文。

　　開目抄上三十七に云く「毛宝が亀は、あをの恩をわすれず」等云云。
　「あを」は衣裳(いしょう)の類なり。漁父に衣装を与えて亀を助くる故なり。
「毛宝白亀」に即(すなわ)ち両説あり。

一には蒙(もう)求(ぎゅう)の中の註に晋書(しんしょ)の列伝(れつでん)五十一を引く。其の説は毛宝が軍士(ぐんし)に約す。直(ただ)ちに毛宝には非ざるなり。事(じ)文(ぶん)類聚(るいじゅう)の三十五も之に同じ。

二には瑯邪(ろうや)代酔(だいすい)の三十八の意は直ちに毛宝に約す。啓蒙(けいもう)六・十二に蒙求、大綱抄、盛衰記(せいすいき)二十六、之に同じ。

　　又亀を放って報を得るは、其の事甚(はなは)だ多し。唐の劉彦(りゅうげん)回(かい)水難を免(まぬか)るるの事、啓蒙の六・十二に瑯邪代酔二十一巻を引く。晋(しん)の孔愉(こうゆ)の印亀(いんき)三たび顧(かえり)みる事、蒙求の下八。楊州(ようしゅう)の厳(ごん)敬(きょう)の事、法華伝の八・十二。山陰(やまかげ)中納言(ちゅうなごん)の事、和語記の上八。但(ただ)し源平(げんぺい)盛衰記(せいすいき)の二十六には如(にょ)無僧都(むそうず)と云う。其の余は大同云云。

　　又蟹(かに)の恩を報ずる事、沙(しゃ)石(せき)の八・三。魚の恩を報ずる事、開目抄上三十六。啓蒙六・三十の註。烏(からす)の恩を報ずる事、御書十六・四十二。啓蒙二十六・八十六云云。本草(ほんぞう)に時(じ)珍(ちん)が云く「烏、この鳥初め生まるとき母に哺(ほ)すること六十日、則ち反哺(はんぽ)すること六十日、慈(じ)孝(こう)と謂(い)うべし」と云云。白(はく)氏(し)文集(もんじゅう)の一・十五に云く「慈(じ)烏(う)夜啼(よるな)く。慈烏其(そ)の母を失い、唖唖(ああ)と哀(あい)音(おん)を吐(は)く乃至鳥中(ちょうちゅう)の曽(そう)参(しん)か」文。猿の恩を報ずる事、沙石(しゃせき)八・五云云。恥ずべし、恥ずべし。是の故に之を引く。

一　予(よ)譲(じょう)といゐし者は剣(つるぎ)をのみて智(ち)伯(はく)が恩にあて文。

　　史記八十六・四。註云云。

　　問う、蒙求に云く「予譲は炭(すみ)を呑(の)む」等云云。故に応(まさ)に「炭を呑む」と云うべし。何(なん)ぞ「剣を呑む」と云うや。

　　答う、文意は炭を呑みて剣に伏(ふ)す。智伯の恩に擬(ぎ)するなり。今は是れ文を巧(たくみ)にす、故に「剣を呑む」と云うなり。健(ごん)抄に「刀を口に入れて死す」と云えるは、然(しか)るべからざるか。

一　弘(こう)演(えん)乃至衛(えい)の懿(い)公(こう)が肝(きも)を入れたり文。

　　註の三・十七に諸文を引く、往(ゆ)いて見よ。開目抄に「魏(ぎ)王(おう)」に作るは謬(あやま)りなり。

一　いかにいわうや乃至父母・師匠・国恩をわするべしや文。

　　問う、十法界明因果抄十六・三十五に云く「夫(そ)れ以(おもん)みれば持戒(じかい)は父母・師僧・国王・主君の一切衆生三宝(さんぽう)の恩を報ぜんが為(ため)なり」と云云。此の文は具(つぶさ)に六恩を挙(あ)ぐ。今何ぞ唯(ただ)前(さき)の三を挙げて後(のち)の三を挙げざるや。

答う、今は正(まさ)しく沙門(しゃもん)の報恩に約す。故に主君の恩を挙(あ)げざるなり。若(けだ)し一切衆生の恩は父母の恩に合す。故に別(べっ)して之を挙げざるなり。若し三宝の恩は文に於て便(びん)ならず、故に且(しばら)く之を略す。謂(いわ)く、次下(つぎしも)に恩を棄(す)てて恩を報ずるを明かす。而(しか)るに三宝には此の義無きが故なり云云。若し元意(がんい)の辺は、但(ただ)世の主師(しゅし)親(しん)の三徳の恩を挙ぐる所以(ゆえん)は、出世の三徳の重恩を忘るべからざることを顕(あらわ)すなり。


つづく


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