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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 11月 29日

撰時抄愚記 下一八 日寛上人、暫時筆を閣いて、紅涙紙を点ず

一 建長寺(けんちょうじ)文。

  是れ禅宗なり。()福山(ふくざん)と号す。五山の第一なり。相模(さがみ)(のかみ)平時頼(たいらのときより)、建長三年(1251)十一月に建立(こんりゅう)なり。開山は宗の大覚禅師(ぜんじ)(いみな)道隆(どうりゅう)蘭渓(らんけい)(つぶさ)には元亨(げんこう)釈書(しゃくしょ)第六九の如し。

一 寿(じゅ)福寺(ふくじ)文。

  (また)禅宗なり。亀谷山(きこくざん)と号す。五山の第三なり。開山は千光(せんこう)国師(こくし)栄西(えいさい)なり。此の地は頼義・義家居住の処なり。(のち)に義朝も(ここ)に住せり。二位の(ぜん)()、彼の菩提の為に栄西に付するなり。

一 極楽(ごくらく)

  是れ律宗なり。霊山(りょうぜん)山と号す。開山は忍性(にんしょう)菩薩(ぼさつ)(りょう)(かん)上人なり。陸奥(むつの)(かみ)平重時の建立なり。重時、極楽寺殿と号するなり。

一 大仏殿等

  建長寺の持分なり。(かん)(げん)元年の建立なり。今の大仏は金銅の()遮那仏(しゃなぶつ)なり。

一 長楽寺

  浄土宗の法然が弟子、(りゅう)(かん)所住の寺なり。

一 去年(こぞ)文永十一年四月八日

 「去年」とは文永十一年(1274)なり。故に当抄は建治元年(1275)の述作なり。文永十一年(きのえ)(いぬ)二月十四日の御赦免(ごしゃめん)(じょう)、同じき三月八日島に()き、同じき十二日に島を御立ち、同じき二十六日に鎌倉に入り給い、同じき四月八日に(へいの)()衛門(えもん)に御対面なり。註画(ちゅうが)五初

一 (こと)に真言宗乃至(おおい)なるわ()はひにては

 東寺(とうじ)叡山(えいざん)、並びに是れ真言なり。

 問う、(さき)の両度は(ただ)禅・念仏を破し、今は別して真言を破する所以(ゆえん)如何(いかん)

  答う、三沢抄十九・二十三に云く「又法門の事は()()(くに)へながされ候いし()(ぜん)の法門は・ただ仏の()(ぜん)(きょう)とをぼしめせ」等云云。

  是れに二義有り。一には所破、二には所顕なり。

  所破と云うは佐渡已前には(いま)だ真言を破せざるなり。何となれば即ち()下の文に云く「此の国の国主、我が()をも・たもつべくば真言師等にも()し合わせ給はんずらむ、()の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろう(披露)してかれら(彼等)()りなんず、さらば・よも()わじと・をもひて各各(おのおの)にも申さざりしなり」云云。

  所顕と言うは(いま)だ三()の秘法を顕さざるなり。即ち()次下の文に云く(しか)るに(いぬ)る文永八年九月十二日の夜、たつ()(くち)にて(くび)()ねられんとせし時より・のち()ふびんなり、我につきたりし者どもにま()との事を()わざりけると()もうて・()()の国より弟子どもに内内申す法門あり、此れは仏より後、乃至竜樹・(てん)(じん)・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口より外には(いだ)し給はず」等云云。三十三・十九三十五・五十一

  佐渡已後(いご)(もっぱ)ら真言を破し、三()の秘法を顕すなり。例せば法華に至って始めて三を破して一を顕し、(しゃく)を破して本を顕すが如し。()(ぜん)の中に於ては此の破顕の二義無し。佐渡已前も(また)(しか)なり。故に「(ただ)仏の爾前経」等と云うなり。()し通じて(これ)を談ぜば、彼も未顕(みけん)真実なり。此れも未顕真実なり。故に(しか)云うなり。

一 よも今年はすごし候はじ等

  即ち其の年の冬、文永十一年十月、蒙古の兵船対馬(つしま)に寄せ(きた)り、二箇国を(うば)い取れり。已上(いじょう)三度の兼知、(ごう)(まつ)(たが)わず、(あに)大聖人に非ずや。

佐渡御書十七・十九に云く「現世に云い()(ことば)(たが)はざらんをもて後生(ごしょう)(うたがい)をなすべからず」等云云。

(ここ)に於て暫時(ざんじ)、筆を()いて紅涙(こうるい)紙を点ず云云。

 

 つづく


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by johsei1129 | 2015-11-29 20:00 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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