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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 12日

女人は一代五千・七千余巻の経経に仏にならずと嫌われまします、但法華経ばかりに女人仏になると説かれて候、と説いた【日眼女造立釈迦仏供養事】

【日眼女造立釈迦仏供養事】
■出筆時期:弘安二年(1271年)二月二日 五十八歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は四条金吾の妻日眼女が三十七歳の厄年にあたり一体三寸の釈尊の木像を造立しその開眼を願いで銭三貫を供養されたことへの返書となっておられます。大聖人は夫の四条金吾が父母の追善供養のため釈尊の木像を造立した時も開眼供養されておられます。※参照:【四条金吾釈迦仏供養事】

 この釈尊の木像は一体三寸と記されておられるように高さが9cm程の小さいもので、信仰の対象としての本尊ではなく、大聖人が冒頭で記されておられるように、あくまで普段肌身離さず身に付けるお守りの意味であると拝されます。
大聖人も伊豆流罪の時、重病に苦しんでいた地頭伊東八郎の願いで病気平癒の祈念し、無事回復したお礼として漁師が海中から引き上げた釈迦仏像を供養され、生涯身につけておられました。※参照:【船守弥三郎殿許御書】

 大石寺二十六世の日寛上人は大聖人が信徒の釈迦仏造立を許された理由について『末法相応抄・下』 で次のように説かれておられます。

「今謹んで案じて曰わく、本尊に非ずと雖も而も之を称歎す。略して三意有り。
 一には猶是れ一宗弘通の初めなり、是の故に用捨時宜に随うか。
 二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに彼の人々適(たまたま)釈尊を造立す豈称歎せざらんや。
 三には吾が祖の観見の前には一体仏の当体・全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり。学者宜(よろしく)善く之を思うべし」

■ご真筆:身延久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失。

[日眼女造立釈迦仏供養事 本文]

 御守り書てまいらせ候。三界の主(あるじ)教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女・御供養の御布施前に二貫・今一貫云云。

 法華経の寿量品に云く「或は己身を説き・或は他身を説く」等云云。東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏・上行菩薩等・文殊師利・舎利弗等・大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因(しゃくだいかんにん)王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星・阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神、一切世間の国国の主とある人・何れか教主釈尊ならざる。天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり。

 例せば釈尊は天の一月・諸仏・菩薩等は万水に浮べる影なり。釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり。譬えば頭をふればかみ(髪)ゆるぐ、心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき。

 今の日眼女は三十七のやくと云云。やくと申すは譬えばさい(賽)にはかど(廉)、ます(升)にはすみ(角)、人にはつぎふし(関節)、方には四維(よすみ)の如し。風は方よりふけばよはく・角より吹けばつよし。病は肉より起れば治しやすし、節(ふし)より起れば治しがたし。家にはかき(垣)なければ盗人いる、人には・とがあれば敵・便(たより)をうく。やくと申すはふしぶしの如し、家にかきなく・人に科あるがごとし。よ(吉)きひやうし(兵士)を以てまほらすれば盗人をからめとる。ふしの病をかぬて治すれば命ながし。

 今教主釈尊を造立し奉れば下女が太子をうめるが如し。国王・尚此の女(むすめ)を敬ひ給ふ。何に況や大臣已下をや。大梵天王・釈提桓因(しゃくだいかんにん)王・日月等、此の女人を守り給ふ。況んや大小の神祇をや。昔優填(うでん)大王・釈迦仏を造立し奉りしかば大梵天王・日月等・木像を礼しに参り給いしかば・木像説いて云く「我を供養せんよりは優填大王を供養すべし」等云云。影堅(ようげん)王の画像の釈尊を書き奉りしも又又是くの如し。法華経に云く「若し人・仏の為の故に諸の形像(ぎょうぞう)を建立す。是くの如き諸人等皆已に仏道を成じき」云云。文の心は一切の女人・釈迦仏を造り奉れば現在には日日・月月の大小の難を払ひ、後生には必ず仏になるべしと申す文なり。

 抑(そもそも)女人は一代五千・七千余巻の経経に仏にならずと・きらはれまします。但法華経ばかりに女人・仏になると説かれて候。天台智者大師の釈に云く「女に記せず」等云云。釈の心は一切経には女人仏にならずと云云。次下に云く「今経は皆記す」と云云。今の法華経にこそ竜女仏になれりと云云。天台智者大師と申せし人は仏滅度の後一千五百年に漢土と申す国に出でさせ給いて一切経を十五返まで御覧あそばして候いしが、法華経より外の経には女人仏にならずと云云。妙楽大師と申せし人の釈に云く「一代に絶えたる所なり」等云云。釈の心は一切経にたえたる法門なり。法華経と申すは星の中の月ぞかし、人の中の王ぞかし、山の中の須弥山・水の中の大海の如し。是れ程いみじき御経に女人・仏になると説かれぬれば一切経に嫌はれたるに・なにか・くるしかるべき。譬えば盗人・夜打・強盗・乞食・渇体(かったい)にきらはれたらんと、国の大王に讃(ほめ)られたらんと何れかうれしかるべき。

 日本国と申すは女人の国と申す国なり。天照太神と申せし女神(めがみ)のつきいだし給える島なり。此の日本には男十九億九万四千八百二十八人・女は二十九億九万四千八百三十人なり。此の男女は皆念仏者にて候ぞ。皆念仏なるが故に阿弥陀仏を本尊とす。現世の祈りも又是くの如し。設い釈迦仏をつくりかけども阿弥陀仏の浄土へゆかんと思いて本意の様には思い候はぬぞ。中中つくりかかぬには・をとり候なり。

 今・日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば・後生も疑なし。二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一なりとおぼしめすべし。委くは又又申すべく候、恐恐謹言。

弘安二年己卯二月二日  日 蓮 花 押

日眼女御返事

【妙法蓮華経 方便品第二】

 乃至童子戲 聚沙為仏塔 如是諸人等 皆已成仏道
 若人為仏故 建立諸形像 刻彫成衆相 皆已成仏道
  <中略>
 若人散乱心 入於塔廟中 一称南無仏 皆已成仏道

[和訳]

 乃至童子が戲(たわむれ)に、砂で仏塔を為しても、是如き人は、皆已に仏道を成ずる。
 もし人、仏のために形像を建立し仏の衆相を彫刻し成せば、皆已に仏道を成ずる。
<中略>
 たとえ取り乱した心であっても、塔廟の中で一度南無仏と唱えれば皆已に仏道を成ずる。





by johsei1129 | 2019-11-12 07:25 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)


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