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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 13日

久遠実成なんどは大日経には思ひもよらず<略>久遠実成なくば千二百余尊は浮草の根なきがご とし夜の露の日輪の出でざる程なるべし、と説いた【聖密房御書】

【聖密房御書】
■出筆時期:文永十一年(1274年)四・五月頃 五十三歳御作
■出筆場所:鎌倉若しくは身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は清澄寺の僧、聖密房に与えられた消息です。
本抄で大聖人は聖密房その他の清澄寺で修行する僧のために、法華経と真言の勝劣を詳しく論じられておられます。特に釈尊五十年の説法の中で法華経で初めて説かれた久遠実成について「久遠実成なんどは大日経には思ひもよらず、久遠実成は一切の仏の本地、譬へば大海は久遠実成・魚鳥は千二百余尊なり。久遠実成なくば千二百余尊は浮き草の根なきがごとし、夜の露の日輪の出でざる程なるべし」と断じられておられます。
また文末では「これは大事の法門なり、こくうざう(虚空蔵)菩薩にまいりてつねによみ奉らせ給うべし」と記され、清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩の面前で本消息を読み奉るよう諭されておられます。

尚、『清澄寺大衆中』で大聖人は「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給りし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思食けん。明星の如なる大宝珠を給て右の袖にうけとり候し」と自ら記されておられます。
■ご真筆:身延久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失。

[聖密房御書 本文]

大日経をば善無畏(ぜんむい)・不空(ふくう)・金剛智(こんごうち)等の義に云く「大日経の理と法華経の理とは同じ事なり但印と真言とが法華経は劣なり」と立てたり、良諝(りょうしょ)和尚・広修・維蠲(ゆいけん)なんど申す人は大日経は華厳(けごん)経・法華経・涅槃(ねはん)経等には及ばず但方等(ほうどう)部の経なるべし、日本の弘法大師云く「法華経は猶華厳経等に劣れりまして大日経には及ぶべからず」等云云、又云く「法華経は釈迦の説・大日経は大日如来の説・教主既にことなり・又釈迦如来は大日如来の御使として顕教(けんきょう)をとき給うこれは密教(みっきょう)の初門なるべし」或は云く「法華経の肝心たる寿量品の仏は顕教の中にしては仏なれども密教に対すれば具縛(ぐばく)の凡夫なり」と云云。

日蓮勘(かんが)えて云く大日経は新訳の経・唐の玄宗(げんそう)皇帝の御時・開元(かいげん)四年に天竺(てんじく)の善無畏三蔵もて来る、法華経は旧訳(くやく)の経・後秦(こうしん)の御宇に羅什三蔵もて来る其の中間三百余年なり。法華経亘(わたり)て後百余年を経て天台智者大師・教門には五時四教を立てて上(かみ)五百余年の学者の教相(きょうそう)をやぶり観門(かんもん)には一念三千の法門をさとりて始めて法華経の理を得たり、天台大師已前の三論宗・已後の法相宗には八界を立て十界を論ぜず一念三千の法門をば立つべきやうなし。

華厳宗は天台已前には南北の諸師・華厳経は法華経に勝れたりとは申しけれども華厳宗の名は候はず、唐の代に高宗の后(きさき)・則天(そくてん)皇后と申す人の御時・法蔵(ほうぞう)法師・澄観(ちょうかん)なんど申す人・華厳宗の名を立てたり、此の宗は教相に五教を立て観門には十玄(げん)・六相(そう)なんど申す法門なり、をびただしきやうに・みへたりしかども澄観は天台をは(破)するやうにて・なを天台の一念三千の法門をか(借)りとりて我が経の心如工画師(しんにょくえし)の文の心とす、これは華厳宗は天台に落ちたりというべきか又一念三千の法門を盗みとりたりというべきか、澄観(ちょうかん)は持戒の人・大小の戒を一塵をもやぶらざれども一念三千の法門をば・ぬすみとれり・よくよく口伝あるべし、真言宗の名は天竺にありや・いな(否)や大なる不審なるべし、但真言経にてありけるを善無畏等の宗の名を漢土にして付けたりけるか・よくよくしるべし、就中(なかんずく)善無畏等・法華経と大日経との勝劣をはん(判)ずるに理同事勝(りいどうじしょう)の釈をばつくりて一念三千の理は法華経・大日経これ同じなんどいへども印と真言とが法華経には無ければ事法は大日経に劣れり、事相(じそう)かけぬれば事理倶密(じりぐみつ)もなしと存ぜり、今日本国及び諸宗の学者等並びにこと(殊)に用ゆべからざる天台宗共にこの義をゆるせり例せば諸宗の人人をばそねめども一同に弥陀の名をとなへて自宗の本尊をすてたるがごとし天台宗の人人は一同に真言宗に落ちたる者なり。

日蓮・理のゆくところを不審して云く、善無畏三蔵の法華経と大日経とを理は同じく事は勝れたりと立つるは天台大師の始めて立て給へる一念三千の理を今大日経にとり入れて同じと自由に判ずる条ゆるさるべしや、例せば先に人丸(ひとまろ)が・ほのぼのと・あかし(明石)のうら(浦)の・あさぎり(朝霧)に・しま(島)かくれゆく・ふね(船)をしぞをもう・とよめるを、紀のしくばう(淑望)源のしたがう(順)なんどが判じて云く「此の歌はうたの父・うたの母」等云云、今の人我うたよめりと申して・ほのぼのと乃至船をしぞをもうと一字をもたがへず・よみて我が才は人丸にをとらずと申すをば人これを用ゆべしや、やまかつ(山人)海人(あま)なんどは用ゆる事もありなん。

天台大師の始めて立て給へる一念三千の法門は仏の父・仏の母なるべし、百余年・已後の善無畏三蔵がこの法門をぬすみとりて大日経と法華経とは理同なるべし、理同と申すは一念三千なりと・かけるをば智慧かしこき人は用ゆべしや、事勝と申すは印・真言なしなんど申すは天竺の大日経・法華経の勝劣か漢土の法華経・大日経の勝劣か、不空三蔵の法華経の儀軌(ぎき)には法華経に印・真言をそへて訳せり、仁王経にも羅什の訳には印・真言なし不空の訳の仁王経(にんのうきょう)には印・真言これあり、此等の天竺の経経には無量の事あれども月氏(がっし)・漢土・国を・へだてて・とをく・ことごとく・もちて来がたければ経を略するなるべし、法華経には印・真言なけれども二乗作仏(にじょうさぶつ)・劫国名号(こうこくみょうごう)・久遠実成(くおんじつじょう)と申すきぼ(規模)の事あり、大日経等には印・真言はあれども二乗作仏・久遠実成これなし、二乗作仏と印・真言とを並ぶるに天地の勝劣なり、四十余年の経経には二乗は敗種(はいしゅ)の人と一字二字ならず無量無辺の経経に嫌はれ、法華経には・これを破して二乗作仏を宣べたり、いづれの経経にか印・真言を嫌うことばあるや、その言なければ又大日経にも其の名を嫌はず但印・真言をとけり、印と申すは手の用なり手・仏にならずは手の印・仏になるべしや、真言と申すは口の用なり口・仏にならずば口の真言・仏になるべしや、二乗の三業は法華経に値いたてまつらずは無量劫・千二百余尊の印・真言を行ずとも仏になるべからず、勝れたる二乗作仏の事法をば・とかずと申して劣れる印・真言をとける事法をば勝れたりと申すは理によれば盗人なり事によれば劣謂勝見(れついしょうけん)の外道なり、此の失によりて閻魔(えんま)の責めをば・かほりし人なり、後にく(悔)いかへして天台大師を仰いで法華にうつりて悪道をば脱(まぬが)れしなり。

久遠実成なんどは大日経にはをも(思)ひもよらず、久遠実成は一切の仏の本地・譬へば大海は久遠実成・魚鳥は千二百余尊なり。久遠実成なくば千二百余尊はうきくさ(萍)の根なきがごとし夜の露の日輪の出でざる程なるべし。

天台宗の人人この事を弁(わきま)へずして真言師にたぼらかされたり、真言師は又自宗の誤をしらず・いたづらに悪道の邪念をつみをく、空海和尚は此の理を弁へざる上・華厳宗のすでにやぶられし邪義を借りとりて法華経は猶華厳経にをとれりと僻見せり、亀毛(きもう)の長短・兎角(とかく)の有無・亀の甲には毛なしなんぞ長短をあらそい兎の頭には角(つの)なし・なんの有無を論ぜん、理同と申す人いまだ閻魔(えんま)のせめを脱れず、大日経に劣る華厳経に猶劣ると申す人・謗法を脱るべしや、人は・かはれども其の謗法の義同じかるべし、弘法の第一の御弟子かきのもとき(柿本・紀)の僧正・紺青鬼(こんじょうき)となりし・これをもつてしるべし、空海悔改(かいげ)なくば悪道疑うべしともをぼへず其の流をうけたる人人又いかん。

問うて云わく法師一人此の悪言をはく如何、答えて云く日蓮は此の人人を難ずるにはあらず但不審する計りなり、いか(怒)りをぼせば・さでをはしませ、外道の法門は一千年・八百年・五天にはびこりて輪王より万民かうべ(頭)をかたぶけたりしかども九十五種共に仏にやぶられたりき、摂論師(じょうろんし)が邪義・百余年なりしもやぶれき、南北の三百余年の邪見もやぶれき、日本・二百六十余年の六宗の義もやぶれき、其の上此の事は伝教大師の或書(あるふみ)の中にやぶられて候を申すなり、日本国は大乗に五宗あり法相・三論・華厳・真言・天台、小乗に三宗あり倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・律宗(りっしゅう)なり、真言・華厳・三論・法相は大乗よりいでたりといへども・くわしく論ずれば皆小乗なり、宗と申すは戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学を備へたる物なり、其の中に定・慧はさてをきぬ、戒をもて大・小のばうじ(榜示)をうちわかつものなり、東寺の真言・法相・三論・華厳等は戒壇なきゆへに東大寺に入りて小乗律宗の驢乳(ろにゅう)・臭糞(しゅうふん)の戒を持つ、戒を用つて論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし。

比叡山には天台宗・真言宗の二宗・伝教大師習いつたへ給いたりしかども天台円頓の円定・円慧・円戒の戒壇立つべきよし申させ給いしゆへに天台宗に対しては真言宗の名あるべからずとをぼして天台法華宗の止観(しかん)・真言とあそばして公家(くげ)へまいらせ給いき、伝教より慈覚たまはらせ給いし誓戒の文には天台法華宗の止観・真言と正(まさし)くのせられて真言宗の名をけづ(削)られたり、天台法華宗は仏立宗と申して仏より立てられて候、真言宗の真言は当分の宗・論師・人師始めて宗の名をたてたり、而るを事を大日如来・弥勒菩薩等によせたるなり、仏御存知の御意は但法華経一宗なるべし、小乗には二宗・十八宗・二十宗候へども但所詮の理は無常の一理なり、法相宗は唯心有境(ゆいしんうきょう)・大乗宗・無量の宗ありとも所詮は唯心有境とだにいはば但一宗なり・三論宗は唯心無境・無量の宗ありとも所詮・唯心無境ならば但一宗なり、此れは大乗の空有(くうう)の一分か、華厳宗・真言宗あ(上)がらば但中(たんちゅう)・くだ(下)らば大乗の空有なるべし、経文の説相(せっそう)は猶華厳・般若にも及ばず但しよき人とをぼしき人人の多く信じたるあいだ、下女を王のあい(愛)するにに(似)たり、大日経等は下女のごとし理は但中にすぎず、論師(ろんし)・人師(にんし)は王のごとし・人のあいするによて・いばう(威望)があるなるべし、上(かみ)の問答等は当時は世すえ(末)になりて人の智浅く慢心高きゆへに用ゆる事はなくとも、聖人・賢人なんども出でたらん時は子細もやあらんずらん、不便にをもひ・まいらすれば目安に注せり、御ひまにはならはせ給うべし。

これは大事の法門なり、こくうざう(虚空蔵)菩薩にまいりてつねによみ奉らせ給うべし。

聖密房(しょうみつぼう)に之を遣(つか)わす    日 蓮 花押





by johsei1129 | 2019-10-13 21:32 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
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