日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 11月 21日

撰時抄愚記 下二 「高山の水は深谷に降る能あり、最頂の教えは下機を救う力あり」

一 道綽(どうしゃく)禅師(ぜんじ)文。

  註の四・二十一、啓蒙二・五十、()いて見よ。

  問う、此の師の謬誤(みょうご)如何(いかん)

  答う、此の師の(しょう)(どう)・浄土の二門は鸞公(らんこう)難易(なんい)の二道に異らず。故に選択集(せんちゃくしゅう)に云く「難行・易行、聖道・浄土は其の(ことば)(こと)なりと雖も、其の意は是れ同じ」等云云。(すで)に「其の意は是れ同じ」と云う、故に亦其の(あやま)りも是れ同じきなり。

亦別して之を論ずれば更に二失あり。

一には(しょ)(りゅう)不成(ふじょう)(とが)、二には執権(しゅうごん)(ぼう)(じつ)の失なり。

  初めに所立不成の失とは、安楽集の上に云く「一には(いわ)く聖道、二には謂く往生(おうじょう)浄土なり。其の聖道の一種は今時(こんじ)証し難し。一には大聖を去ること遥遠(ようおん)なるに()り、二には理深(りじん)解微(げみ)に由る。是の故に大集月蔵経に云く『我が末法時の中の億々の衆生は(ぎょう)を起し道を修するとも、(いま)だ一人の得者有らず』と。当今(とうこん)末法は是れ五濁悪世にして(ただ)浄土の一門のみ有って通入すべき(みち)たるべし」已上。

  (およ)道綽(どうしゃく)の聖道は即ち是れ鸞公の難行道なり。鸞公の難行道は即ち是れ歴劫(りゃっこう)長遠(ちょうおん)の権大乗なり。故に(たと)い如来の在世と雖も、実に是れ難行・難証なり。何ぞ「大聖を去ること遥遠(ようおん)なるに由る」と云うや是一。

  古徳云く「高山の水は深谷(しんこく)(くだ)る能あり。最頂の教えは下機(げき)を救う力あり」云云。(たと)えば軽病には凡薬、重病には仙薬の如し。故に知んぬ、理深ならば即ち解微(げみ)に非ず、解微ならば則ち()(じん)に非ざることを。何ぞ「理深解微」と云うや(これ)二。

  又大集月蔵経の中に(すべ)て此の文無し。故に撰択伝弘の二十四に云く『経に此の文無し。(ただ)し是れ取意なり』云云。(なお)取意の文にも非ず。何となれば白法(びゃくほう)隠没(おんもつ)の意は浅理(せんり)隠没の義なり。今所引の意は深理(じんり)隠没の義なり。故に知んぬ、彼の文の意に非ず、故に取意の文にも非ず、(まさ)しく是れ妄説なり是三。(あに)所立不成に非ずや。

  次に執権(しゅうごん)(ぼう)(じつ)とは「(ただ)浄土の一門のみ有って」とは即ち是れ執権なり。「(いま)だ一人の得者有らず」とは(あに)謗実に非ずや。

一 道綽(どうしゃく)が弟子に善導(ぜんどう)と云う者あり

  註四十三、啓蒙二五十、()いて見よ。

  問う、此の師の謬誤(びゅうご)如何(いかん)

  答う、此の師は即ち是れ(らん)(しゃく)に相承す。故にその謬誤(びゅうご)(また)鸞・綽の如し。若し別して之を論ぜば、此の師の正雑(しょうぞう)の二行は(もっぱ)弥陀(みだ)の三部経に()る。所謂(いわゆる)正行に(また)五種あり。読誦(どくじゅ)・観察・礼拝(らいはい)称名(しょうみょう)讃歎(さんだん)なり。此の五種を分ちて正助の二行と為す。(いわ)く、称名の一行を正行と為し、読誦等の四行を助行と為す。此の弥陀三部の正助の二行を除いて、自余の諸善を(ことごと)(ぞう)(ぎょう)と名づく。

而して雑行の(しつ)を判じて「千中無一」と謗じ、正行の(とく)を明かして「十即十生」と執するなり。法然、此等の意を結して云く「此の文を見て(いよいよ)(すべから)く雑を捨てて(せん)を修すべし。(あに)百即百生の専修(せんしゅう)正行(しょうぎょう)を捨てて、(かた)く千中無一の(ざっ)(しゅ)(ぞう)(ぎょう)に執せんや」等云云。既に是れ毀謗(きぼう)()(きょう)分明なり。豈「(にゅう)阿鼻獄(あびごく)」の人に非ずや。


                   つづく

撰時抄愚記下 目次



by johsei1129 | 2015-11-21 08:24 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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