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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 11月 20日

弘法大師の大日経を法華経華厳経に勝れたりと申す証文ありや、と説いた【妙一女御返事】

【妙一女御返事】
■出筆時期:弘安三年(1280) 七月十四日 五十九歳御作
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は富木常忍の養子妙一女に送られた長文の消息となります。富木常忍と再婚した母親は前夫との間に二男一女を授かり、再婚とともに常忍の養子となっております。兄は大聖人が佐渡流罪の時常随給仕し、後に六老僧の一人となった日頂で、その影響もあり女性ながら度々大聖人に法門について質問されておられます。大聖人は本抄で「即身成仏」について法華経と真言の勝劣について問答形式で詳細に示されておられますが、恐らくこの点について妙一女が大聖人に問われ、それに対して答えられた書であろうと拝されます。
大聖人は弘法大師が真言の即身成仏の根拠としている竜樹菩薩の菩提心論について「菩提心論は一には経に非ず論を本とせば背上向下の科・依法不依人の仏説に相違す」と破析されると共に、「訳者の曲会私情(きょくえしじょう)の心なり」記され、菩提心論の訳僧・不空の偽作であろうと断じられておられます。さらに後段では「弘法大師の大日経を法華経華厳経に勝れたりと申す証文ありや、法華経には華厳経・大日経等を下す文分明なり」と記し、唯一法華経こそが「即身成仏」の経であることを示されておられます。

■ご真筆:現存しておりません。

[妙一女御返事 本文]

問うて云く、日本国に六宗・七宗・八宗有り何れの宗に即身成仏を立つるや、答えて云く伝教大師の意は唯法華経に限り弘法大師の意は唯真言に限れり、問うて云く其の証拠如何、答えて云く伝教大師の秀句に云く「当に知るべし他宗所依の経には都て即身入無し一分即入すと雖も八地已上に推して凡夫身を許さず天台法華宗のみ具(つぶさ)に即入の義有り」云云、又云く「能化・所化倶に歴劫(りゃっこう)無し妙法経力即身成仏す」等云云、又云く「当に知るべし此の文に成仏する所の人を問うて此の経の威勢を顕すなり」と等云云、此の釈の心は即身成仏は唯法華経に限るなり。

問うて云く弘法大師の証拠如何、答えて云く弘法大師の二教論に云く「菩提心論に云く唯真言法の中に即身成仏する故は是れ三摩地の法を説くなり諸教の中に於て闕(か)いて書さず、諭して曰く此の論は竜樹大聖の所造千部の論の中に秘蔵・肝心の論なり此の中に諸教と謂うは他受用身及び変化身等の所説の法・諸の顕教なり、是れ三摩地の法を説くとは自性法身の所説・秘密真言の三摩地の行是なり金剛頂十万頌(しょう)の経等と謂う是なり」

問うて云く此の両大師所立の義・水火なり何れを信ぜんや、答えて云く此の二大師は倶に大聖なり同年に入唐して両人同じく真言の密教を伝受す、伝教大師の両界の師は順暁(じゅんぎょう)和尚・弘法大師の両界の師は慧果(けいか)和尚・順暁・慧果の二人倶(とも)に不空の御弟子なり、不空三蔵は大日如来六代の御弟子なり、相伝と申し本身といひ世間の重んずる事日月のごとし、左右の臣にことならず末学の膚(はだえ)にうけて是非しがたし、定めて悪名天下に充満し大難を其の身に招くか、然りと雖も試に難じて両義の是非を糾明せん、問うて云く弘法大師の即身成仏は真言に限ること何れの経文何れの論文ぞや、答えて云く弘法大師は竜樹菩薩の菩提心論に依るなり、問うて云く其の証拠如何、答えて云く弘法大師の二教論に菩提心論を引いて云く「唯真言法の中のみ乃至諸教の中に於て闕いて書さず」云云、問うて云く経文有りや、答えて云く弘法大師の即身成仏義に云く「六大無礙(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり四種の曼荼各離れず三密加持すれば速疾に顕る重重にして帝網の如くなるを即身と名く、法然として薩般若を具足す心王心数刹塵(しんのうしんじゅせつじん)に過たり各五智無際智を具す円鏡力の故に実の覚智なり」等云云、疑つて云く此の釈は何れの経文に依るや、答えて云く金剛頂経大日経等に依る、求めて云く其の経文如何、答えて云く弘法大師其の証文を出して云く「此の三昧を修する者は現に仏菩提を証す」文、又云く「此の身を捨てずして神境通を逮得し大空位に遊歩して身秘密を成す」文、又云く「我本より不生なるを覚る」文、又云く「諸法は本より不生なり」云云。

難じて云く此等の経文は大日経金剛頂経の文なり、然りと雖も経文は或は大日如来の成正覚の文・或は真言の行者の現身に五通を得るの文・或は十回向(えこう)の菩薩の現身に歓喜地を証得する文にして猶生身得忍に非ず何に況や即身成仏をや、但し菩提心論は一には経に非ず論を本とせば背上向下の科・依法不依人の仏説に相違す。

東寺の真言師日蓮を悪口して云く汝は凡夫なり弘法大師は三地の菩薩なり、汝未だ生身得忍に非ず弘法大師は帝の眼前に即身成仏を現ず、汝未だ勅宣を承けざれば大師にあらず日本国の師にあらず等云云是一、慈覚大師は伝教・義真の御弟子・智証大師は義真・慈覚の御弟子・安然和尚は安慧和尚の御弟子なり、此の三人の云く法華天台宗は理秘密の即身成仏・真言宗は事理倶密の即身成仏と云云、伝教弘法の両大師何れも・をろかならねども聖人は偏頗(へんぱ)なきゆへに・慈覚・智証・安然の三師は伝教の山に栖むといへども其の義は弘法東寺の心なり、随つて日本国・四百余年は異義なし汝不肖の身として・いかんが此の悪義を存ずるや是二、答えて云く悪口をはき悪心ををこさば汝にをいては此の義申すまじ、正義を聞かんと申さば申すべし、但し汝等がやうなる者は物をいはずば・つまりぬとをもうべし、いうべし悪心を・をこさんよりも悪口を・なさんよりも・きらきらとして候経文を出して・汝が信じまいらせたる弘法大師の義をたすけよ、悪口・悪心をもて・をもうに経文には即身成仏無きか、但し慈覚・智証・安然等の事は此れ又覚証の両大師・日本にして教大師を信ずといへども、漢土にわたりて有りし時・元政(げんせい)・法全(はっせん)等の義を信じて心には教大師の義をすて、身は其の山に住すれども・いつわりてありしなり。

問うて云く汝が此の義は・いかにして・をもひいだしけるぞや、答えて云く伝教大師の釈に云く「当に知るべし此の文は成仏する所の人を問うて此の経の威勢を顕すなり」と・かかれて候は、上の提婆品の我於海中の経文を・かきのせてあそばして候、釈の心は・いかに人申すとも即身成仏の人なくば用ゆべからずと・かかせ給へり、いかにも純円一実の経にあらずば即身成仏は・あるまじき道理あり、大日経・金剛頂経等の真言経には其の人なし・又経文を見るに兼・但・対・帯の旨分明なり、二乗成仏なし久遠実成あとをけづる、慈覚・智証は善無畏・金剛智・不空三蔵の釈にたぼらかされて・をはするか、此の人人は賢人・聖人とは・をもへども遠きを貴んで近きをあなづる人なり、彼の三部経に印と真言とあるに・ばかされて大事の即身成仏の道をわすれたる人人なり、然るを当時・叡山の人人・法華経の即身成仏のやうを申すやうなれども慈覚大師・安然等の即身成仏の義なり、彼の人人の即身成仏は有名無実の即身成仏なり其の義専ら伝教大師の義に相違せり、教大師は分段の身を捨てても捨てずしても法華経の心にては即身成仏なり、覚大師の義は分段の身をすつれば即身成仏にあらずと・をもはれたるが・あへて即身成仏の義をしらざる人人なり。

求めて云く慈覚大師は伝教大師に値い奉りて習い相伝せり・汝は四百余年の年紀をへだてたり如何、答えて云く師の口より伝うる人必ずあやまりなく後にたづね・あきらめたる人をろそかならば経文をすてて四依の菩薩につくべきか、父母の譲り状をすてて口伝を用ゆべきか、伝教大師の御釈無用なり慈覚大師の口伝真実なるべきか、伝教大師の秀句と申す御文に一切経になき事を十いだされて候に・第八に即身成仏化導勝とかかれて次下に「当に知るべし此の文成仏する所の人を問うて此の経の威勢を顕すなり、乃至当に知るべし他宗所依の経には都て即身入無し」等云云、此の釈を背きて覚大師の事理倶密の大日経の即身成仏を用ゆべきか。

求めて云く教大師の釈の中に菩提心論の唯の字を用いざる釈有りや不や、答えて云く秀句に云く「能化所化倶に歴劫無く妙法経力即身成仏す」等云云、此の釈は菩提心論の唯の字を用いずと見へて候、問うて云く菩提心論を用いざるは竜樹を用いざるか答えて云く但恐くは訳者の曲会私情の心なり、疑つて云く訳者を用いざれば法華経の羅什をも用ゆ可からざるか、答えて云く羅什には現証あり不空には現証なし、問うて云く其の証如何、答えて云く舌の焼けざる証なり具には聞くべし、求めて云く覚・証等は此の事を知らざるか、答えて云く此の両人は無畏等の三蔵を信ずる故に伝教大師の正義を用いざるか、此れ則ち人を信じて法をすてたる人人なり。

問うて云く日本国にいまだ覚・証・然等を破したる人をきかず如何、答えて云く弘法大師の門家は覚・証を用ゆべしや・覚・証の門家は弘法大師を用ゆべしや。
問うて云く両方の義相違すといへども汝が義のごとく水火ならず誹謗正法とはいわず如何、答えて云く誹謗正法とは其の相貌(そうみょう)如何(いかん)・外道が仏教をそしり・小乗が大乗をそしり・権大乗が実大乗を下し・実大乗が権大乗に力をあわせ・詮ずるところは勝を劣という・法にそむくがゆへに謗法とは申すか、弘法大師の大日経を法華経華厳経に勝れたりと申す証文ありや、法華経には華厳経・大日経等を下す文分明なり、所謂已今当等なり、弘法尊しと雖も釈迦多宝十方分身の諸仏に背く大科免れ難し事を権門に寄せて日蓮ををどさんより但正しき文を出だせ、汝等は人をかたうどとせり・日蓮は日月・帝釈・梵王を・かたうどとせん、日月・天眼を開いて御覧あるべし、将又日月の宮殿には法華経と大日経と華厳経とをはすと・けう(校)しあわせて御覧候へ、弘法・慈覚・智証・安然の義と日蓮が義とは何れがすぐれて候、日蓮が義もし百千に一つも道理に叶いて候はば・いかに・たすけさせ給はぬぞ彼の人人の御義もし邪義ならば・いかに日本国の一切衆生の無眼の報をへ候はんをば不便とはをぼせ候はぬぞ。

日蓮が二度の流罪結句は頚に及びしは釈迦・多宝・十方の諸仏の御頚を切らんとする人ぞかし日月は一人にてをはせども四天下の一切衆生の眼なり命なり、日月は仏法をなめて威光勢力を増し給うと見へて候、仏法のあぢわいをたがうる人は日月の御力をうばう人・一切衆生の敵なり、いかに日月は光を放ちて彼等が頂をてらし寿命と衣食とを・あたへて・やしなひ給うぞ、彼の三大師の御弟子等が法華経を誹謗するは偏に日月の御心を入れさせ給いて謗ぜさせ給うか、其の義なくして日蓮が・ひが事ならば日天もしめし彼等にもめしあはせ・其の理にまけてありとも其の心ひるがへらずば・天寿をも・めしとれかし。

其の義はなくしてただ理不尽に彼等にさるの子を犬にあづけねづみの子を猫にたぶやうに・うちあづけて・さんざんにせめさせ給いて彼等を罰し給はぬ事・心へられず、日蓮は日月の御ためには・をそらくは大事の御かたきなり、教主釈尊の御前にて・かならず・うたへ申すべし、其の時うらみさせ給うなよ、日月にあらずとも地神も海神も・きかれよ日本の守護神も・きかるべし、あへて日蓮が曲意はなきなり、いそぎいそぎ御計らいあるべし、ちち(遅遅)せさせ給いて日蓮をうらみさせ給うなよ、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐。

七月十四日          日 蓮 花押
妙一女御返事






by johsei1129 | 2015-11-20 21:19 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)
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