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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 11月 18日

たとひ無量億歳の間権教を修行すとも、法華経を離るるならばただいつも地獄なるべし、と説い た【上野殿後家尼御返事】

【上野殿後家尼御返事】
■出筆時期:文永二年(1265年)七月十一日 四十四歳御作
■出筆場所:鎌倉市中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は南条時光(上野殿)の母が亡き夫の追善供養のため種々のものを大聖人に送られたことへの返書となっております。亡き夫の南条兵衛七郎はこの年の三月八日に亡くなりますが、大聖人は駿河上野郷を訪れ南条兵衛の墓に墓参されておられます。
 大聖人は本抄文末で「此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ、秘しさせ給へ・秘しさせ給へ」と記されておられるように、南条兵衛七郎の死を弔うとともに、「地獄と寂光」について法華経で説かれている極説を次のように示されておられます、「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う、これをさとるは法華経なり、もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ、たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし」
■ご真筆:現存しておりません。

[上野殿後家尼御返事 本文]

 御供養の物・種種給ひ畢んぬ。抑(そもそ)も上野殿死去の後は・をとづれ冥途(めいど)より候やらん、きかまほしくをぼへ候。ただしあるべしとも・をぼへず。もし夢にあらずんば・すがたをみる事よもあらじ、まぼろしにあらずんば・みみえ給う事いかが候はん。さだめて霊山浄土にてさば(娑婆)の事をば・ちうや(昼夜)にきき御覧じ候らむ。妻子等は肉眼なれば・みさせ・きかせ給う事なし、ついには一所とをぼしめせ。生生世世の間ちぎりし夫は大海のいさごのかずよりも・ををくこそ・をはしまし候いけん。今度のちぎりこそ・まことのちぎりの・をとこよ。そのゆへは・をとこのすすめによりて法華経の行者とならせ給へば仏と・をがませ給うべし。いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏、生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり。法華経の第四に云く「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。

 夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり。これをさとるを仏といふ、これにまよふを凡夫と云う。これをさとるは法華経なり。もししからば法華経をたもちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ。たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるるならば・ただいつも地獄なるべし。

 此の事日蓮が申すにはあらず、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給いしなり。されば権教を修行する人は火にやくるもの又火の中へい(入)り、水にしづむもの、なをふちのそこへ入るがごとし。法華経をたもたざる人は火と水との中にいたるがごとし。法華経誹謗の悪知識たる法然・弘法等をたのみ、阿弥陀経・大日経等を信じ給うは・なを火より火の中・水より水のそこへ入るがごとし。いかでか苦患をまぬかるべきや。等活・黒繩・無間地獄の火坑、紅蓮・大紅蓮の冰の底に入りしづみ給はん事疑ひなかるべし。法華経の第二に云く「其の人命終して阿鼻獄に入り、是くの如く展転して無数劫に至らん」云云。
 故聖霊は此の苦をまぬかれ給い、すでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり。経に云く「設い大火に入るも火も焼くこと能わず。若し大水に漂わされんに、其の名号(みな)を称せば即ち浅き処を得ん」又云く「火も焼くこと能わず、水も漂すこと能わず」云云。
 あらたのもしや・たのもしや。詮ずるところ地獄を外にもとめ、獄卒の鉄杖・阿防羅刹(あぼうらせつ)のかしやく(呵責)のこゑ・別にこれなし。此の法門ゆゆしき大事なれども、尼にたいしまいらせて・おしへまいらせん。例せば竜女にたいして文殊菩薩は即身成仏の秘法をとき給いしがごとし。これをきかせ給いて後は・いよいよ信心をいたさせ給へ。法華経の法門をきくにつけて・なをなを信心をはげむを・まことの道心者とは申すなり。天台云く「従藍而青(じゅうらんにしょう)」云云。此の釈の心はあいは葉のときよりも・なをそむれば・いよいよあをし。法華経はあいのごとし、修行のふかきは・いよいよあをきがごとし。

 地獄と云う二字をばつちを・ほるとよめり。人の死する時つちをほらぬもの候べきか。これを地獄と云う。死人をやく火は無間の火炎なり。妻子・眷属の死人の前後にあらそひゆくは獄卒・阿防羅刹なり。妻子等のかなしみなくは獄卒のこゑなり。二尺五寸の杖は鉄杖なり・馬は馬頭(めず)・牛は牛頭(ごず)なり、穴は無間大城・八万四千のかまは八万四千の塵労門・家をきりいづるは死出の山・孝子の河のほとりにたたずむは三途の愛河なり。別に求むる事・はかなしはかなし。
 此の法華経をたもちたてまつる人は此れをうちかへし、地獄は寂光土・火焔は報身如来の智火・死人は法身(ほっしん)如来・火坑は大慈悲為室の応身如来、又つえは妙法実相のつえ、三途の愛河は生死即涅槃の大海・死出の山は煩悩即菩提の重山なり。かく御心得させ給へ。即身成仏とも・開仏知見とも・これをさとり・これをひらくを申すなり。提婆達多は阿鼻獄を寂光極楽とひらき、竜女が即身成仏もこれより外は候はず。逆即是順の法華経なればなり、これ妙の一字の功徳なり。

 竜樹菩薩の云く「譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」云云。
 妙楽大師云く「豈伽耶(がや)を離れて別に常寂を求めん。寂光の外・別に娑婆有るに非ず」云云。又云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土なり」云云。
 法華経に云く「諸法実相乃至・本末究竟等」云云。
 寿量品に云く「我実に成仏してより已来(このかた)無量無辺なり」等云云。此の経文に我と申すは十界なり・十界本有(ほんぬ)の仏なれば浄土に住するなり。
 方便品に云く「是の法は法位に住して世間の相常住なり」云云。世間のならひとして三世常恒の相なれば・なげくべきにあらず・をどろくべきにあらず。相の一字は八相なり・八相も生死の二字をいでず。かくさとるを法華経の行者の即身成仏と申すなり。
 故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし。さのみなげき給うべからず、又なげき給うべきが凡夫のことわりなり。ただし聖人の上にも・これあるなり。釈迦仏・御入滅のとき諸大弟子等のさとりのなげき・凡夫のふるまひを示し給うか。いかにも・いかにも追善供養を心の・をよぶほどはげみ給うべし。古徳のことばにも心地を九識にもち、修行をば六識にせよと・をしへ給う。ことわりにもや候らん。
 此の文には日蓮が秘蔵の法門かきて候ぞ。秘しさせ給へ・秘しさせ給へ。あなかしこ・あなかしこ。

 七月十一日                日 蓮 花押

 上野殿後家尼御前御返事




by johsei1129 | 2015-11-18 21:06 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)


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