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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 09月 07日

蒙古の国書到来を受け、北条時宗以下、計十一人に諌暁の書状を献じ た【十一通御書】


【十一通御書】
■出筆時期:文永五年(1268年)十月十一日 四十七歳御作
■出筆場所:鎌倉市中 草庵にて。
■出筆の経緯:文永五年閏(うるう)正月十八日、蒙古からの国書が鎌倉幕府に届き「立正安国論」の予言が現実のものとなった。その報を受けた大聖人は同年八月二十一日、幕府要人の宿屋入道光則に、執権・北条時宗と対面する手はずを整えるため「君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏を経らる可きか。委細の旨は見参を遂げて申す可く候」との書状を送るが、全く音沙汰がなかった。そこで大聖人は意を決して十月十一日、北条時宗他、幕府要人三名(宿屋入道、平頼綱、北条弥源太)、鎌倉の諸寺院八箇所の計十一箇所に書状をしたため、日興上人始め弟子達により直接届けられます。この書状を古来「十一通御書」と称しております。また同時に「日蓮弟子檀那中」として門下一同に関係先十一箇所に書状を届けたことを伝えておられます。尚、鎌倉幕府要人の宿屋入道と北条弥源太は大聖人に帰依されておられます。

 また【種種御振舞御書】の冒頭で大聖人は、自ら次のように記されておられます。
「去ぬる文永五年後(のち)の正月十八日、西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状をわたす。日蓮が去ぬる文応元年 太歳庚申 に勘えたりし立正安国論・今すこしもたがわず符合しぬ。此の書は白楽天が楽府(がふ)にも越へ、仏の未来記にもをとらず。末代の不思議・なに事かこれにすぎん。賢王・聖主の御世(みよ)ならば日本第一の権状にもをこなわれ、現身に大師号もあるべし、定めて御たづねありて・いくさの僉義(せんぎ)をもいゐあわせ、調伏(じょうぶく)なんども申しつけられぬらんと・をもひしに、其の義なかりしかば其の年の末、十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す」

※尚、蒙古の国書到着から十一通御書を献じた経緯については[小説日蓮(上)19 立正安国論の予言的中20 北条時宗を諌暁]を参照して下さい。
■ご真筆:現存しておりません。
蒙古の国書到来を受け、北条時宗以下、計十一人に諌暁の書状を献じ た【十一通御書】_f0301354_20424315.jpg
 [蒙古の国書:東大寺尊勝院所蔵]

[十一通御書 本文]

【北条時宗への御状】  
英語版
 謹んで言上せしめ候。抑(そもそ)も正月十八日・西戎(さいじゅう)大蒙古国の牒状到来すと。日蓮・先年諸経の要文を集め、之を勘えたること立正安国論の如く少しも違(たが)わず普合しぬ。日蓮は聖人の一分に当れり、未萠(みぼう)を知るが故なり。然る間・重ねて此の由を驚かし奉る。急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ。然らずんば重ねて又四方より責め来たる可きなり。速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え。彼を調伏せられん事、日蓮に非ざれば叶う可からざるなり。諌臣・国に在れば則ち其の国正しく、争子・家に在れば則ち其の家直し。国家の安危は政道の直否(じきひ)に在り、仏法の邪正は経文の明鏡に依る。
 夫れ此の国は神国なり、神は非礼を稟(う)けたまわず。天神七代・地神五代の神神、其の外・諸天善神等は一乗擁護(おうご)の神明なり。然も法華経を以て食と為し、正直を以て力と為す。法華経に云く「諸仏救世者(くせしゃ)は大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現ず」と。一乗棄捨(きしゃ)の国に於ては豈善神・怒りを成さざらんや。
 仁王経に云く「一切の聖人去る時・七難必ず起る」と。彼の呉王は伍子胥(ごししょ)が詞を捨て吾が身を亡し、桀紂(けっちゅう)は竜比を失つて国位を喪(ほろ)ぼす。今・日本国既に蒙古国に奪われんとす。豈歎かざらんや、豈驚かざらんや。
 日蓮が申す事御用い無くんば定めて後悔之有る可し。日蓮は法華経の御使なり。経に云く「則ち如来の使ひ、如来の所遣として如来の事を行ず」と。三世諸仏の事とは法華経なり。
 此の由・方方へ之を驚かし奉る。一所に集めて御評議有つて御報に予(あず)かる可く候。所詮は万祈(ばんき)を抛(なげう)つて諸宗を御前に召し合せ、仏法の邪正を決し給え。澗底(かんてい)の長松(ちょうしょう)未だ知らざるは良匠の誤り、闇中の錦衣(きんい)を未だ見ざるは愚人の失(とが)なり。三国仏法の分別に於ては殿前に在り。所謂阿闍世(あじゃせ)・陳隋・桓武是なり。
 敢へて日蓮が私曲に非ず。只偏に大忠を懐く故に。身の為に之を申さず・神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言。

文永五年 戊辰 十月十一日    日蓮 花押

謹上 宿屋入道殿

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【宿屋左衛門光則への御状】
 先年勘えたるの書・安国論に普合せるに就いて言上せしめ候い畢んぬ。
 抑(そもそも)正月十八日、西戎大蒙古国より牒状到来すと。之を以て之を按ずるに、日蓮は聖人の一分に当り候か。然りと雖も未だ御尋(おたずね)に予からず候の間、重ねて諌状を捧ぐ。希(ねがわ)くば御帰依の寺僧を停止せられ、宜しく法華経に帰せしむべし。若し然らずんば後悔何ぞ追わん。此の趣を以て十一所に申せしめ候なり。定めて御評議有る可く候か。
 偏に貴殿を仰ぎ奉る。早く日蓮が本望を遂げしめ給え。十一箇所と申すは平の左衛門尉殿に申せしむる所なり。委悉(いしつ)申し度く候と雖も上書分明(ふんみょう)なる間・省略せしめ候。
 御気色(みけしき)を以て御披露・庶幾(しょき)せしむる所に候。恐恐謹言。

文永五年戊辰十月十一日 日蓮 花押

謹上 宿屋入道殿

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【平左衛門尉頼綱への御状】
英語版
 蒙古国の牒状到来に就いて言上せしめ候い畢んぬ。
 抑(そもそも)先年・日蓮、立正安国論に之を勘えたるが如く、少しも違わず普合せしむ。然る間・重ねて訴状を以て愁欝(しゅううつ)を発(ひら)かんと欲す。爰(ここ)を以て諌旗(かんき)を公前に飛ばし、争戟(そうげき)を私後に立つ。併(しかし)ながら貴殿は一天の屋梁(おくりょう)為り万民の手足為り。争でか此の国滅亡の事を歎かざらんや慎まざらんや。早く須(すべから)く退治を加えて謗法の咎(とが)を制すべし。
 夫れ以(おもんみ)れば一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理・諸天善神の威食(いじき)なり。之を信受するに於ては何ぞ七難来たり三災興らんや。剰(あまつさ)え此の事を申す日蓮をば流罪せらる。争でか日月・星宿・罰を加えざらんや。聖徳太子は守屋の悪を倒して仏法を興し、秀郷(ひでさと)は将門を挫いて名を後代に留む。然らば法華経の強敵為る御帰依の寺僧を退治して宜しく善神の擁護を蒙るべき者なり。御式目を見るに非拠を制止すること分明(ふんみょう)なり。争でか日蓮が愁訴(しゅうそ)に於ては御叙(おもち)い無からん、豈・御起請の文を破るに非ずや。
 此の趣を以て方方へ愚状を進(まい)らす。所謂鎌倉殿・宿屋入道殿・建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺・多宝寺・浄光明寺・弥源太殿並びに此の状合せ十一箇所なり。各各御評議有つて速かに御報に預かるべく候。若し爾らば卞和(べんか)が璞(あらたま)磨いて玉と成り、法王髻中(けいちゅう)の明珠・此の時に顕れんのみ。
 全く身の為に之を申さず、神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむるの処・件(くだん)の如し。恐恐謹言。

文永五年戊辰十月十一日 日蓮 花押

平左衛門尉殿

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【北条弥源太への御状】
 去(い)ぬる月御来臨・急ぎ急ぎ御帰宅、本意無く存ぜしめ候い畢んぬ。
 抑(そもそも)蒙古国の牒状到来の事、上一人より下万民に至るまで驚動極まり無し。然りと雖も何なる故と・人未だ之れを知らず。日蓮兼ねて存知せしむるの間、既に一論を造つて之を進覧せり。
 徴(しるし)先達つて顕はれ、則ち災必ず後に来たる。去ぬる正嘉元年丁巳(ひのとみ)八月廿三日戌亥(いぬい)の刻の大地震、是併(これしかし)ながら此の瑞に非ずや。法華経に云く「如是相」と。天台大師云く「蜘蛛(ちちゅう)下りて喜事来り、かん鵲(じゃく)鳴いて行人来る」と。易に云く「吉凶・動に於て生ず」と。此等の本文豈替はるべけんや。
 所詮諸宗の帰依を止めて一乗妙経を信受せしむべきの由勘文を捧げ候。日本亡国の根源は浄土・真言・禅宗・律宗の邪法悪法より起これり。諸宗を召し合せ諸経・勝劣を分別せしめ給え。殊に貴殿は相模(さがみ)の守殿の同姓なり。根本滅するに於ては枝葉豈栄えんや。早く蒙古国を調伏し国土を安穏ならしめ給え。
 法華を謗ずる者は三世諸仏の大怨敵なり。天照太神・八幡大菩薩等・此の国を放ち給う故、大蒙古国より牒状来たるか。自今(いまより)已後各各生け取りと成り・他国の奴(やっこ)と成る可し。此の趣き・方方へ之れを驚かし愚状を進ぜしめ候なり。恐恐謹言。

文永五年戊辰十月十一日    日蓮 花押

謹上 弥源太入道殿

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【建長寺道隆への御状】 
英語版
 夫れ仏閣軒(のき)を並べ・法門屋(いえ)ごとに拒(いた)る。仏法の繁栄は身毒(けんどく)支那に超過し、僧宝の形儀は六通の羅漢の如し。然りと雖も一代諸経に於て未だ勝劣・浅深を知らず、併(しかしな)がら禽獣(きんじゅう)に同じ。忽ち三徳の釈迦如来を抛つて他方の仏・菩薩を信ず。是豈・逆路伽耶陀(ぎゃくろがやだ)の者に非ずや。念仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為(しょい)・真言は亡国の悪法・律宗は国賊の妄説と云云。
 爰に日蓮去ぬる文応元年の比(ころ)勘えたるの書を立正安国論と名け、宿屋入道を以て故最明寺殿に奉りぬ。此の書の所詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に天下に災難頻りに起こり、剰(あまつさ)え他国より此の国責めらる可きの由之を勘えたり。然るに去ぬる正月十八日牒状到来すと。日蓮が勘えたる所に少しも違わず普合せしむ。
 諸寺諸山の祈祷・威力滅する故か。将又(はたまた)悪法の故なるか。鎌倉中の上下万人・道隆聖人をば仏の如く之を仰ぎ、良観聖人をば羅漢の如く之れを尊む。其の外、寿福寺・多宝寺・浄光明寺・長楽寺・大仏殿の長老等は「我慢の心充満し、未だ得ざるを得たりと謂(おも)う」の増上慢の大悪人なり。何ぞ蒙古国の大兵を調伏せしむ可けんや。剰え日本国中の上下万人悉く生け取りと成る可く、今世には国を亡し・後世には必ず無間に堕せん。
 日蓮が申す事を御用い無くんば後悔之れ有る可し。此の趣(おもむき)鎌倉殿・宿屋入道殿・平の左衛門の尉殿等へ之を進状せしめ候。一処に寄り集りて御評議有る可く候。敢へて日蓮が私曲の義に非ず、只経論の文に任す処なり。具(つぶさ)には紙面に載せ難し、併(しかし)ながら対決の時を期す。書は言を尽さず・言は心を尽さず。恐恐謹言。

文永五年戊辰十月十一日  日 蓮 花 押

進上 建長寺道隆聖人侍者御中

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【極楽寺良観への御状】 
英語版
 西戎大蒙古国・簡牒(かんちょう)の事に就て鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候。日蓮去ぬる文応元年の比(ころ)勘え申せし立正安国論の如く毫末計(ごうまつ・ばか)りも之に相違せず候、此の事如何。長老忍性速かに嘲哢(ちょうろう)の心を翻えし、早く日蓮房に帰せしめ給え。若し然らずんば人間を軽賤する者、白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説くの失(とが)脱れ難きか。
 依法不依人とは如来の金言なり。良観聖人の住処を法華経に説て云く「或は阿練若(あれんにゃ)に有り、納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在り」と。阿練若は無事と翻ず、争(いか)でか日蓮を讒奏するの条・住処と相違せり。併(しかし)ながら三学に似たる矯賊(きょうぞく)の聖人なり。僣聖(せんしょう)増上慢にして今生は国賊・来世は那落(ならく)に堕在せんこと必定なり。聊(いささ)かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し。
 此の趣き鎌倉殿を始め奉り、建長寺等其の外へ披露せしめ候。所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず。即ち三蔵浅近の法を以て諸経中王の法華に向うは、江河と大海と、華山と妙高との勝劣の如くならん。蒙古国調伏の秘法は定めて御存知有る可く候か。日蓮は日本第一の法華経の行者、蒙古国退治の大将為り。「於一切衆生中・亦為(やくい)第一」とは是なり。文言多端、理を尽くす能わず。併ながら省略せしめ候、恐恐謹言。

文永五年戊辰十月十一日   日蓮  花押

謹上 極楽寺長老良観聖人御所

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【大仏殿別当への御状】
 去る正月十八日、西戎大蒙古国より牒状到来し候い畢んぬ。其の状に云く、大蒙古国皇帝・日本国王に書を上(たてまつ)る。大道の行わるる・其の義邈(ばく)たり。信を構え睦(むつみ)を修す。其の理何ぞ異ならん乃至至元三年丙寅(ひのえとら)正月日と。
 右此の状の如くんば返牒に依つて日本国を襲う可きの由・分明(ふんみょう)なり。日蓮兼ねて勘え申せし立正安国論に少しも相違せず。急(すみや)かに退治を加え給え。然れば日蓮を放(おい)て之を叶う可からず。早く我慢を倒して日蓮に帰すべし。今生空しく過ぎなば後悔何ぞ追わん。委(くわ)しく之を記すこと能わず、此の趣方方へ申せしめ候。一処に聚集(じゅしゅう)して御調伏有る可く候か。

文永五年十月十一日 日 蓮 花 押

謹上 大仏殿別当御房

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【寿福寺への御状】
 風聞の如くんば蒙古国の簡牒、去る正月十八日慥(たしか)に到来候い畢(おわ)んぬ。然れば先年日蓮が勘えし書の立正安国論の如く普合せしむ。恐らくは日蓮は未萠(みぼう)を知る者なるか。之を以て之を按ずるに念仏・真言・禅・律等の悪法・一天に充満して上下の師と為るの故に此(かく)の如き他国侵逼(しんぴつ)の難起これるなり。法華不信の失に依つて皆一同に後生は無間地獄に堕す可し。早く邪見を翻(ひるがえ)し達磨(だるま)の法を捨てて一乗正法に帰せしむ可し。然る間・方方へ披露(ひろう)せしめ候の処なり。早早一処に集りて御評議有る可く候。委くは対決の時を期す。恐恐謹言。

文永五年十月十一日   日 蓮 花 押

謹上 寿福寺侍司御中

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【浄光明寺への御状】
 大蒙古国の皇帝・日本国を奪う可きの由・牒状を渡す。此の事・先年立正安国論に勘え申せし如く・少しも相違せしめず。内内日本第一の勧賞に行わる可きかと存ぜしめ候の処、剰え御称歎に預らず候。是れ併ながら鎌倉中・著麤(じゃくそ)の類・律宗・禅宗等が「向国王大臣、誹謗説我悪」の故なり。早く二百五十戒を抛つて日蓮に帰して成仏を期す可し。若し然らずんば堕在無間の根源ならん。
 此の趣き・方方へ披露せしめ候い畢んぬ。早く一処に集りて対決を遂げしめ給え。日蓮・庶幾(しょき)せしむる処なり。敢て諸宗を蔑如(べつじょ)するに非ざるのみ。法華の大王戒に対して小乗蟁蝱(もんみょう)戒・豈(あに)相対に及ばんや、笑う可し笑う可し。

文永五年十月十一日 日 蓮 花 押

謹上 浄光明寺侍者御中

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【多宝寺への御状】
 日蓮・故最明寺殿に奉りたるの書・立正安国論御披見候か。未萠を知つて之を勘え申す処なり。既に去る正月蒙古国の簡牒到来す。何ぞ驚かざらんや。此の事不審千万なり。縦(たと)い日蓮は悪(にく)しと雖も、勘うる所の相当るに於ては何ぞ用いざらんや。早く一所に集りて御評議有る可し。若し日蓮が申す事を御用い無くんば、今世には国を亡し、後世は必ず無間大城に堕す可し。
 此の旨方方へ之を申せしめしなり。敢へて日蓮が私曲に非ず・委しく御報に預(あずか)る可く候。言は心を尽さず、書は言を尽さず。併ながら省略せしめ候。恐恐謹言。

文永五年十月十一日 日 蓮 花 押

謹上 多宝寺侍司御中

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【長楽寺への御状】
 蒙古国・調伏の事に就いて方方へ披露せしめ候い畢んぬ。既に日蓮・立正安国論に勘えたるが如く普合せしむ。早く邪法・邪教を捨て、実法・実教に帰す可し。若し御用い無くんば今生には国を亡(ほろぼ)し身を失い、後生には必ず那落に堕す可し。速かに一処に集りて談合を遂げ評議せしめ給え、日蓮庶幾せしむる所なり。御報に依つて其の旨を存ず可く候の処なり。敢へて諸宗を蔑如するに非ず、但此の国の安泰を存する計りなり、恐恐謹言。

文永五年十月十一日    日 蓮 花 押

謹上 長楽寺侍司御中

[ここまで十一通御書]
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【弟子檀那中への御状】  
 大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候。定めて日蓮が弟子檀那、流罪(るざい)・死罪一定(いちじょう)ならん。少しも之を驚くこと莫(なか)れ、方方への強言(ごうげん)申すに及ばず。是併(これ・しかし)ながら而強毒之(にごうどくし)の故なり。日蓮庶幾せしむる所に候。
 各各用心有る可し。少しも妻子眷属(けんぞく)を憶うこと莫れ、権威を恐るること莫れ。今度生死の縛(ばく)を切つて仏果を遂げしめ給え。鎌倉殿・宿屋入道・平の左衛門尉・弥源太・建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿・長楽寺 已上十一箇所。仍つて十一通の状を書して諌訴せしめ候い畢んぬ。定めて子細有る可し。日蓮が所に来たりて書状等披見せしめ給え。恐恐謹言。

文永五年戊辰十月十一日  日 蓮 花 押

日蓮弟子檀那中




by johsei1129 | 2019-09-07 12:40 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)


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