日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 11月 12日

寿量品の自我偈に云く(略)日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、と説いた【義浄房御書】

【義浄房御書】
■出筆時期:文永十年(1273年)五月二十八日 五十二歳御作
■出筆場所:佐渡国一の谷入道の屋敷にて。
■出筆の経緯:本抄は大聖人が清澄寺での修行時代の兄弟子の一人、義浄房からの法華経に関する問について答えられた書となります。大聖人は本書を記された約一か月前に法本尊を開顕した「観心本尊抄」を顕されており、本書でも『寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し』と記され、自身が末法の本仏である内証を示されておられます。義浄房は大聖人が清澄寺で立宗宣言した後に地頭・東条景信に追われた時、同じ兄弟子の浄顕房とともに清澄寺を下り大聖人を外護されます。その後義浄房は清澄寺に戻りますが、生涯大聖人に帰依し法門についても度々問いかけられています。大聖人は恩ある兄弟子でもあり、大聖人への帰依の志の深さ故、義浄房に内証を明かされたと拝されます。
※参照[報恩抄:日蓮が景信あだまれて清澄山を出でしに、をひてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり。後生は疑ひおぼすべからず。]
■ご真筆:現存しておりません。

[義浄房御書 本文]

御法門の事委しく承はり候い畢んぬ。
法華経の功徳と申すは唯仏与仏の境界・十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの内証なり。
されば天台大師も妙の一字をば妙とは妙は不可思議と名くと釈し給いて候なるぞ前前御存知の如し、然れども此の経に於て重重の修行分れたり天台・妙楽・伝教等計りしらせ給う法門なり。就中く伝教大師は天台の後身にて渡らせ給へども人の不審を晴さんとや思し食しけん大唐へ決をつかはし給ふ事多し。されば今経の所詮は十界互具・百界千如・一念三千と云ふ事こそゆゆしき大事にては候なれ、此の法門は摩訶止観と申す文にしるされて候。次に寿量品の法門は日蓮が身に取つてたのみあることぞかし。天台・伝教等も粗しらせ給へども言に出して宣べ給はず、竜樹・天親等も亦是くの如し。

寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し。叡山の大師・渡唐して此の文の点を相伝し給う処なり、一とは一道清浄の義心とは諸法なり、されば天台大師心の字を釈して云く「一月三星・心果清浄」云云。日蓮云く一とは妙なり心とは法なり欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり、一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり、無作の三身の仏果を成就せん事は恐くは天台伝教にも越へ竜樹・迦葉にも勝れたり。相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり、法華経の御為に身をも捨て命をも惜まざれと強盛に申せしは是なり、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。
文永十年五月二十八日     日 蓮 花押
義浄房御返事

【妙法蓮華経 如来寿量品 第十六】
 衆見我滅度 広供養舎利 
 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
 衆生既信伏 質直意柔軟 
 一心欲見仏 不自惜身命
 時我及衆僧 倶出霊鷲山 
 [和訳]
 衆(生)は我が滅度を見て、広く舎利を供養し、
 ことごとく皆仏への恋慕を懐き、而して(仏への)渇仰心を生じる。
 衆生は既に(仏に)信伏し、質直で意(心)は柔軟にして、
 一心に仏を見んと欲し、自から身命を惜しまずば、
 時に我(仏)及び衆僧は、倶に霊鷲山に出ずるなり。




by johsei1129 | 2015-11-12 22:55 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)
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