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日蓮大聖人『御書』解説

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2022年 04月 08日

我も法華経を知りたりと人毎に申し候<略>皆弘法・慈覚・智証の嫡嫡なり、と説いた【弥源太入道殿御返事】

【弥源太入道殿御返事】
■出筆時期:文永十一年(1274年)九月十七日 五十三歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は北条一門の武士でありながら日蓮大聖人に帰依した強信徒の弥源太から、重病から回復したとの報告を受けた事への返書となります。弥源太はこの年の二月中旬頃、佐渡の大聖人の元へ病気平癒の祈祷で太刀を二振を供養されておられます。また同じ二月十四日に鎌倉幕府は大聖人の佐渡流罪を許す「赦免状」を発しており、幕府中枢にいた弥源太は祈祷依頼の際、内々でこの情報を大聖人に伝えたのではないかと推察されます。尚、弥源太の祈祷依頼への返書が残されており[弥源太殿御返事]を参照して下さい。

 本抄で大聖人は、「当世は我も法華経をしりたりと人毎に申し候。時に法華経の行者はあまた候<中略>弘法大師は法華経最第三と、慈覚・智証は法華経最第二、或は戯論(けろん)なんどこそ読み候いしか。今又是くの如し<中略>日蓮は怯弱(こうにゃく)の者にて候へば、かく申す事をも人・御用いなし。されば今日本国の人人の我も我も経を読むといへども申す事、用ゆべしとも覚えず候」と断じ、口では法華経を知っていると言っても全て転子病(現代の遺伝病)に罹ったように弘法・慈覚・智証の影響を受け、「法華経最第一・皆是真実」と説く釈迦仏、多宝仏十方の諸仏に違背していると断じられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

[弥源太入道殿御返事 本文]

 別の事候まじ。憑(たの)み奉り候上は最後は・かうと思し食し候へ。河野辺の入道殿のこひしく候に、漸(ようや)く後れ進らせて其のかたみと見まいらせ候はん。さるにても候へば、如何(いかん)が空しかるべきや。さこそ覚え候へ。

 但し当世は我も法華経をしりたりと人毎に申し候。時に法華経の行者はあまた候。但し法華経と申す経は転子病と申す病の様に候。転子と申すは親の様なる子は少なく候へども、此の病は必ず伝わり候なり。例せば犬の子は母の吠(とおぼえ)を伝へ、猫の子は母の用(はたらき)を伝えて鼠を取る。

 日本国は六十六箇国・嶋二つ。其の中に仏の御寺は一万一千三十七所、其の内に僧尼或は三千・或は一万・或は一千・一百・或は十人・或は一人候へども、其の源は弘法大師・慈覚大師・智証大師、此の三大師の御弟子にて候。山の座主・東寺・御室・七大寺の検校・園城寺の長吏・伊豆・箱根・日光・慈光等の寺寺の別当等も皆此の三大師の嫡嫡(ちゃくちゃく)なり。此の人人は三大師の如く読むべし。其れ此の三大師、法華経と一切経との勝劣を読み候しには、弘法大師は法華経最第三と、慈覚・智証は法華経最第二・或は戯論(けろん)なんどこそ読み候いしか。今又是くの如し。

 但し日蓮が眼には僻目(ひがめ)にてや候らん。法華経最第一・皆是真実と釈迦仏・多宝仏十方の諸仏は説いて証明せさせ給へり。此の三大師には水火の相違にて候。其の末を受くる人人、彼の跡を継で彼の所領の田畠を我が物とせさせ給いぬれば、何(いか)に諍(あらそ)はせ給うとも三大師の僻事(ひがごと)ならば、此の科(とが)遁れがたくやおはすらんと見え候へども、日蓮は怯弱(こうにゃく)の者にて候へば・かく申す事をも人・御用いなし。されば今日本国の人人の我も我も経を読むといへども、申す事用ゆべしとも覚えず候。

 是はさて置き候ぬ。御音信(おんおとずれ)も候はねば、何(いか)にと思いて候つるに御使ひ・うれしく候。御所労の御平愈の由うれしく候・うれしく候。尚仰せを蒙る可く候・恐恐謹言。

 九月十七日             日蓮 花押

 弥源太入道殿御返事




by johsei1129 | 2022-04-08 20:47 | 弟子・信徒その他への消息 | Trackback | Comments(0)


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