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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 10月 28日

賢人は八風と申して利衰毀誉称譏苦楽に冒されぬを賢人と申すなりと説いた【四条金吾殿御返事】

■出筆時期:建治三年(1277)四月 五十六歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は、主君江馬氏からの信頼が厚かった四条金吾が、同僚から妬まれ度々主君に讒言(ざんげん)されるのに耐え難くなり、主君に同僚を訴えようとかと大聖人に久しぶりに手紙を出され相談された事への返書となっております。

大聖人は「日蓮が御かんきの時、日本一同ににくむ事なれば<中略>所領をお(追)いなんどせしに、其の御内になに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候」と記され、佐渡流罪の大難の時、所領を追い出された日蓮門下の信徒が多い中、金吾が主君からそのような仕打ちに合わなかった事は、由々しき大恩であり「この上は例え一分の御恩なくとも、恨むべき主君にあらず」と、自重するように諭されておられます。
そして「賢人は八風と申して八の風におか(冒)されぬを賢人と申すなり、利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・苦(くるしみ)・楽(たのしみ)なり。をを心は利あるに喜ばず、衰えるに嘆かず等の事なり。此の八風にをかされぬ人をば必ず天は守らせ給うなり。如かるをひり(道理)に主を怨みなんどし候へば、いかに申せども天守り給う事なし」と、厳しく指導されておられます。
尚、金吾は本抄を受け取ったすぐ後の五月二十三日、主君江間氏から御勘気を被りますが、その時も大聖人は短気な金吾に自重するよう細やかに指導をされております。そして翌年の建治四年一月、大聖人の指導と金吾の主君への至誠が通じ、江間氏から御勘気を解かれ所領も復活することになります。※参照:四条金吾殿御書(九思一言事)】
■ご真筆:京都市妙覚寺(断簡)所蔵、身延久遠寺所蔵分は明治八年の大火で焼失。

[四条金吾殿御返事(八風抄) 本文]

はるかに申し承り候はざりつれば、いぶせく候いつるに・かたがたの物と申し御つかいと申しよろこび入つて候。又まほりまいらせ候、所領の間の御事は上よりの御文ならびに御消息引き合せて見候い畢んぬ。

此の事は御文なきさきにすいして候、上(かみ)には最大事と・おぼしめされて候へども、御きんずの人人のざんそうにてあまりに所領をきらい上をかろしめたてまつり候。ぢうあうの人こそををく候にかくまで候へば且らく御恩をば・おさへさせ給うべくや候らんと申しぬらんと・すいして候なり。

それにつけては御心えあるべし御用意あるべし、我が身と申しをやるいしん(親親類)と申し、かたがた御内に不便(ふびん)といはれまいらせて候大恩の主なる上、すぎにし日蓮が御かんきの時・日本一同ににくむ事なれば弟子等も或は所領を・ををかたよりめされしかば又方方の人人も或は御内内をいだし或は所領をお(追)いなんどせしに、其の御内に・なに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候。

このうへは・たとひ一分の御恩なくとも・うらみまいらせ給うべき主にはあらず、それにかさねたる御恩を申し所領をきらはせ給う事・御とがにあらずや。

賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなりしかるを・ひりに主をうらみなんどし候へば・いかに申せども天まほり給う事なし、訴訟を申せど叶いぬべき事もあり、申さぬに叶うべきを申せば叶わぬ事も候、夜めぐりの殿原の訴訟は申すは叶いぬべきよしを・かんがへて候しに・あながちに・なげかれし上日蓮がゆへに・めされて候へば・いかでか不便に候はざるべき、ただし訴訟だにも申し給はずば・いのりてみ候はんと申せしかば、さうけ給わり候いぬと約束ありて・又をりかみをしきりにかき・人人・訴訟ろんなんど・ありと申せし時に此の訴訟よも叶わじとをもひ候いしが・いままでのびて候。

だいがくどのゑもんのたいうどのの事どもは申すままにて候あいだ・いのり叶いたるやうに・みえて候、はきりどのの事は法門の御信用あるやうに候へども此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば・いかんがと存じて候いしほどに・さりとては・と申して候いしゆへにや候けん・すこし・しるし候か、これに・をもうほど・なかりしゆへに又をもうほどなし、だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし、又だんなと師とをもひあひて候へども大法を小法をもつて・をかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、我が身も・だんなも・ほろび候なり。

天台の座主・明雲と申せし人は第五十代の座主なり、去ぬる安元二年五月に院勘をかほりて伊豆国へ配流・山僧大津よりうばいかへす、しかれども又かへりて座主となりぬ・又すぎにし壽永二年十一月に義仲に・からめとられし上・頚うちきられぬ・是はながされ頚きらるるを・とがとは申さず賢人・聖人もかかる事候、但し源氏の頼朝と平家の清盛との合戦の起りし時・清盛が一類・二十余人・起請をかき連判をして願を立てて平家の氏寺と叡山をたのむべし三千人は父母のごとし・山のなげきは我等がなげき・山の悦びは我等がよろこびと申して、近江の国・二十四郡を一向によせて候しかば、大衆と座主と一同に内には真言の大法をつくし・外には悪僧どもを・もつて源氏をいさせしかども義仲が郎等ひぐち(樋口)と申せしをのこ義仲とただ五六人計り叡山中堂にはせのぼり調伏の壇の上にありしを引き出して・なわをつけ西ざかを大石をまろばすやうに引き下して頚をうち切りたりき、かかる事あれども日本の人人真言をうとむ事なし又たづぬる事もなし・去ぬる承久三年辛巳五六七の三箇月が間・京・夷の合戦ありき、時に日本国第一の秘法どもをつくして叡山・東寺・七大寺・園城寺等・天照太神・正八幡・山王等に一一に御いのりありき、其の中に日本第一の僧四十一人なり所謂前の座主・慈円大僧正・東寺・御室・三井寺の常住院の僧正等は度度・義時を調伏ありし上、御室は紫宸殿にして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに同じく十四日に・いくさに・まけ勢多迦(せたか)が頚きられ御室をもひ死に死しぬ、かかる事候へども真言は・いかなるとがとも・あやしむる人候はず、をよそ真言の大法をつくす事・明雲第一度・慈円第二度に日本国の王法ほろび候い畢んぬ、今度第三度になり候、当時の蒙古調伏此れなり、かかる事も候ぞ此れは秘事なり人にいはずして心に存知せさせ給へ。

されば此の事御訴訟なくて又うらむる事なく御内をばいでず我かまくらにうちいて・さきざきよりも出仕とをきやうにて・ときどきさしいでて・おはするならば叶う事も候なん、あながちに・わるびれて・みへさせ給うべからず、よくと名聞・瞋との。※此の後の文は残されておりません。

by johsei1129 | 2015-10-28 21:14 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)
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