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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 10月 18日

撰時抄愚記 上十一 寿量の顕本に略して二義あり。文上は久遠本果の三身、文底は本地無作の三身なり。


  次に「例せば神力」の下は在世を以て末法に例するなり。

南無妙法蓮華経と一同に」等とは、  

問う、神力品の中に(ただ)仏名のみを唱うるの文を見れども、(いま)だ経名を唱うるの文を見ず、如何(いかん)

答う、諸抄に異説(らん)(ぎく)たり。(あるい)は云く、能例・所例合して之を()ぐるなり云云。或は云く、(すで)に人法体一なり。故に仏名即ち経名なるが故なり云云。或は云く、法子(なお)(うやま)う。况や仏母(ぶつも)の経をや。或は云く、空中の勧信(すで)に人法あり。帰命の文(あに)(しか)らざらんや。或は云く、既に能説の教主を信じて()名を唱う。何ぞ所説の法を信じて其の名を唱えざらんや。此等は並びに是れ人情なり、何ぞ(せい)()(かかわ)らんや。

(いわ)く、是れ寿量文底の意に()るが故なり。(ひろ)く之を論ずれば、則ち「釈迦(しゃか)()尼仏(にぶつ)」に於て小大・権実・迹本等の(こと)り有り云云。今(まさ)しく之を論ぜば、寿量の意に()って是の文を(しょう)すべし。所謂(いわゆる)、寿量の顕本(けんぽん)に略して二意あり。

一には、文上の意は即ち久遠本果の三身を顕すなり。此の仏は色相(しきそう)荘厳(しょうごん)の尊容にして在世脱益(だっちゃく)の教主なり。此の仏の名号(みょうごう)を「南無釈迦(しゃか)()尼仏(にぶつ)」と云うなり。(十方(じっぽう)世界の一切衆生は文上の本果(ほんが)の三身を信ず。故に「南無釈迦牟尼仏」と唱うるなり。

二には、文底の意は即ち本地無作(むさ)(さん)(じん)を顕すなり。()の仏は凡夫の当体本有(ほんぬ)(まま)なり。即ち是れ本因妙の教主なり。此の仏の名号を「南無妙法蓮華経」と云うなり。()の十方世界の一切衆生、文底無作の三身を信ぜば、(あに)「南無妙法蓮華経」と唱えざるべけんや。今此の意を以て末法に例するなり。故に知んぬ、末法下種の教主日蓮大聖人は(すなわ)ち是れ本地無作の三身・南無妙法蓮華仏なり。故に「(ひとり)の小僧を信じて南無妙法蓮華経と唱うべし」と(はん)じ給うなり。

御義口伝下九に云く「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作の三身の宝号(ほうごう)を南無妙法蓮華経と云うなり」文。「末法の法華経の行者」とは(れん)()の御事なり。

(また)(また)に知るべし、当流の行者は皆是れ本地無作三身の南無妙法蓮華仏なり。

御義の下十一に云く「(しか)らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり、南無妙法蓮華経の宝号を(たも)ち奉る故なり」云云。「当体蓮華仏」とは是れ妙法蓮華仏と云うことなり。(しか)して当体とは()()に対するの言なり。故に当体蓮華は即ち是れ妙法蓮華なり云云。

或る人問うて云く、寿量の顕本に略して二義ありとの証文は如何(いかん)

答う、天台云く「此の品の詮量(せんりょう)通じて三身と名づく」とは、即ち是れ久遠本果の三身にして文上の意なり。「()し別意に()れば(まさ)に報身に()り」とは、即ち是れ本地無作の三身にして久遠元初の自受用報身なり。是れ文底の意なり。此れは是れ天台の内鑒(ないがん)冷然(れいねん)の意なり云云。是れ深秘(じんぴ)の相伝なり。


                       つづく
撰時抄愚記上 目次


by johsei1129 | 2015-10-18 20:20 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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