人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2019年 09月 29日

大聖人が門下の弟子・信徒が他宗と法論をする際の指南書としてしたためた書【早勝問答】

【早勝問答】
■出筆時期:文永八年(1271年)五十歳御作 ※恐らく九月十二日の「竜ノ口法難」の前と思われます。
■出筆場所:鎌倉市中の草庵と思われます。
■出筆の経緯:本書を記された二年前、蒙古から鎌倉幕府に国書が届き「立正安国論」で予言した他国侵逼難が的中します。大聖人は直ちに執権北条時宗及び浄土宗ら他宗派へ「十一通御書」を発し、法華経に帰依するよう弘教の勢いを強めていきます。恐らく弟子・信徒もそれぞれの持ち場で、他宗との論争に励んでいたものと思われる。

本書は門下の弟子・信徒が他宗との法論を成功に導くために大聖人が要点を簡潔にまとめ、布教の一助にするようしたためた書と思われます。
大聖人は立宗宣言前の比叡山での遊学、また立正安国論を立論するために岩本実相寺で一切経をあらためて読了するなどした研鑽の成果を全て本書につぎ込んで、布教に励む弟子・信徒の指南をされておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

[早勝問答 本文]


浄土宗問答。

問う六字の名号は善悪の中には何ぞや、答う一義に云く今問う所の善悪は世出の中には何ぞや、一義に云く云う所の善悪を治定(じじょう)せば堕獄(だごく)治定なるか、一義に云く名号悪と治定せば堕獄治定なるか、一義に云く念仏無間治定して其の上に善悪を尋ぬるか、一義に云く汝が依経は権実の中には何れぞや。

問う念仏無間と云わば法華も無間なり、答う一義に云く法華無間とは自義なるか経文なるか、一義に云く念仏無間をば治定して法華無間と云うか、一義に云く祖師の謗法を治定して法華も無間と云うか、一義に云く汝が云う所の法華は超過(ちょうか)の法華か又弥陀成仏の法華か。

問うて云く念仏無間の証拠(しょうこ)二十八品の中には何れぞや、答う一義に云く二十八品の中に証拠有らば堕獄治定なるか、一義に云く法華を誹謗するを証拠とするなり、一義に云く法華の文を尋ぬるは信じて問うか信ぜずして問うか、一義に云く直(ただち)に入阿鼻獄(あびごく)の文を出すなり、一義に云く妙法蓮華経其の証拠なり、一義に云く弥陀の本誓(ほんぜい)に背く故なり、一義に云く弥陀の命を断つ故なり、一義に云く有縁(うえん)の釈尊に背く故なり念仏無間は三世諸仏の配立なり。

問う止観の念仏の事、答う一義に云く法然所立の念仏は堕獄治定して止観を問うか、一義に云く西方の念仏と一なるか異なるか、一義に云く止観の念仏は法華を誹謗するか、一義に云く彼に文段を問う可し、一義に云く止観に依つて浄土宗を建立するか。

問う観経は法華已後の事、答う一義に云く此の故に法華を謗ずるか、一義に云く已前ならば無間は治定なるか、一義に云く汝が謗法は無間をば治定して問うか。

問う観経と法華と同時なり、答う一義に云く同時なる故に法華を謗ずるか、さては返つて観経をも謗ずるなり。

問う先師の謗法は一往なり且(しばら)くの字を置く故なり、答う一義に云く且く謗ぜよとは自義か経文か、一義に云く始終共に謗ぜば堕獄は治定なるか。

問う未顕真実は往生に非ず成仏の方なり、答う一義に云く此の故に法華を謗ずるか、一義に云く余経は無得道と云う人は僻事(ひがごと)か。

問う法華本迹の阿弥陀をば如何、答う一義に云く法華の弥陀は法華経を謗ぜんと誓い給いしか、一義に云く法華の弥陀と三部経と同じきか異なるか、異ならば無間治定なるか。

問う一称南無仏と何(いか)んぞ称名を無益と云わんや、答う一義に云く此の故に法華を謗ずるか、一義に云く法華を信じて問うか信ぜずして問うか。

問う法華に「諸の如来に於て」「諸仏を恭敬す」と何ぞ弥陀を捨つるや、答う一義に云く此の故に法華を謗ずるか大旨上の如し

問う「余の深法中に示教利喜す」と何ぞ余経を謗ずるや、答う一義に云く此の故に法華を謗ずるや、一義に云く汝が誹謗は治定して問うか又自義か経文か大旨上の如し。

問う普門品(ふもんぼん)に観世音の称名功徳を挙ぐと見えたり何ぞ余の仏・菩薩を捨てんや、答う一義に云く此の故に法華を謗ずるか、一義に云く此の観音は法華を謗ずるか、一義に云く此の品に依つて念仏を立つるか、私に云く彼が経文釈義を引かん時は先ず文段を一一問う可し、大段万事の問には誹謗の言を先とす可きなり、前の当家の義云云。

禅宗問答。

問う禅天魔の故如何、答う一義に云く仏経に依らざる故なり、一義に云く一代聖教を誹謗する故なり。

問う禅とは三世諸仏成道の始は坐禅し給へり如何、答う一義に云く汝が坐禅は仏の出世に背かば天魔治定なるか、又坐禅は大小の中には何れぞや、一義に云く仏の端座(たんざ)六年は法華に無益と云うか。

問う禅法には仏説無益なり、答う一義に云く是自義なるか経文なるか、一義に云くやがて是が天魔の所為なり。

問う経文には「是法不可示」と如何、答う一義に云く此の文は法華無益と云う文なるか、一義に云く爾(しか)らば法華に依るか、一義に云く文段を以て責む可きなり。

問う竜女は坐禅の成仏なり其の故は経文に「深く禅定に入つて諸法に了達す」と説き給へり、知んぬ法華無益と云うことを、答う一義に云く此の義は自義なるか経文なるか、一義に云く若し法華の成仏ならば天魔治定なるか、一義に云く文殊海中の教化は論説妙法と宣(の)べたり如何。

問う常に坐禅を好み深く禅定に入つて常に坐禅を貴ぶとも説けり如何、答う一義に云く文段を以て責む可し、一義に云く此の文は法華無益と云う文なるか、一義に云く此の文を以て禅宗を建立するか。

問う唯独(ただひと)り自(おのれ)のみ明了にして余人の見ざる所と云う故に禅宗ひとり真性を見て余人は見ずと云うなり、答う一義に云く文段を以て責む可し経文を見る可し、問う像法決疑経に云く「一字不説」と爾らば一代は未顕真実と聞きたり真実は只迦葉一人教の外に別伝し給へり如何、答う此の文は仏説か若し仏説ならば汝此の文に依る故に自語相違なり、一義に云く言う所の迦葉は何なる経にて成仏するや、一義に云く言う所の経文は三説の中には何れぞや、一義に云く楞伽(りょうが)経は仏説なるか。

問う三大部に観心之有り何ぞ禅天魔と云うや、答う一義に云く汝は三大部にて宗を立つるか、一義に云く三大部の観心は汝が禅と同じきか、一義に云く汝は天台を師とするか、一義に云く三大部の観心は諸経を捨つるか。

問う雙非(そうひ)の禅の事如何、答う一義に云く一度は法華に依り一度は法華無益なり、一義に云く二義共に天魔なり一義に云く此の義に背かん者は僻事(ひがごと)なるか。

問う法華宗は妙法の道理を知るや、答う一義に云く汝は天魔を治定して問うか、一義に云く汝は法華を信じて問うか、一義に云く妙法を知つて問うか知らずして問うか、一義に云く汝が問う所の妙法は今経に付いて百二十の妙有り其の品品を問うか、一義に云く汝は此の妙法に依つて禅を建立するか。

天台宗問答。

問う天台宗を無間という証拠如何、答う一義に云く法華を誹謗する故なり、一義に云く経文に背く故なり。
問う余経無益と云う事は麤(そ)を判ずる一往の意なり再往の日は諸乗一仏乗と開会(かいえ)す何ぞ一往を執して再往の義を捨つるや、答う一義に云く今言う所の開会とは何れの教の開会ぞや、一義に云く今経に於て本迹の十妙の下に各二十の開会あり亦教行人理の四一開会の中には何れぞや、一義に云く能開・所開の中には何れぞや、一義に云く開会の後善悪無しと云うか、一義に云く天台宗は法華を信ずるか、一義に云く開会の後諸宗を簡(えら)ばずと云わば天台大師僻事(ひがごと)なるか其の故は南三北七云云伝教大師は六宗と云云、一義に云く天台宗は悪行をも致す可きか性悪不断と云うが故に自語相違なりと責む可きなり、一義に云く開会(かいえ)の後に権実を立つる人は僻事なるか爾(しか)らば薬王の十喩・法師の三説超過云云、一義に云く此の故に開会の心を以て慈覚は法華を謗ずるか、一義に云く汝は慈覚の弟子なるか爾らば謗法治定なるか。

問う善悪不二・邪正一如の故に強(あなが)ちに善悪を云う可からず元意の重是なり、答えて云く天台の出世は悪を息(や)めんが為か又悪を増さんが為か、一義に云く悪事を致せとは法華経二十八品の中には何れの処に見えたるや。

問う絶待妙の事、答う一義に云く先ず文段を問う可し、一義に云く何れの教の絶待ぞや、一義に云く此の故に慈覚は法華を謗ずるか。

問う相待は一往・絶待は再往と見えたり如何、答う自義なるか経文なるか、一義に云く相待妙一往と云うは二十八品の中には何れに見えたるや、一義に云く相待妙は法華に明すか余経に明すか若し法華に明さば法華は一往なるか。

問う約教約部の故に約部の日は一往爾前(にぜん)の円を嫌うなり、答う一義に云く言う所の約教は天台の判釈の四種の約教の中には何れぞや、一義に云く約部は落居(らっこ)の釈なるか、一義に云く約部を捨つ可きか、一義に云く約教の時爾前の円を嫌わば堕獄(だごく)は治定なるか、一義に云く約教の辺にて今昔円同じとは法華経二十八品の中何れぞや、一義に云く玄文の第一の施開廃の三重の故に開会の後も余経を捨つると云う文をば知るか知らざるか。

山門流の真言宗問答。

問う法華第一と云うは顕教の門なり真言に対すれば第一とは云う可からず、答う自義なるか経文なるか爰を以て慈覚大師を無間と申すなり、一義に云く真言に対して法華第一ならば亡国治定なるか、一義に云く真言は已今・当・の中には何れぞや、若し外と云わば一機一縁の一往にして秘密とは云わる可からざるなり。

問う法華と真言とは理同事勝の故に真言に対すれば戯論(けろん)の法と云うか、答う一義に云くさてこそ汝は無間治定なれ、一義に云くさては慈覚は真言をも謗ずるなり其の故は理同の法華を謗ずる故なり。

問う伝教の本理大綱集の文を以て顕密同(けんみつどう)と云う事、答う一義に云く此の書は伝教の御作に非ざるなり、一義に云く此の書に依つて法華を慈覚は謗ずるか。

東寺流の問答。

問う真言は釈尊の説と云う事其の証拠(しょうこ)如何、答う若し真言釈尊の説ならば亡国は治定なるか、若し然なりと云わば弘法大師五蔵を立つる時・法華を六波羅蜜経の五蔵の第四般若波羅蜜蔵・第五の陀羅尼蔵(だらにぞう)をば真言と建立し給へり如何。

問う真言宗を未顕真実とは言うべからず其の故は釈迦の説の外に建立する故なり如何、答えて云く若し釈尊の説教ならば亡国は治定なるか、一義に云く六波羅蜜経は釈迦の説なるか大日の説なるか、若し釈迦の説ならば未顕真実は治定なるか、他云く釈迦所説の顕教無益なりと。
尋(たず)ねて云く六波羅蜜経は顕教密教の中には何れぞや、他云く六波羅蜜経は雑部の真言なり我が家の三部は純説の真言なり、

答う助証正証と云う事全く弘法の所判に見えず若し弘法の義ならば堕獄は治定なるか、他云く真言は速疾の教・顕教は迂回歴劫(うえりゃっこう)の教なり云云、自ら云く自義なるか経文なるか、他云く五秘密教に云く「若し顕教(けんきょう)に於て修行する者は久しく三大無数劫を経(ふ)」と説けり是れ其の証拠なり如何、答う、さて此の経は釈迦の説なるか大日の説なるか若し釈迦の説ならば未顕真実は治定なるか。

問う法華宗は何れの経に依つて仏の印契相好を造るや顕教には無し但真言の印を盗むと覚えたり如何、答う之に依つて法華を謗ずるか、一義に云く汝盗むの義相違せば亡国は治定なるか、一義に云く汝法華宗の建立する所の大段の妙法蓮華経をば本尊と落居して問うか、一義に云く釈尊を三部に依つて建立する故に驢牛(ろご)の三身と下すか若し爾なりと云わば返つて汝は真言を誹謗する者なりと責む可し、一義に云く三世の諸仏の印契相好(いんけいそうごう)実に妙法蓮華経に依つて具足するの義・落居せば亡国は治定なるか、又盗人は治定なるか、一義に云く竜女・霊山に即身に印契相好具足し南方に成道を唱えしは真言に依つて建立するか若し爾なりと云わば直に経文を出せと責む可きなり。

問う亡国の証拠如何、答う法華を誹謗(ひぼう)する故なり云云、一義に云く三徳の釈尊に背く故なり云云、一義に云く現世安穏・後生善処の妙法蓮華経に背き奉る故に今生には亡国・後生には無間と云うなり、一義に云く法華経第三の劣とは経文なるか自義なるか若し爾(しか)らば亡国治定なるか。
他云く密教に対すれば第三の劣なり、答う一義に云く此の義経文なるか自義なるか、一義に云く顕教の内に法華第一なる事・落居(らっこ)するか、若し爾なりと云はばさては弘法は僻事(ひがごと)なり顕教の内にして法華を華厳に対して第二・真言に対して第三と云う故なり、一義に云く真言に対して第一ならば亡国は治定なるか。
他云く印真言を説かざるが故に第三の劣と云うなり、答う此の故に劣とは経文なるか自義なるか、一義に云く若し法華に説かば亡国は治定なるか。
他云く大日・釈迦各別なり、答う一義に云く此の故に法華を謗ずるか、一義に云く若し一仏ならば亡国は治定なるか、一義に云く各別なれば劣とは経文なるか自義なるか。
他云く顕教は応身・密教は法身の説なり此の故に法華は第三の劣なり、自ら云く応身の説の故に法華劣とは経文なるか自義なるか、一義に云く法華法身の説ならば亡国治定なるか、一義に云く真言は応身の説ならば亡国は治定なるか。
他云く五智・五仏の時は北方は釈迦・中央は大日と見えたり如何、答う一義に云く中央釈迦ならば亡国治定なるか、一義に云く北方釈迦と云う事は三部の内に無し不空の義なり仏説に非ず。
他云く法華は穢土の説なり真言は三界の外の法界宮の説なり、答う一義に云く真言は三界の内の説ならば亡国治定なるか義釈の文
他云く顕教の内にて大日釈迦一体と説くとも密教の内にては二仏各別なり名は同じけれども義異るなり如何、答う此の故に亡国と云うなり、一義に云く此くの如く云う事直に経文を出す可きなり。
他云く竜女は真言の成仏・法華には三密闕くる故なり、答う自義なるか経文なるか。
他云く経文なり「陀羅尼(だらに)を得・不退転(ふたいてん)を得たり」云云、陀羅尼は三密の加持なり、答う、此の陀羅尼を真言と云うは自義なるか経文なるか、一義に云くさては弘法の僻事なり其の故は此の陀羅尼を戯論(けろん)第三の劣と下すなり、一義に云く自語相違なり法華に印有る故なり。
他云く守護経の文に依れば釈迦は大日より三密の法門を習いて成仏するなり、答う此の故に法華を謗ずるか、一義に云く此の文は三説の内なるか外なるか、一義に云く此れに相違せば亡国は治定なるか。
他云く法華経には「合掌を以て敬心し・具足の道を聞かんと欲す」と云へり何ぞ印・真言を捨つるや、答う此の故に法華を謗ずるか、一義に云く自義なるか経文なるか、一義に云く此の故に真言を捨てずとは経文なるか、一義に云く此の文は真言を持つと云う文なるか、一義に文段を以て責む可し。
他云く弘法大師を無間と云うは経文なるか自義なるか、答う経文なり。
他云く二十八品の中には何れぞや、答う二十八品の中に有らば堕獄治定なるか、他云く爾なり、答う法華を誹謗すること治定なるか若し爾らば経文を出して責む可きなり。

by johsei1129 | 2019-09-29 21:59 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://nichirengs.exblog.jp/tb/24560926
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。


<< 十二色の布をご供養され「ときに...      命限り有り惜む可からず、遂に願... >>