人気ブログランキング |

日蓮大聖人『御書』解説

nichirengs.exblog.jp
ブログトップ
2015年 10月 10日

撰時抄愚記 上三


 第三には、蓮祖は
()謗法(ほうぼう)呵責(かしゃく)したもうが故に。涅槃(ねはん)経の第三・二十九に云く「()(ぜん)比丘(びく)あって法を(やぶ)る者を見て、()いて呵責し駈遣(くけん)()(しょ)せずんば、(まさ)に知るべし、是の人は仏法の中の(あだ)なり。若し()く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子、真の声聞なり」と文。

「法を壊る者」とは、禅・念仏・真言等なり。(しか)るに彼等が謗法を見て置いて呵責せずんば仏法中の怨なり。(たと)えば(ちょう)(てき)を見て(いたずら)に之を責めざるが如し。(あに)朝敵に(こと)らんや。(ただ)、吾が蓮師は(もっぱ)ら如来の勅命を仰ぎ、(あえ)身命(しんみょう)を惜しまず、日々(にちにち)夜々(やや)に之を呵責し、月々年々に之を駈遣したまう。(あに)「是れ我が弟子、真の声聞」に非ずや。故に真実の釈子(しゃくし)なり。若し門流の行者と雖も、謗法を呵責せずんば仏法中怨(ちゅうおん)(せめ)、恐らくは免れ難きか。(なん)ぞ身命を()しんで無上道を惜しまざらんや。

第四には、蓮祖は能く此の経を読持(どくじ)したもうが故に。宝塔品に云く「能く来世に於て、此の経を読み持たんは、是れ真の仏子、(じゅん)(ぜん)の地に住するなり」と文。

経文に「()く来世に於て」とは即ち是れ末法なり。「読持」とは本門の題目なり「(どく)」は即ち是れ行なり「()」は即ち是れ信なり。信ずるが故に此れを(たも)つ、()信ぜずんば何ぞ持つべけんや。故に「持」は是れ信なり。「此の経」とは法華経なり。法華経とは、今末法に(おい)ては即ち是れ本門の本尊の妙法蓮華経の五字なり。是れ(すなわ)ち広・略・要の中には要の法華経なり。(もん)・義・意の中には意の法華経なり。種・(じゅく)・脱の中には下種の法華経なり。

故に知んぬ、()く末法に於て本門の本尊・妙法蓮華経を唱え信ずる人は、即ち是れ真実の釈子(しゃくし)なり。故に「是れ真の仏子」と云うなり。
 「淳善の地に住す」とは、即ち是れ本門の戒壇なり。
(およ)そ戒とは防止を義と()す。()(ふせ)ぎ悪を(とど)むるが故なり。「淳」とは(すなお)なり。(すで)に非を防ぐ、故に是れ(すなお)なり。悪を止むるが故に是れ「善」なり。故に戒壇の地を指して「(じゅん)(ぜん)の地」と云うなり。故に本門の本尊・妙法蓮華経の五字を、我も(是れ)を信行し、人にも之を信行せしむるは、(すなわ)ち是れ真実の釈子にして、本門戒壇の地に住するなり。故に当流の弟子檀那(だんな)は、是れ真の仏子にして真実の釈子なり。

第五には、蓮祖は即ち是れ本因(ほんにん)(みょう)の釈子なるが故に。是れ内証深秘(しんぴ)相承(そうじょう)なり。「釈」とは釈尊なり「子」とは因の義、故に釈尊の本因(すなわ)ち是れ日蓮なり。故に「釈子日蓮」と云うなり。是れ則ち久遠名字(みょうじ)の釈尊の御身(おんみ)の修行を末法今時の蓮師の御身に移し、信行全く同じきが故なり云云。

「日蓮()ぶ」とは、日文字の相伝云云。分字・合字の両釈、九()の深秘(是れ)有り。今(しばら)く之を略す。所詮(しょせん)、釈尊の童名(わらわな)(にっ)(しゅ)太子、蓮祖の童名は(ぜん)(にち)(まろ)。釈尊の果位の御名は()(にち)大聖尊、我が師の御名は日蓮大聖人。国は即ち日本国、山は則ち大日蓮華山。自然(じねん)名号(みょうごう)、不可思議なり云云。

問う、誰人か日蓮の()を立つるや。

答う、若し今日(こんにち)を論ずれば自ら日蓮と号したまうなり。()し其の本を(たず)ぬれば是れ(かたじけな)くも釈尊の勅号(ちょくごう)なり。経文に分明(ふんみょう)なり。(しばら)く之を秘す云云。


                   つづく
撰時抄愚記上 目次



by johsei1129 | 2015-10-10 10:05 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://nichirengs.exblog.jp/tb/24556264
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。


<< 撰時抄愚記 上四      法華証明抄五 The Proo... >>