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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 10月 04日

観心本尊抄文段 下三八  拙き者は約束せし事を忘る、高貴の人は約束を差えず


一 今末法の(はじめ)、小を以て大を打ち等

此の下は五に末法に必ず()ずる所以(ゆえん)を明かす、三と為す。初めに謗法(ほうぼう)の時に約して()()出現を明かし、次に「我が弟子」の下は(こば)んで必ず出ずる所以を明かし、三に「当に知るべし」の下は(しょう)(しゃく)適時(ちゃくじ)を示すなり。

初めの文、(また)二と為す。初めに謗法の時を示し、次に地涌出現を明かす。初めの文、亦三と為す。初めに執権(しゅうごん)(ぼう)(じつ)、次に迹化(しゃっけ)不現、三に諸天(しょてん)(しゃ)(こく)なり。

文に「此の時地涌の菩薩乃至幼稚に服せしむ」と云うは、前の文に「末法に来入(らいにゅう)して始めて()の仏像出現せしむ可きか」云云といい、今「()の時地涌の菩薩始めて世に出現し」云云と云う是れを思い合すべし。

「妙法蓮華経の五字」とは(すなわ)是れ本尊なり。「幼稚(ようち)に服せしむ」とは即ち是れ観心なり。「妙法蓮華経の五字」は「()(こう)良薬(ろうやく)」なり。「幼稚に服せしむ」は即ち是れ「(にょ)()取服(しゅぶく)」なり云云。

文に云う「我が弟子之を惟え」等とは、此の下は次に必ず出ずる所以(ゆえん)を明かす、二と為す。初めに初発心(しょほっしん)の弟子なるに寄せ、次に地涌の高貴(こうき)に寄するなり

文に云う「地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」等とは、文意に(いわ)く、地涌の菩薩は釈尊久遠(くおん)名字(みょうじ)已来(いらい)の御弟子なり。(しか)るに初成道にも来らず、(にゅう)涅槃(ねはん)にも(とぶら)わざるは是れ不孝の(とが)()たり。()し末法に出現せずんば、此の(とが)何に由って(まぬか)るるを()んや云云。是れ世界(しつ)(だん)に約するなり。

文に云く「是くの如き高貴の大菩薩」等とは、(つたな)き者の習いは約束せし事をも(まこと)の時は之を忘る。然るに高貴の人は約束を(たが)えず。例せば()(さつ)等の如し云云。

文に云く「当に知るべし此の四菩薩」等とは。

問う、(まさ)に「四菩薩、折伏を現ずる時は聖僧と成って」と云うべし。即ち(れん)()の如し。何ぞ「賢王」と云うや。

答う、折伏に二義あり。

一には法体(ほったい)の折伏。(いわ)く「法華折伏、()(ごん)(もん)()」の如し。蓮祖の修行是れなり。

二には()()の折伏。謂く、涅槃経に云く「正法を護持(ごじ)する者は五戒を受けず威儀(いぎ)を修せず、(まさ)刀剣(とうけん)弓箭(きゅうせん)鉾槊(むさく)を持すべし」等云云。(せん)()国王等なり。

今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て(なお)摂受と名づくるなり。(あるい)(また)()ねて順縁(じゅんえん)広布の時を判ずるか云云。


                 つづく
文段下 目次



by johsei1129 | 2015-10-04 12:37 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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