一 今末法の初、小を以て大を打ち等文。
此の下は五に末法に必ず出ずる所以を明かす、亦三と為す。初めに謗法の時に約して地涌出現を明かし、次に「我が弟子」の下は拒んで必ず出ずる所以を明かし、三に「当に知るべし」の下は摂折適時を示すなり。
初めの文、亦二と為す。初めに謗法の時を示し、次に地涌出現を明かす。初めの文、亦三と為す。初めに執権謗実、次に迹化不現、三に諸天捨国なり。
文に「此の時地涌の菩薩乃至幼稚に服せしむ」と云うは、前の文に「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」云云といい、今「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し」云云と云う。是れを思い合すべし。
「妙法蓮華経の五字」とは即ち是れ本尊なり。「幼稚に服せしむ」とは即ち是れ観心なり。「妙法蓮華経の五字」は「是好良薬」なり。「幼稚に服せしむ」は即ち是れ「汝可取服」なり云云。
文に云う「我が弟子之を惟え」等とは、此の下は次に必ず出ずる所以を明かす、亦二と為す。初めに初発心の弟子なるに寄せ、次に地涌の高貴に寄するなり
文に云う「地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」等とは、文意に謂く、地涌の菩薩は釈尊久遠名字已来の御弟子なり。然るに初成道にも来らず、入涅槃にも訪わざるは是れ不孝の失に似たり。若し末法に出現せずんば、此の失何に由って免るるを得んや云云。是れ世界悉檀に約するなり。
文に云く「是くの如き高貴の大菩薩」等とは、拙き者の習いは約束せし事をも実の時は之を忘る。然るに高貴の人は約束を差えず。例せば季札等の如し云云。
文に云く「当に知るべし此の四菩薩」等とは。
問う、応に「四菩薩、折伏を現ずる時は聖僧と成って」と云うべし。即ち蓮祖の如し。何ぞ「賢王」と云うや。
答う、折伏に二義あり。
一には法体の折伏。謂く「法華折伏、破権門理」の如し。蓮祖の修行是れなり。
二には化儀の折伏。謂く、涅槃経に云く「正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし」等云云。仙予国王等是れなり。
今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり。或は復兼ねて順縁広布の時を判ずるか云云。
つづく
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