日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 10月 03日

観心本尊抄文段 下三七  文底下種の妙法を「事行(じぎょう)の南無妙法蓮華経」と云い、文底下種の本尊を「本門の本尊」と名づくるなり。


一 地涌千界(せんがい)正像に出でざること等

此の下は四に正像に(いま)()でざる所以(ゆえん)を明かす、(また)二と為す。初めに標、次に「正法」の下は釈、二と為す。

初めに正法(しょうほう)、次に像法(ぞうほう)二と為す。初めに釈、次に「所詮」の下は(けつ)

初めの釈、三と為す。初めに(のう)()師、次に(しょ)()の法、三に未弘(みぐ)の法を示すなり。

文に云う「迹門を以て面と為し、本門を以て裏と為して」等とは、若し(ただ)迹門のみを用ゆれば、念三千何ぞ其の義を(つく)さん。故に本門を以て裏と為して念三千()義を尽すなり。宗祖云く「第七正観の章は本門の(こころ)なり」等云云。

問う、宗門の本面(ほんめん)(しゃく)()の意如何(いかん)

答う、諸門流の意は彼の迹面(しゃくめん)本裏(ほんり)を反転して之を用ゆるなり云云。(けだ)し当流の意は、本迹の名は反転して之を用う。其の本迹の体は彼此(ひし)永くなる(いわ)く、彼は前十四品を迹面と()し、後の十四品を本裏と為す。()れは迹本二門を通じて迹裏と為し、文底下種の妙法を本面と為すなり。故に(たい)(とう)両家の意、天地水火なり。

文に云う「一念三千()の義を尽せり、(ただ)()()を論じて」とは、(いま)面裏の迹本(しゃくほん)を以て、通じて迹門・理の一念三千と名づく。故に「但理具を論じて」と云うなり。是れ文底(もんてい)下種の本門・事の一念三千に望むるが故なり。

治病抄に云く「天台・伝教等の御時(おんとき)には理なり、今は()なり乃至(ないし)彼は迹門の三千、此れは本門の一念三千なり、天地はるかに(こと)なり」と云云。即ち()意なり。

文に云く「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊」とは(すで)(めん)()の迹本二門を以て通じて(ただ)理具を論ず」と名づく。故に知んぬ、文底下種の妙法を「()(ぎょう)の南無妙法蓮華経」と云い、文底下種の本尊を「本門の本尊」と名づくるなり。

問う、有る人云く、末法の愚人(ぐにん)は理観に()えず、妙法を口唱(くしょう)するに三千を具足す。故に口唱を以て事行と名づくるなりと云云。此の義如何(いかん)

答う、事理の名目(みょうもく)(まさ)法体(ほったい)に約すべし。若し文上の迹本二門の妙法を口唱するは(なお)是れ理行なり。故に宗祖は天台の口唱を以て理行の題目と名づくるなり。(ただ)文底下種の妙法を口唱(くしょう)するを以て、即ち「事行の南無妙法蓮華経」と名づくるなり。

血脈抄に云く「迹門を()()念三千と()脱益(だっちゃく)の法華は本迹共に迹なり、本門を事行の念三千と云う、下種の法華は(どく)(いち)の本門なり」と云云。

故に知んぬ、日本国中の諸門流の口唱は、同に(みな)是れ理行の題目なり。此れ即ち其の法体は脱益の法華経、本迹(とも)に迹門・理の一念三千なるが故なり。(ただ)当流の口唱のみ本門事行の題目なり。此れ即ち其の法体(ほったい)は文底下種の法華経、独の本門、事の念三千なるが故なり。

又有る人云く「『並びに本門の本尊』とは即ち是れ()(じょう)の釈尊なり」と云云。

今謂く、当抄の大旨(たいし)は正しく文底下種の法の本尊を明かす。何ぞ文上脱益(だっちゃく)の人本尊といわんや。

文に云う「未だ広く之を行ぜず」とは、

問う、若し(しか)らば天台も(ほぼ)之を行じたまうや。

答う、有る人云く「(けだ)し天台等は(ただ)自行のみにして、(いま)だ広く他の為に之を行なわざる故に『未だ広く之を行ぜず』と云うなり。(いわ)く、天台宗の本尊は実に是れ()(じょう)の釈尊なり。又天台の法華懺法(せんぽう)に『南無妙法蓮華経』と云云。故に知んぬ、自身は之を行ずることを。(しか)りと(いえど)も彼の時は在世帯権(たいごん)の円機の如し。故に未だ広く之を行ぜざるなり」と云云。

今謂く、彼の宗の本尊は(たと)い久成の釈尊なりと雖も、(なお)是れ在世脱益の教主にして文底下種の本門の本尊に非ず。彼の師も(また)妙法を口唱すと(いえど)も、(なお)是れ理行の題目にして事行の南無妙法蓮華経に非ず。何ぞ自身(これ)を行ずと云わんや。

問う、()(しか)らば何ぞ「未だ広く之を行ぜず」と云うや。

答う、是れ末法の広行に望む故に「未だ広く之を行ぜず」と云う。自身之を行ずと()には非ず。例せば「正像未弘(みぐ)」等の文の如し。(あるい)(おそ)らくは(まさ)に「(いま)(かつ)て之を行ぜず」に作るべし。例せば本尊の「未曽(みぞ)()」の文の如し。学者()(よろ)しく之を思うべし。

文に云う「所詮(しょせん)円機(えんき)有つて(えん)()無き故なり」とは、此れ(すなわ)ち与えて「有り」と云い、(うば)って「無し」と云うなり。

          つづく


文段下 目次



by johsei1129 | 2015-10-03 20:48 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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