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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 09月 30日

観心本尊抄文段 下三三  文殊等は即ち兼ねて末法の弘経は下方に限るの勅命を得たり。故に発誓無きなり。


 問う、文殊等は今日(こんにち)権迹の菩薩の相を示すと雖も、既に是れ法身の大士(だいし)なり。故に(おう)()同居(どうこ)の中に於て、或は寿量の説を聞けり。(たと)い往世に寿量の説を聞かずと雖も、今日(こんにち)既に発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)を聞いて皆(ことごと)く信受せり。何ぞ本法所持の人に(あら)ずと云うや。

答う、(たと)い往世寿量の説を聞くと雖も、今日発迹顕本を開くと雖も、(ただ)是れ文上脱益(だっちゃく)の本法にして文底下種の本法に非ず。若し文底に望めば脱益(だっちゃく)の本法をば通じて迹門と名づく、故に本法所持の人とは名づけざるなり。

問う、当抄所引の「(ただ)下方(げほう)の発誓のみを見たり」等の文は即ち問の言なり。正しく答の中に於て下方の発誓に迹化を()ぬる義を明かす。故に文第十・二十に云く「問う、但下方の発誓のみを見て、文殊(もんじゅ)等の(ちかい)を見ざるは何ぞや。答う、上の文に云く、我が土に(おのずか)ら菩薩有り。()()の経を持ち、即ち(これ)を兼得するなり」云云。此の(もん)如何(いかん)是れ()せんや。

答う、古来の諸師、衆義(らん)(ぎく)たり。今謂く、答の文の大旨(たいし)、正しく文殊(もんじゅ)等の誓を見ざる所以(ゆえん)を明かすなり。文の意は、但下方の発誓のみを見て文殊等の(ちかい)を見ず、其の所以は何ぞや。謂く、文殊等は即ち兼ねて末法の()(きょう)は下方に限るの勅命(ちょくめい)を得たり。故に(ほっ)(せい)無きなり。譬えば平家の(やから)は即ち兼ねて今度(このたび)の大将は源氏に限るの勅命を得たり。故に競望(きょうぼう)すること無きが如し。(まさ)に知るべし「我が土に(おのずか)ら菩薩有り」等とは、末法の弘経は下方に限るの励命なり。言う所の「(これ)」とは上の八字を指すなり。

問う、(なん)ぞ答の文を引かざるや。

答う、此れ即ち問の意に同じき故に之を略するなり。(いわ)く、問答(とも)に文殊の(ちかい)無きことを明かす故なり。(なお)問の中の「不見」等の八字を略するは、是れ即ち「不見」等の六字()之を(あらわ)す故なり。

問う、若し(しか)らば国家論の意、何ぞ(ぼう)には迹化(しゃっけ)を兼ぬるの義に約するや。

答う、(しばら)台家(たいけ)伝来の説に准ずるが故なり、例せば大師の古師に准じて一往(いちおう)釈す等の如し。(えい)(ほう)の証真も此の伝来の義を用ゆるなり。


 つづく



文段下 目次



by johsei1129 | 2015-09-30 22:27 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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