問う、文殊等は今日権迹の菩薩の相を示すと雖も、既に是れ法身の大士なり。故に往世同居の中に於て、或は寿量の説を聞けり。縦い往世に寿量の説を聞かずと雖も、今日既に発迹顕本を聞いて皆悉く信受せり。何ぞ本法所持の人に非ずと云うや。
答う、縦い往世寿量の説を聞くと雖も、今日発迹顕本を開くと雖も、唯是れ文上脱益の本法にして文底下種の本法に非ず。若し文底に望めば脱益の本法をば通じて迹門と名づく、故に本法所持の人とは名づけざるなり。
問う、当抄所引の「但下方の発誓のみを見たり」等の文は即ち問の言なり。正しく答の中に於て下方の発誓に迹化を兼ぬる義を明かす。故に文第十・二十に云く「問う、但下方の発誓のみを見て、文殊等の誓を見ざるは何ぞや。答う、上の文に云く、我が土に自ら菩薩有り。能く此の経を持ち、即ち之を兼得するなり」云云。此の文如何が是れを会せんや。
答う、古来の諸師、衆義蘭菊たり。今謂く、答の文の大旨、正しく文殊等の誓を見ざる所以を明かすなり。文の意は、但下方の発誓のみを見て文殊等の誓を見ず、其の所以は何ぞや。謂く、文殊等は即ち兼ねて末法の弘経は下方に限るの勅命を得たり。故に発誓無きなり。譬えば平家の輩は即ち兼ねて今度の大将は源氏に限るの勅命を得たり。故に競望すること無きが如し。当に知るべし「我が土に自ら菩薩有り」等とは、末法の弘経は下方に限るの励命なり。言う所の「之」とは上の八字を指すなり。
問う、何ぞ答の文を引かざるや。
答う、此れ即ち問の意に同じき故に之を略するなり。謂く、問答倶に文殊の誓無きことを明かす故なり。仍問の中の「不見」等の八字を略するは、是れ即ち「不見」等の六字能く之を顕す故なり。
問う、若し爾らば国家論の意、何ぞ傍には迹化を兼ぬるの義に約するや。
答う、且く台家伝来の一説に准ずるが故なり、例せば大師の古師に准じて一往釈す等の如し。叡峯の証真も此の伝来の義を用ゆるなり。
つづく
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