一 寿量品に云く等文。
此の下は次に広開近顕遠の文を引く、亦二と為す。初めに一往在世の正宗を証し、次に再往末法の流通を証す。
初めの文、亦二と為す。初めに正しく引き、次に「久遠」の下は釈。即ち前の「一往之を見れば」等の文に同じきなり。
文に云く「経に云く、余の心を失える者」等とは、此の下は次に再往末法の流通を証するなり。「心を失える」と言うは、是れ末法今時の衆生を指すなり。
問う、「心を失える」と云うと雖も仍是れ仏子なり。豈結縁なからんや。況や「心を失える」と云う、豈下種の善根なからんや。若し爾らば、末法今時の衆生を何ぞ本未有善と名づけんや。
答う、仏子の義を釈する疏に三意あり。所謂正・縁・了なり。而して失心を以て仍仏子と名づくることは是れ縁因の子に非ず、唯是れ正因の子なり。又失・不失を釈するに即ち両解あり。初めに正因に約し、次に縁因に約す。而して失心と名づくることは、是れ縁因の失心に非ず。唯是れ正因の失心なり。故に仏子と云うと雖も、失心と云うと雖も、仍是れ本未有善の衆生なり。若し正因に拠らば法界に非ざること無し。何ぞ須く更に已善・未善を論ずべけんや云云。
此の文亦二と為す。初めに正しく引き、次に「問うて曰く」の下は釈。
初めの正しく引くに亦二あり。初めに正しく引き、次に「分別功徳品」の下は「今留」の二字を助成するなり。
文に「是の好き良薬を今留めて此に在く」と云うは、「是の好き良薬」とは流通する所の正体を挙げ「今留めて此に在く」とは正しく是れ流通の義なり。
文に「問うて曰く此の経」等と云うは、此の下は釈、亦二と為す。初めに問、次に答、亦二と為す。初めに「遣使還告」を釈し、次に「今の遣」の下は「是好良薬」を釈するなり。
初めの文、亦二と為す。初めに通じて示し、次に別して釈す自ら四あり。文の如く見るべし。
文に「今の遣使還告」等と云うは、此の下、次に「是好良薬」を釈す、亦三と為す。初めに付嘱の人を示し、次に所嘱の法体を釈し、三に非器の人を簡ぶなり。
文に云く「是好良薬とは寿量品の肝要乃至是なり」とは、文の意に謂く、今の是好良薬は脱益の寿量品の文底、名体宗用教の南無妙法蓮華経是れなりと云云。当に知るべし「肝要」とは、是れ文底の異名なるのみ。
問う、天台云く「経教を留めて在く。故に是好良薬今留在此と云う」等云云。妙楽云く「頓漸に被ると雖も、本実乗に在り」等云云。今何ぞ文底下種の妙法に約するや。
答う、経文の意は通じて正像末に亘る。故に天台は総じて一代経に約するなり。若し妙楽は時、像法に在り。故に今経に約するなり。若し蓮祖は時、末法に在り。故に文底下種の妙法に約するなり。法華経は一法なれども時機に随って同じからず云云。
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