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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 09月 23日

観心本尊抄文段 下二三


  三に所説の法体(ほったい)を明かすとは、

問う、種脱の法体は(まさ)是れ体なるべし。其の故は在世(だっ)(ちゃく)是れ()(どう)の終り、(たと)えば去年(こぞ)の秋の如し。末法下種は是れ化導の始め、譬えば今年の春の如し。(しか)るに去年の秋の(このみ)を以て即ち今年の春の種と為す。故に(このみ)ち是れ種なり。果と種と是れ別体なるに(あら)ず。(ただ)去年の秋に()るを以て即ち名づけて菓と()し、今年の春に在るを以て之を名づけて種と為す。其の名は(こと)なりと(いえど)其の(たい)は全く同じ。故に在世化導の終りの脱益の品二半の法体(ほったい)を以て、即ち末法化導の始めの下種の法体と為すべし。何ぞ種脱の法体(ことな)るべけんや。

答う、此の義は(しか)らず。今若し(たとえ)()れば、(しばら)田家(でんか)の如き、(かす)を脱するを米と曰い、脱せざるを(もみ)と名づく。米は以て命を養い籾は即ち種と成る。米は文上脱益(だっちゃく)品二半の如く、籾は文底下種の題目の五字の如し。仏は米を以て在世の衆生に与えて法身の()(みょう)を養わしめ、(もみ)を以て本化の菩薩に付嘱して末法今時の種子と為す。故に「(かれ)品二半(これ)(ただ)題目の五字」と云うなり。()(しらげ)(ごめ)を以て即ち種子と為さば、(あに)菓を得べけんや。()(こく)も例して(しか)なり。

(うり)等の如し、瓜の実は種子と()らず、瓜の核()く種子と成る。瓜の実は文上脱益の品二半の如く、瓜の(かく)は文底下種の題目の五字の如し。瓜の実は能く熱を除き(のど)(うるお)す。故に仏は品二半の瓜の実を以て在世の衆生に与え、無明の熱を除き法性の(のど)(うるお)す。瓜の核は種と成り()く菓を生ず。故に仏は妙法五字の瓜の核を以て本化の菩薩に付嘱し、末法の衆生の信心の畑に(くだ)す。故に「彼は品二半、此は但題目の五字」と云うなり。()し瓜の核を以て種子と為さずんば、(あに)(このみ)を得べけんや。余菓も例して爾なり。

問う、忠抄に云く「在世の本門と末法の本門と、()の体に二無し。故に同に純円』と云う。(たと)えば菓と種と不同無きが如し。但し地に下すを種と云い、(こずえ)に結ぶを菓と云う。此の不同を判ずる時『彼は脱、此は種』と云うなり」と。此の義は如何(いかん)

答う、菓は人の(くら)う所と為り、種子は()く菓を生ず。故に梢に結ぶと(いえど)も柿の核は菓に非ず。又地に下すと雖も柿の実は種に非ず。若し体一といわば、何ぞ柿の核を喰わざるや。何ぞ柿の実、(このみ)を生ぜざるや。(いわん)(また)大師釈して云く「(たね)能く(このみ)を生ず、果能く子を生ず」等云云。(まさ)に知るべし、柿の核は柿を生ず、故に「子能く果を生ず」と云うなり。柿の実は能く柿の核を生ず、故に「果能く(たね)を生ず」と云うなり。是れ(すなわ)ち柿の実の(ようや)く熟すれば、柿の核も随って生ずるが故なり。若し体といわば、(まさ)に「果即ち子を成す」と云うべし。何ぞ「果能く子を生ず」といわんや。学者、能く(よろ)しく是れを思うべし。

問う、忠抄の意は通じて「本同(ほんどう)(やく)()」と名づく。既に「純円(じゅんえん)」と云う、故に「本同」なり。「彼は脱(これ)は種」と云う、故に「益異」なり云云。此の義は如何(いかん)

答う、「本同(ほんどう)(やく)()」の言に(つぶさ)に五箇の迷乱あり。

には(いわ)く、文上(もんじょう)・文底の迷乱、二には謂く、在末・種脱の迷乱、三には謂く、今家(こんけ)の本迹の迷乱、四には謂く、事理の三千の迷乱、五には謂く、教相(きょうそう)・観心の迷乱なり。

(まさ)に知るべし、在末本門の体異とは、謂く、在世の本門は文上(だっ)(ちゃく)、迹門の理の一念三千の教相なり。末法の本門は文底下種、本門の()念三千の観心なり。(しばら)文を引かん。

血脈抄に云く「一代応仏のいき()()かえたる方は理の上の法相なれば部共に理の念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意(とくい)せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字(みょうじ)の妙法を余行にわた()さず(じき)(たつ)正観・事行の念三千の南無妙法蓮華経是なり」云云。(つぶさ)には題の下に諸文を引くが如し云云。


        つづく


文段下 目次



by johsei1129 | 2015-09-23 17:50 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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