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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 09月 23日

観心本尊抄文段 下二二


 問う、(こん)(にち)本門寿量の教主は(ただ)脱益(だっちゃく)の教主とせんや、(また)是れ下種の教主なりや。()亦是れ下種の教主といわば(すで)に色相荘厳の仏身なり。何ぞ是れ下種の教主ならんや。若し(ただ)脱益の教主たりと云わば既に在世下種の人有り。謂く、発起(ほっき)等の四衆の中の結縁(けちえん)(しゅ)(あに)在世下種に(あら)ずや。(いわん)や五千起去の(たぐい)は、既に(りゃっ)(かい)聞いて即ち下種と為し、涅槃(ねはん)経等に(いた)って即ち是れ(とく)(だつ)す。(いわん)(また)前文に云く「在世に於て始めて八品を聞く人天等(あるい)一偈(いちげ)等を聞て下種と為し」等云云。迹門(なお)(しか)なり、況や(また)本門をや。故に知んぬ、今日寿量の教主は(また)是れ下種の教主なるべし。何ぞ(ただ)脱益の教主と云わんや。

答う、今日寿量の教主は但()在世脱益の教主にして、是れ末法下種の教主に非ざるなり。在世の下種とは唯是れ発心(ほっしん)下種にして、是れ(もん)(ぼう)下種には非ざるなり。

(まさ)に知るべし、下種に即ち二義有り。所謂(いわゆる)聞法と発心となり。(みょう)(らく)云う「聞法を種と為し、発心を()と為す」とは是れなり。是れに三重の秘伝あり。(おのおの)通局あるなり。

(いわ)く、には権実相対。証真の玄の私記第一に云く「最初聞法は必ず是れ円教、若し発心を論ぜば大小(さだ)まらず」等云云。文の意は、最初の聞法下種は必ず是れ法華の円教なり云云。(みょう)(らく)云う「余経を以て種と為さず」とは是れなり。即ち是れ今家(しょ)(りゅう)の第の教相なり。

二には本迹相対。謂く、最初聞法は必ず是れ本門なり。若し発心を論ぜば権迹(ごんしゃく)(ふじょう)なり云云。即ち是れ今家所立の第二の教相なり。

三には種脱相対。謂く、最初聞法は必ず是れ文底(もんてい)なり。若し発心を論ぜば迹本不定なり。即ち是れ今家(しょ)(りゅう)の第三の教相なり

問う、最初聞法は必ず是れ文底の証文如何(いかん)

答う、宗祖云く「一念三千の法門は(ただ)法華経の本門寿量品の文の底に()し沈め給えり」と。

「一念三千の仏種に非ずんば有情(うじょう)の成仏・木画二像の本尊は有名(うみょう)無実なり」

「三世十方の諸仏は必ず妙法蓮華経の五宇を(たね)として仏になり給へり」

(あるい)乗を演説すれども題目の五字を以て下種と為す可きの由来(ゆらい)を知らざるか」文等云云。

問う、()し発心を論ぜば迹本不定の証文如何。

答う、(げん)の第一に云く「(なら)びに脱、並びに熟、並びに種、番々()まず」等云云。妙楽云く「時時、世世、念念に皆種等の三相有る故なり」云云。(しょ)の第、記の第に云云。(すで)是れ世々番々、時々念念に種熟脱あり。(あに)迹本不定に(あら)ずや。

当に知るべし、在世は皆是れ本已(ほんい)()(ぜん)の衆生なり。何ぞ(あらた)めて最初聞法を論ずべけんや。故に知んぬ、(ただ)是れ発心下種なり。若し迹門の発心下種は、即ち是れ熟益(じゅくやく)摂属(しょうぞく)なり。

若し本門の発心下種は即ち是れ脱益(だっちゃく)の摂属なり。故に今日寿量の教主は(ただ)是れ在世の本門の脱益の化主にして、末法の本門下種の教主に非ず。故に「彼は脱、此れは(しゅ)」と判ずるなり。

(しか)るに有る師、下種の両義を知らず、両義の通局を知らず、三重の秘伝を知らず、(ただ)在世下種の文を見て彼の脱益の教主に(しゅう)し、即ち末法下種の本尊と為す。自ら(あやま)り、他を謬る。悲しいかな、悲しいかな。


            つづく


文段下 目次



by johsei1129 | 2015-09-23 16:46 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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