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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 09月 08日

開目抄愚記 下三一

   
第四十段  別して俗衆・道門を明かす

一 第一の()(しょ)無智人

  此の下は別して三類に対す、(おのずか)ら三あり。第一俗衆(ぞくしゅ)云云。

一 東春(とうしゅん)に云く「公処(くしょ)に向う」

  問う、()れ第三の文なり。何ぞ第一に引くや。

  答う、今「公処」の二字を用う。()の故に之を引く。之を思え。

一 第二の法華経の怨敵(おんてき)文。

  此の下は道門、念仏者に配す、(また)三あり。初めに(かさ)ねて経釈(きょうしゃく)を引き、次に「道綽」の下は(まさ)しく念仏者に配し、三に「釈迦・多宝」の下は怨敵を結す。

一 悪世中の比丘(びく)

  重ねて経釈を引く中に、初めに(かさ)ねて経文を(ちょう)し、次に(こん)(きょう)流通(るつう)涅槃(ねはん)経の「諸の(あく)比丘(びく)」の文を引いて、今経の「邪智にして心諂曲(てんごく)」等の義を助くるなり。(また)()の邪智の悪比丘とは、即ち無信の僧なり。故に止観(しかん)の「()し信無きは高く聖境に()して」の文を引いて、其の義を顕すなり。涅槃経の中の「(じん)(みつ)の要義」とは即ち法華を()すなり。止観の()し智無きは」等の文は、(ただ)是れを借りて「未だ得ざるを()れ得たりと(おも)う」を顕すなり。(せん)(しょう)を破するを謂うには非ざるなり。

一 道綽(どうしゃく)禅師(ぜんじ)が云く

  此の下は次に(まさ)しく念仏者に配す、亦二あり。初めに能釈(のうしゃく)の邪正を判じて経文に配し、次に「涅槃経」の下は所依の善悪(ぜんなく)を判じて謗法(ほうぼう)を顕す云云。初文を二と()す。初めに能釈の二文を引き、次に「道綽と伝教」の下は(じゃ)(しょう)を判ず。能釈の二文とは、道綽・(ほう)(ねん)是れ一文、(みょう)(らく)・伝教・恵心是れ一文なり。

一 道綽(どうしゃく)と伝教等

  此の下は邪正を判ず、(また)二あり。初めに邪を責め、次に「第二の悪世」の下は結。初めの邪を責むる、亦二あり。初めに末弟、次に(ほう)(ねん)云云。

一 第二の悪世等

  此の第二の文頭に「(しか)れば(すなわ)」の二字を入れて見るべし云云。

一 涅槃(ねはん)経に云く(乃至)此よりの前は等

  第七・二十四の文なり。

  此の下は次に所依(しょえ)の善悪を判ず、(また)二あり。初めに正しく判じ、次に「猶華厳」の下は結。初めの正しく判ずるに(また)二あり。初めに経釈(きょうしゃく)を引き、次に「外道」の下に判ず。初文に亦二あり。初めに経を引き、次に「妙楽」の下は(しゃく)を引く、亦二あり。初めに「三教」を邪と名づけ、次に「止観」の下は四味(しみ)を邪と名づく。

一 妙楽云く、(おのずか)ら三教を指して。

  (げん)九・三、籤の九・四、取意の文なり。

  「止観に云く」は第二・三十七、「弘決(ぐけつ)」は二末二十一。既に「(ただ)円を善と為す」という。故に知んぬ、四味を悪と名づくることを。

一 外道(げどう)善悪(ぜんなく)

  此の下は内外(ないげ)相対、大小相対、権実相対並びに今昔(こんじゃく)二円相対して善悪を判ずるなり。記の一の本四十九。

一 ()(ぜん)の円は相待(そうたい)(みょう)なり、絶待(ぜったい)妙に対すれば(なお)悪なり等

  一義に云く、爾前の円は相待妙なり、法華の絶待妙に対すれば悪なり云云。唱法華題目抄の第四の義筋(ぎすじ)に当るなりと云云。

今謂く、此の義は不可なり。唱法華題目抄の第四の義は(まった)く爾前に相待妙を立つる義に非ず。相待妙をば法華に立て(おわ)って、爾前の円を以て()の相待妙に同ずるなり。

  一義に云く、爾前の円は法華の待絶(たいぜつ)二妙に対すれば悪なり等云云。

今謂く、此の義も相待妙・絶待妙の文言(おだ)やかならず、会釈(えしゃく)有りと(いえど)も、(なお)(うま)からざるなり。

  今案じて云く、此の段、文は略すれども意は(あまね)し。文意に云く、()(ぜん)の円は法華の相待妙に対するに悪なり。相対妙に同ずるとも絶待妙に対すれば悪なり。前三教に(せっ)すれば(なお)悪なり云云。故に「相待妙・絶待妙」というなり。(せん)二・六十六、又六十八。

一 爾前のごとく彼の経の(ごく)()を行ずる(なお)悪道なり、(いわん)(かん)(ぎょう)等をや

  問う、()(しか)らば観経は爾前に(あら)ずや。

  答う、(また)是れ文略なり。意に云く、爾前の華厳(けごん)般若(はんにゃ)の如く彼の経の(ごく)()を行ずる、(なお)悪道なり。(いわん)や華厳・般若に及ばざる(ほう)(どう)部中(ぶちゅう)の観経をや云云。故に法然(ほうねん)所依(しょえ)の観経は邪悪の小法なり。故に是れを行ずる人は邪悪の人なり。故に今経に「邪智にして(こころ)諂曲(てんごく)」と説き、涅槃経には「(あく)比丘(びく)」と説くなり。(たと)(ほう)(ぼう)無くとも(なお)(しか)なり、(いか)に況や法然房の大謗法あるをや云云。

一 (なお)華厳・般若等

  此の下は上を結して謗法を(あらわ)すなり。

一 釈迦・多宝等

  此の下は第三に怨敵(おんてき)を結するなり。

つづく


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by johsei1129 | 2015-09-08 06:54 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)


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