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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 24日

南条時光に対し「貴辺は日本国第一の孝養の人なり」と説いた【上野殿御返事(孝不孝御書)】

【上野殿御返事(孝不孝御書)】
■出筆時期:弘安三年(1280年)三月八日 五十九歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は南条時光が亡き父の命日に追善供養のために米一俵を供養されたことに因み、「親への孝」について認められておられます。
 大聖人は最初に「外典(げてん)三千余巻は他事なし、ただ父母の孝養ばかりなり。しかれども現世をやしなひて後生をたすけず」と記され、外典は父母滅後の後生を助ける事については全く説かれていないと断じ、さらに「如来四十余年の説教は孝養ににたれども・その説いまだあらはれず、孝が中の不孝なるべし」と記し、釈尊でさえ「父母の御孝養のため法華経を説き給いしかば、宝浄世界の多宝仏も実の孝養の仏なりとほめ給い<中略>一切諸仏の中には孝養第一の仏なりと定め奉りき」と記されておられます。
 さらに文末では「(法華経を保つ)貴辺(時光)は日本国・第一の孝養の人なり」と、亡き父の法華経信仰をそのまま引き継ぎ、前年に勃発した熱原の法難では、日興上人と共に農民信徒の外護(げご)に奔走した時光の法華経信仰こそ、日本国一の孝養であると讃えられておられます。
■ご真筆:現存しておりません。

[上野殿御返事(孝不孝御書) 本文]

 故上野殿・御忌日の僧膳料、米一たはら(俵)たしかに給び候い畢んぬ。御仏に供しまいらせて自我偈一巻よみまいらせ候べし。

 孝養と申すは・まづ不孝を知りて孝をしるべし。不孝と申すは酉夢(ゆうぼう)と云う者・父を打ちしかば天雷身をさく。班婦と申せし者・母をの(詈)りしかば毒蛇来りての(呑)みき。阿闍世王・父をころせしかば白癩病の人となりにき。波瑠璃王は親をころせしかば河上に火出でて現身に無間にをちにき。他人をころしたるには・いまだかくの如くの例(ためし)なし。
 不孝をもつて思ふに孝養の功徳のおほきなる事も・しられたり。外典三千余巻は他事なし、ただ父母の孝養ばかりなり。しかれども現世をやしなひて後生をたすけず。

 父母の恩のおもき事は大海のごとし・現世を・やしなひ後生をたすけざれば・一渧(たい)のごとし。内典五千余巻又他事なし・ただ孝養の功徳をとけるなり。しかれども如来四十余年の説教は孝養ににたれども・その説いまだあらはれず。孝が中の不孝なるべし。
 目連尊者の母の餓鬼道の苦をすくひしは・わづかに人天の苦をすくひて・いまだ成仏のみちにはいれず。釈迦如来は御年三十の時・父浄飯王に法を説いて第四果をえ(得)せしめ給へり。母の摩耶夫人をば御年三十八の時・阿羅漢果をえ(得)せしめ給へり。此等は孝養ににたれども還つて仏に不孝のとが(咎)あり。わづかに六道をば・はなれしめたれども・父母をば永不成仏の道に入れ給へり。譬へば太子を凡下の者となし、王女を匹夫にあはせたるが如し。
 されば仏説いて云く「我則ち慳貪(けんどん)に堕せん。此の事は為(さだめ)て不可なり」云云。仏は父母に甘露をおしみて麦飯を与へたる人、清酒をおしみて濁酒をのませたる不孝第一の人なり。波瑠璃王のごとく現身に無間大城におち、阿闍世王の如く即身に白癩病をもつぎぬべかりしが、四十二年と申せしに法華経を説き給いて「是の人・滅度の想を生じて涅槃に入ると雖も・而も彼の土に於て仏の智慧を求めて是の経を聞くことを得ん」と。父母の御孝養のため法華経を説き給いしかば、宝浄世界の多宝仏も実(まこと)の孝養の仏なりとほ(褒)め給い、十方の諸仏もあつまりて一切諸仏の中には孝養第一の仏なりと定め奉りき。

 これをもつて案ずるに日本国の人は皆不孝の仁(ひと)ぞかし。涅槃経の文に不孝の者は大地微塵よりも多しと説き給へり。されば天の日月・八万四千の星・各いかりをなし・眼をいからかして日本国をにらめ給ふ。今の陰陽師(おんようし)の天変・頻(しき)りなりと奏し申す是なり。地夭・日日に起りて大海の上に小船をうかべたるが如し、今の日本国の小児は魄(たましい)をうしなひ・女人は血をはく是なり。

 貴辺は日本国・第一の孝養の人なり。梵天・帝釈をり下りて左右の羽となり、四方の地神は足をいただいて父母とあをぎ給うらん。事多しと・いへども・とどめ候い畢んぬ。恐恐謹言。

弘安三年三月八日         日 蓮 花押

進上 上野殿御返事




by johsei1129 | 2019-11-24 12:38 | 南条時光(上野殿) | Trackback | Comments(0)


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