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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 09日

日蓮が法門は第三の法門なり<略>天台妙楽伝教も粗之を示せども未だ事了えず、と断じた【常忍抄】

【常忍抄(稟権出界抄・ほんごんしゅっかいしょう)】
■出筆時期:弘安元年(1287年)十月一日 五十七歳御作
■出筆場所:身延山中の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は富木常忍から、天台宗の了性房との法論で論破したことを報告した手紙を受け取り、それへの返書となっております。文末で「此の使いそぎ候へばよる(夜)かきて候ぞ」と記されておられるように、常忍の手紙を届けた使いの者が急いで帰る時き、夜にも関わらず直ぐに本消息を書かれたことが伺えます。

大聖人は本抄で「総じて御心へ候へ、法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り、日蓮が法門は第三の法門なり<中略>第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず、所詮末法の今に譲り与えしなり」と記され、日蓮の法門は天台をも超過していると断じておられます。また今後の法論については「此れより後は下総にては御法門候べからず、了性・思念をつめつる上は他人と御論候わば、かへりてあさくなりなん」と記し、下総の天台宗の重鎮、了性・思念を論破したのだから、さらに他の者と法論すると、かえって今回の法論の価値が軽くなってしまうと指導なされておられます。尚文末で大進房についての常忍報告について「悪鬼入其身は、よもそら(空)事にては候はじ」と、引き続き注意するよう諭されておられます。しかし大聖人の指導にも関わらず、大聖人門下に反逆、翌年九月の熱原法難では法華経に帰依した農民達を逮捕しようとして落馬。それが原因で苦しみながら死亡したと言われております。
■ご真筆:中山法華経寺所蔵(十紙)。
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真筆本文箇所(第五紙):又云不信者不堕地獄云云~彼廣学多聞乃者也 迄。

[常忍抄(稟権出界抄) 本文]

御文粗拝見仕り候い了んぬ。
御状に云く常忍の云く記の九に云く「権を禀(う)けて界を出づるを名けて虚出(こしゅつ)と為す」云云、了性房云く全く以て其の釈無し云云、記の九に云く寿量品の疏「無有虚出より昔虚為実故(しゃくこいじつこ)に至るまでは為の字は去声権を禀けて界を出づるを名けて虚出と為す三乗は皆三界を出でずと云うこと無し人天は三途を出でんが為ならずと云うこと無し並に名けて虚と為す」云云、文句の九に云く「虚より出でて而も実に入らざる者有ること無し、故に知んぬ昔の虚は去声実の為の故なり」と云云。

寿量品に云く「諸の善男子・如来諸の衆生小法を楽う徳薄垢重の者を見て乃至以諸衆生乃至未曾暫廃」云云、此の経の文を承けて、天台・妙楽は釈せしなり。

此の経文は初成道の華厳の別円より乃至法華経の迹門十四品を或は小法と云い或は徳薄垢重・或は虚出等と説ける経文なり、若し然らば華厳経の華厳宗・深密経の法相宗・般若経の三論宗・大日経の真言宗・観経の浄土宗・楞伽経の禅宗等の諸経の諸宗は依経の如く其の経を読誦すとも三界を出でず三途を出でざる者なり何に況や或は彼を実と称し或は勝る等云云。此の人人・天に向つて唾を吐き地をつかんで忿(いかり)を為す者か。

此の法門に於て如来滅後・月氏一千五百余年・付法蔵の二十四人・竜樹・天親等知つて未だ此れを顕さず、漢土一千余年の余人も未だ之を知らず但天台・妙楽等粗之を演(の)ぶ。然りと雖も未だ其の実義を顕さざるか、伝教大師以て是くの如し。

今日蓮粗之を勘うるに法華経の此の文を重ねて涅槃経に演べて云く「若し三法に於て異の想を修する者は当に知るべし是の輩は清浄の三帰則ち依処(えしょ)無く所有の禁戒皆具足せず終に声聞・縁覚・菩薩の果を証することを得ず」等云云。此の経文は正しく法華経の寿量品を顕説せるなり、寿量品は木に譬え爾前・迹門をば影に譬うる文なり。経文に又之有り、五時・八教・当分・跨節・大小の益は影の如し本門の法門は木の如し云云。又寿量品已前の在世の益は闇中の木の影なり、過去に寿量品を聞きし者の事なり等云云。又不信は謗法に非ずと申す事。又云く不信の者地獄に堕ちずとの事、五の巻に云く「疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」云云。

総じて御心へ候へ、法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り、日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了(お)えず、所詮末法の今に譲り与えしなり、五五百歳は是なり。

但し此の法門の御論談は余は承らず候、彼は広学多聞の者なりはばか(憚)り・はばかり・み(見)た・みたと候いしかば、此の方のまけなんども申しつけられなば・いかんがし候べき。但し彼の法師等が彼の釈を知り候はぬは・さてをき候いぬ、六十巻になしなんど申すは天のせめなり謗法の科の法華経の御使に値うて顕れ候なり。

又此の沙汰の事を定めて・ゆへありて出来せり・かしま(賀島)の大田次郎兵衛・大進房・又本院主(ほんいんしゅ)もいかにとや申すぞ・よくよくきかせ給い候へ。此れ等は経文に子細ある事なり、法華経の行者をば第六天の魔王の必ず障(ささ)うべきにて候、十境の中の魔境此れなり魔の習いは善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ事に候、強いて悪を造らざる者をば力及ばずして善を造らしむ、又二乗の行をなす物をば・あながちに怨をなして善をすすむるなり。

又菩薩の行をなす物をば遮(さえぎ)つて二乗の行をすすむ、是後に純円の行を一向になす者をば兼別等に堕(おと)すなり止観の八等を御らむあるべし。又彼が云く止観の行者は持戒等云云、文句の九には初・二・三の行者の持戒をば此れをせいす経文又分明なり。止観に相違の事は妙楽の問答之有り記の九を見る可し、初随喜に二有り利根の行者は持戒を兼ねたり鈍根は持戒之を制止す、又正・像・末の不同もあり摂受・折伏の異あり伝教大師の市の虎の事思い合わすべし。

此れより後は下総にては御法門候べからず、了性・思念を・つ(詰)めつる・上は他人と御論候わば・かへりてあさくなりなん。彼の了性と思念とは年来(としごろ)・日蓮をそしるとうけ給わるる、彼等程の蚊虻(もんもう)の者が日蓮程の師子王を聞かず見ずしてうはのそらに・そしる程のをこじん(嗚呼人)なり。天台法華宗の者ならば我は南無妙法蓮華経と唱えて念仏なんど申す者をば・あれ(彼)はさる事なんど申すだにも・きくわい(奇怪)なるべきに、其の義なき上・偶(たまたま)申す人をそしる・でう(条)・あらふしぎふしぎ、大進房が事さきざき・かきつかわして候やうに・つよづよとかき上(あげ)申させ給い候へ。大進房には十羅刹のつかせ給いて引きかへしせさせ給うとをぼへ候ぞ、又魔王の使者なんどがつきて候いけるが・はなれて候とをぼへ候ぞ、悪鬼入其身はよも・そら事にては候はじ。事事重(しげ)く候へども、此の使いそぎ候へばよる(夜)か(書)きて候ぞ、恐恐謹言。

十月一日              日 蓮  花押

by johsei1129 | 2019-11-09 22:07 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)
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