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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 11月 08日

設い法華経をもつて行うとも験なし、経は勝れたれども行者僻見の者なる故と説いた【治病大小権実違目】

【治病大小権実違目】
■出筆時期:弘安元年(1278年)六月二十六日 五十七歳 御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書は、富木入道(常忍)から消息で、疫病が蔓延している状況の報告があり、それに対し大聖人が「夫れ人に二の病あり」と病についての論を展開されておられます。また追伸で「さへもん殿の便宜の御かたびら給い了んぬ・・・」と記されておられるように、四条金吾が富木殿・太田入道その他方々の供養を取りまとめ身延の草庵を訪問された事が伺えます。恐らくこれは毎月25日に定例で開かれていた「天台大師講(摩訶止観等の講義)」への供養ではないかと思われます。

さらに「此の法門のかたづらは佐衛門尉殿にかきて候、こわせ給いて御らむ有るべく候」と記され、この書で説いた法門のもう片方は四条金吾殿に書いたので、頼んで読んで下さいと記されておられます。
この事は、大聖人の消息を信徒が共有し、皆で読んで信仰を深めなさいという大聖人の強い思いが示されておられるものと拝されます。
尚、ここで記された四条金吾に宛てた消息は[中務左衛門尉殿御返事]になります。

■ご真筆:中山法華経寺所蔵(重要文化財)。古写本:日時筆(富士大石寺蔵)。
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※真筆の1行目に小さく「治病大小権實違目」と、富木常忍自ら付記されており、下総国の守護千葉氏の文官としての律儀さが垣間見えます。
[治病大小権実違目 本文]

 富木入道殿御返事 日蓮

 さへもん殿の便宜の御かたびら給い了んぬ。
 今度の人人のかたがたの御さい(斎)ども左門尉殿の御日記のごとく給い了んぬと申させ給い候へ。太田入道殿のかたがたのもの・ときどのの日記のごとく給い候了んぬ。此の法門のかたづら(半面)は左衛門尉殿にかきて候。
こ(乞)わせ給いて御らむ有るべく候。

 御消息に云く、凡そ疫病弥(いよいよ)興盛等と云云。
 夫れ人に二の病あり。一には身の病。所謂。地大百一、水大百一、火大百一、風大百一、已上四百四病なり。此の病は設い仏に有らざれども之を治す。所謂治水・流水・耆婆・扁鵲(へんじゃく)等が方薬、此れを治するにゆいて愈(い)えずという事なし。
 二には心の病。所謂三毒乃至八万四千の病なり。此の病は二天・三仙・六師等も治し難し。何に況んや神農(しんのう)・黄帝等の方薬及ぶべしや。又心の病・重重に浅深・勝劣分れたり。六道の凡夫の三毒・八万四千の心病は小仏・小乗阿含経・倶舎・成実・律宗の論師・人師、此れを治するにゆいて愈えぬべし。

 但し此の小乗の者等・小乗を本として或は大乗を背き、或は心には背かざれども大乗の国に肩(かた)を並べなんどする其の国・其の人に諸病起る。小乗等をもつて此れを治すれば諸病は増すとも治せらるる事なし。諸大乗経の行者をもつて此れを治すれば則ち平愈す。又華厳経・深密経・般若経・大日経等の権大乗の人人・各各劣謂勝見を起して、我が宗は或は法華経と斉(ひとし)等・或は勝れたりなんど申す人多く出来し、或は国主等此れを用いぬれば、此れによつて三毒・八万四千の病起る。返つて自(みずから)の依経をもつて治すれども・いよいよ倍増す。設い法華経をもつて行うとも験(しるし)なし。経は勝れたれども行者・僻見(びゃっけん)の者なる故なり。

 法華経に又二経あり。所謂迹門と本門となり。本迹の相違は水火天地の違目なり。例せば爾前と法華経との違目よりも猶相違あり。爾前と迹門とは相違ありといへども相似(そうじ)の辺も有りぬべし。所説に八教あり。爾前の円と迹門の円は相似せり。爾前の仏と迹門の仏は劣応・勝応・報身・法身異れども始成(しじょう)の辺は同じきぞかし。

 今本門と迹門とは教主已に久始(くし)のかわりめ、百歳のをきな(翁)と一歳の幼子(おさなご)のごとし。弟子又水火なり。土の先後いうばかりなし。而るを本迹を混合すれば水火を弁えざる者なり。而るを仏は分明(ふんみょう)に説き分け給いたれども、仏の御入滅より今に二千余年が間・三国並びに一閻浮提の内に分明(ふんみょう)に分けたる人なし。但漢土の天台・日本の伝教、此の二人計りこそ粗(ほぼ)分け給いて候へども、本門と迹門との大事に円戒いまだ分明ならず。
 詮ずる処は天台と伝教とは内には鑒(かんが)み給うといへども、一には時来らず、二には機なし、三には譲られ給はざる故なり。今末法に入りぬ。地涌出現して弘通有るべき事なり。今末法に入つて本門のひろまらせ給うべきには小乗・権大乗・迹門の人人、設い科(とが)なくとも彼れ彼れの法にては験(しるし)有るべからず。譬へば春の薬は秋の薬とならず。設いなれども春夏のごとくならず。
 何に況んや彼の小乗・権大乗・法華経の迹門の人人、或は大小権実に迷える上、上代の国主・彼れ彼れの経経に付きて寺を立て田畠を寄進せる故に、彼の法を下せば申し延べがたき上、依怙(えこ)すでに失(うせ)るかの故に大瞋恚(だいしんに)を起して或は実経を謗じ、或は行者をあだむ。国主も又一には多人につき、或は上代の国主の崇重の法をあらため難き故、或は自身の愚癡の故、或は実教の行者を賤しむゆへ等の故、彼の訴人等の語を・をさめて実教の行者をあだめば実教の守護神の梵釈・日月・四天等、其の国を罰する故に先代未聞の三災・七難起るべし。所謂去(こぞ)今年・去ぬる正嘉等の疫病等なり。

 疑つて云く、汝が申すがごとくならば、此の国・法華経の行者をあだむ故に善神此の国を治罰する等ならば諸人の疫病なるべし。何ぞ汝が弟子等又やみ死ぬるや。

 答えて云く、汝が不審最も其の謂(いわれ)有るか。但し一方を知りて一方を知らざるか。善と悪とは無始よりの左右の法なり。権教並びに諸宗の心は善悪は等覚に限る。若し爾(しから)ば等覚までは互ひに失(とが)有るべし。法華宗の心は一念三千、性悪性善・妙覚の位に猶備われり。元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ、元品の無明は第六天の魔王と顕われたり。善神は悪人をあだむ、悪鬼は善人をあだむ。末法に入りぬれば自然に悪鬼は国中に充満せり。瓦石(がしゃく)草木の並び滋(しげき)がごとし。善鬼は天下に少し、聖賢まれなる故なり。
 此の疫病は念仏者・真言師・禅宗・律僧等よりも日蓮が方にこそ多くやみ死ぬべきにて候か。いかにとして候やらん、彼等よりもすくなくやみ・すくなく死に候は不思議にをぼへ候。人のすくなき故か、又御信心の強盛なるか。

 問うて云く、日本国に此の疫病・先代に有りや。
 答えて云く、日本国は神武天皇よりは十代にあたらせ給いし崇神天皇の御代に・疫病起りて日本国やみ死ぬる事半(なかば)にすぐ。王始めて天照太神等の神を国国に崇(あがめ)しかば疫病や(止)みぬ。故に崇神天皇と申す。此れは仏法のいまだわたらざりし時の事なり。人王第三十代・並びに一二の三代の国主並びに臣下等疱瘡(ほうそう)と疫病に御崩去等なりき。其の時は神にいのれども叶わざりき。去ぬる人王三十代・欽明天皇の御宇に百済国より経・論・僧等をわたすのみならず、金銅の教主釈尊を渡し奉る。蘇我の宿禰(すくね)等崇むべしと申す。物部の大連(おおむらじ)等の諸臣並びに万民等は、一同に此の仏は崇むべからず、若し崇むるならば必ず我が国の神・瞋(いか)りをなして国やぶれなんと申す。
 王は両方弁まえがたくをはせしに、三災・七難・先代に超えて起こり、万民皆疫死す。大連等便りを得て奏問せしかば僧尼等をはじ(恥)に及ぼすのみならず、金銅の釈迦仏をすみ(炭)を・をこして焼き奉る。寺又同じ。爾の時に大連や(病)み死ぬ、王も隠れさせ給い、仏をあがめし蘇我の宿禰もやみぬ。大連が子・守屋の大臣(おとど)云く、此の仏をあがむる故に三代の国主すでに・やみかくれさせ給う。我が父もやみ死ぬ。まさに知るべし、仏をあがむる聖徳太子・馬子等はをや(親)のかたき・公(きみ)の御かたきなりと申せしかば、穴部(あなほべ)の王子・宅部(やかべ)の王子等・並びに諸臣已下数千人一同によりき(与力)して仏と堂等をやきはらうのみならず、合戦すでに起りぬ。結句は守屋討たれ了んぬ、仏法渡りて三十五年が間・年年に三災・七難・疫病起こりしが、守屋・馬子に討たるるのみならず神もすでに仏にま(負)けしかば災難忽ちに止み了んぬ。其の後の代代の三災・七難等は大体は仏法の内の乱れより起るなり。而れども或は一人・二人、或は一国・二国、或は一類・二類、或は一処・二処の事なれば神のたたりも有り、謗法の故もあり、民のなげきよりも起る。

 而るに此の三十余年の三災・七難等は一向に他事を雑えず。日本一同に日蓮をあだみて国国・郡郡・郷郷・村村・人ごとに・上一人より下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚を起せり。見思未断の凡夫の元品の無明を起す事・此れ始めなり。神と仏と法華経にいのり奉らばいよいよ増長すべし。但し法華経の本門をば法華経の行者につけて除き奉る。結句は勝負を決せざらん外は此の災難止み難かるべし。

 止観の十境・十乗の観法は天台大師・説き給いて後、行ずる人無し。妙楽・伝教の御時少し行ずといへども敵人ゆわ(弱)きゆへにさてすぎぬ。止観に三障・四魔と申すは権経を行ずる行人の障(さわ)りにはあらず。今日蓮が時、具(つぶ)さに起これり。又天台・伝教等の時の三障・四魔よりも・いま・ひとしを(一入)まさりたり。
 一念三千の観法に二つあり。一には理。二には事なり。天台・伝教等の御時には理なり、今は事なり。観念すでに勝る故に大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此れは本門の一念三千なり。天地はるかに殊なり・ことなりと、御臨終の御時は御心へ有るべく候。恐恐謹言。

 六月二十六日  日蓮 花押




by johsei1129 | 2019-11-08 07:03 | 富木常忍・尼御前 | Trackback | Comments(0)


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