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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 08月 17日

日蓮大聖人が実相寺の経蔵で一切経を読了・精査してとりまとめた最初の重要法門【守護国家論】六

[守護国家論 本文] その六
  大文の第七に問に随つて答うとは、

 若し末代の愚人・上の六門に依つて万が一も法華経を信ぜば、権宗の諸人或は自惑に依り、或は偏執に依つて法華経の行者を破せんが為に多く四十余年並びに涅槃等の諸経を引いて之を難ぜん。而るに権教を信ずる人は之多く、或は威勢に依り、或は世間の資縁に依り、人の意に随つて世路を亘らんが為に、或は権教には学者多く、実教には智者少し。是非に就て万が一も実教を信ずる者有るべからず。是の故に此の一段を撰んで権人の邪難を防がん。
 
 問うて云く、諸宗の学者難じて云く「華厳経は報身如来の所説・七処・八会・皆頓極頓証の法門なり。法華経は応身如来の所説・教主既に優劣有り。所説の法門に於て何ぞ浅深無からん。随つて対告衆(たいごうしゅう)も法慧・功徳林・金剛幢等なり。永く二乗を雑えず。法華経は舎利弗等を以て対告衆と為す」華厳宗難。
 法相宗の如きは解深密経を以て依憑(えひょう)と為し・難を加えて云く「解深密経は文殊・観音等を以て対告衆と為す。勝義生菩薩の領解(りょうげ)には一代を有・空・中と詮す。其の中の中とは華厳・法華・涅槃・深密等なり。法華経の信解品の五時の領解は四大声聞なり。菩薩と声聞と勝劣天地なり」
 浄土宗の如きは道理を立てて云く「我等は法華等の諸経を誹謗するに非ず。彼等の諸経は正には大人の為・傍には凡夫の為にす。断惑証理・理深の教にして末代の我等之を行ずるに、千人の中に一人も彼の機に当らず。在家の諸人多分は文字を見ず、亦華厳・法相等の名を聞かず。況んや其の義を知らんや。浄土宗の意は我等凡夫は但口に任せて六字の名号を称すれば、現在に阿弥陀如来二十五の菩薩等を遣わし、身に影の随う如く、百重千重に行者を囲繞(いにょう)して之を守り給う。故に現世には七難即滅・七福即生し乃至臨終の時は必ず来迎(らいごう)有つて観音の蓮台に乗じ、須臾の間に浄土に至り、業に随つて蓮華開け・法華経を聞いて実相を覚る。何ぞ煩しく穢土に於て余行を行じて何の詮か有る。但万事を抛つて一向に名号を称せよ」と云云。
 禅宗等の人云く「一代聖教は月を指す指、天地日月等も汝等が妄心より出でたり。十方の浄土も執心の影像なり。釈迦十方の仏陀は汝が覚心の所変、文字に執する者は株(くいぜ)を守る愚人なり。我が達磨大師は文字を立てず・方便を仮らず、一代聖教の外に仏・迦葉に印して此の法を伝う。法華経等は未だ真実を宣べず」已上。此等の諸宗の難・一に非ず。如何ぞ法華経の信心を壊らざる可しや。
 答て云く、法華経の行者は心中に「四十余年・已今当・皆是真実・依法不依人」等の文を存し、而も外に語に之を出さず・難に随つて之を問うべし。抑(そもそも)所立の宗義は何の経に依るや。彼・経を引かば引くに随つて亦之を尋ねよ。一代五十年の間の説の中に法華経より先か後か・同時なるか・亦先後不定なるかと。若し先と答えば未顕真実の文を以て之を責めよ。敢えて彼の経の説相を尋ぬること勿れ。後と答えば当説の文を以て之を責めよ。同時と答えば今説の文を以て之を責めよ。不定と答えば不定の経は大部の経に非ず、一時一会の説にして亦物の数に非ず。其の上不定の教と雖も三説を出でず。設い百千万の義を立つと雖も四十余年の文を載せて虚妄と称せざるより外は用うべからず。仏の遺言に不依・不了義経と云うが故なり。亦智儼(ちごん)・嘉祥(かじょう)・慈恩・善導等を引いて徳を立て難ずと雖も法華涅槃に違する人師に於ては用うべからず。依法不依人の金言を仰ぐが故なり。

 亦法華経を信ぜん愚者の為に二種の信心を立つ。一には仏に就て信を立て、二には経に就ひて信を立つ。
 仏に就て信を立つとは権宗の学者来たり難じて云わん。善導和尚は三昧発得の人師・本地弥陀の化身なり。慈恩大師は十一面観音の化身・亦筆端より舎利を雨らす。此等の諸人は皆彼彼の経経に依つて皆・証有り。何ぞ汝・彼の経に依らず亦彼の師の義を用いざるや。
 答えて云く、汝聞け。一切の権宗の大師先徳並びに舎利弗・目連・普賢・文殊・観音乃至阿弥陀・薬師・釈迦如来・我等並びに十方の諸人の前に集まりて説いて、法華経は汝等が機に叶わず・念仏等の権経の行を修して往生を遂げ、後に法華経を覚ると云わん。是の如き説を聞くと雖も敢えて用う可からず。其の故は四十余年の諸の経には法華経の名字を呼ばず。何れの処にか機の堪不堪を論ぜん。法華経に於ては釈迦多宝十方諸仏一処に集りて撰定して云く、法をして久住せしむ、如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ。此の外に今・仏出来して法華経を末代不相応と定めば既に法華経に違す。知んぬ此の仏は涅槃経に出す所の滅後の魔仏なり。之を信用す可からず。其の已下の菩薩・声聞・比丘等は亦言論するに及ばず。此等は不審無し。涅槃経に記する所の滅後の魔の所変の菩薩等なり。
 其の故は法華経の座は三千大千世界の外四百万億阿僧祇の世界なり。其の中に充満せる菩薩・二乗・人天・八部等、皆如来の告勅(ごうちょく)を蒙むり、各各所在の国土に法華経を弘む可きの由之を願いぬ。善導等若し権者ならば何ぞ竜樹・天親等の如く権教を弘めて後に法華経を弘めざるや、法華経の告勅の数に入らざるや。何ぞ仏の如く権教を弘めて後に法華経を弘めざるや。若し此の義無くんば設い仏為りと雖も之を信ず可からず。今は法華経の中の仏を信ず、故に仏に就て信を立つと云うなり。
 問うて云く、釈迦如来の所説を他仏之を証するを実説と称せば何ぞ阿弥陀経を信ぜざるや。
 答えて云く、阿弥陀経に於ては法華経の如き証明無きが故に之を信ぜず。
 問うて云く、阿弥陀経を見るに釈迦如来の所説の一日七日の念仏を六方の諸仏舌を出し三千を覆うて之を証明せり。何ぞ証明無しと云うや。
 答えて云く、阿弥陀経に於ては全く法華経の如き証明無く、但釈迦一仏・舎利弗に向つて説いて言く、我一人阿弥陀経を説くのみに非ず六方の諸仏舌を出し、三千を覆うて阿弥陀経を説くと云う。此等は釈迦一仏の説なり、敢えて諸仏来りたまわず。此等の権文は四十余年の間は教主も権仏の始覚の仏なり。仏・権なるが故に所説も亦権なり。故に四十余年の権仏の説は之を信ず可からず。
 今の法華涅槃は久遠実成の円仏の実説なり、十界互具の実言なり。亦多宝十方の諸仏来たりて之を証明し給う故に之を信ずべし。阿弥陀経の説は無量義経の未顕真実の語に壊(やぶ)れ了(おわん)ぬ。全く釈迦一仏の語にして諸仏の証明には非ざるなり。
 
 二に経に就て信を立つとは、無量義経に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と云う。 
 涅槃経に云く「如来は虚妄の言無しと雖も、若し衆生・虚妄の説に因つて法利を得と知れば、宜しきに随つて方便して則ち為に之を説き給う」
 又云く「了義経に依つて不了義経に依らざれ」已上。
 是の如きの文一に非ず。皆四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義・魔説と称す。是れ皆人をして其の経を捨てて法華涅槃に入らしめんが為なり。
 而るに何の恃(たの)み有つて妄語の経を留めて行儀を企て・得道を期するや。今権教の情執を捨て偏に実経を信ず。故に経に就て信を立つと云うなり。
 問うて云く、善導和尚も人に就て信を立て、行に就て信を立つ。何の差別有らんや。
 答えて云く、彼は阿弥陀経等の三部に依つて之を立て、一代の経に於て了義・不了義経を分たずして之を立つ。故に法華・涅槃の義に対して之を難ずる時は、其の義壊れ了んぬ。

守護国家論



[守護国家論] 完。


by johsei1129 | 2015-08-17 19:43 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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