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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 08月 17日

日蓮大聖人が実相寺の経蔵で一切経を読了・精査してとりまとめた最初の重要法門【守護国家論】三

[守護国家論 本文] その三

大文の第三に選択集謗法の縁起を出さば、問うて云く何れの証拠を以て源空を謗法の者と称するや、答えて云く選択集の現文を見るに一代聖教を以て二つに分つ一には聖道・難行・雑行・二には浄土・易行(いぎょう)・正行なり、其の中に聖・難・雑と云うは華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃・大日経等なり取意、浄・易・正とは浄土の三部経の称名念仏等なり取意、聖・難・雑の失を判ずるには末代の凡夫之を行ぜば百の時に希に一二を得・千の時に希に三五を得ん或は千が中に一も無し或は群賊・悪衆・邪見・悪見・邪雑の人等と定むるなり、浄・易・正の得を判ずるには末代の凡夫之を行ぜば十は即十生し百は即百生せん等なり謗法の邪義是なり。
問うて云く一代聖教を聖道・浄土・難行・易行・正行・雑行と分ち其の中に難・聖・雑を以て時機不相応と称すること源空一人の新義に非ず曇鸞・道綽・善導の三師の義なり、此亦此等の人師の私の案に非ず其の源は竜樹菩薩の十住毘婆沙論より出でたり、若し源空を謗法の者と称せば竜樹菩薩並に三師を謗法の者と称するに非ずや、答えて云く竜樹菩薩並に三師の意は法華已前の四十余年の経経に於て難易等の義を存す、而るに源空より已来竜樹並に三師の難行等の語を借りて法華真言等を以て難・雑等の内に入れぬ、所化の弟子・師の失を知らずして此の邪義を以て正義と存じ此の国に流布せしむるが故に国中の万民悉く法華・真言に於て時機不相応の想を作す、其の上世間を貪る天台真言の学者世の情に随わんが為に法華真言に於て時機不相応の悪言を吐いて選択集の邪義を扶け、一旦の欲心に依つて釈迦多宝並に十方諸仏の御評定の「令法久住・於閻浮提広宣流布」の誠言(かいごん)を壊(やぶ)り一切衆生をして三世十方の諸仏の舌を切る罪を得せしむ、偏に是れ悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲(てんごく)に未だ得ざるを為得たりと謂い、乃至・悪鬼其の身に入り仏の方便随宜(ずいぎ)所説の法を知らざる故なり。

問うて云く竜樹菩薩並に三師は法華真言等を以て難・聖・雑の中に入れざりしを源空私に之を入るるとは何を以て之を知るや、答えて云く遠く余処に証拠を尋ぬ可きに非ず即選択集に之を見たり、問うて云く其の証文如何、答えて云く選択集の第一篇に云く道綽禅師・聖道浄土の二門を立て而して聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文と約束し了つて、次下に安楽集を引いて私の料簡の段に云く「初に聖道門とは之に就て二有り・一には大乗・二には小乗なり大乗の中に就て顕密権実等の不同有りと雖も今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す故に歴劫迂回(りゃっこううかい)の行に当る之に準じて之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし」已上選択集の文なり、此の文の意は道綽禅師の安楽集の意は法華已前の大小乗経に於て聖道浄土の二門を分つと雖も我私に法華・真言等の実大・密大を以て四十余年の権大乗に同じて聖道門と称す「準之思之」の四字是なり、此の意に依るが故に亦曇鸞の難易の二道を引く時亦私に法華真言を以て難行道の中に入れ善導和尚の正雑二行を分つ時も亦私に法華真言を以て雑行の内に入る総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は偏に此の四字より起る誤れるかな畏しきかな。
爰に源空の門弟・師の邪義を救つて云く諸宗の常の習い設い経論の証文無しと雖も義類の同じきを聚めて一処に置く而も選択集の意は法華真言等を集めて雑行の内に入れ正行に対して之を捨つ、偏(ひとえ)に経の法体を嫌うに非ず但風勢無き末代の衆生を常没の凡夫と定め此の機に易行の法を撰ぶ時・称名の念仏を以て其の機に当て易行の法を以て諸教に勝ると立つ、権実浅深の勝劣を詮ずるに非ず、雑行と云うも嫌つて雑と云うに非ず雑と云うは不純を雑と云う其の上諸の経論並に諸師も此の意無きに非ず故に叡山の先徳の往生要集の意偏に是の義なり。

所以に往生要集の序に云く「顕密の教法は其の文一に非ず事理の業因其の行惟れ多し、利智精進の人は未だ難しと為ず予が如き頑魯の者豈敢てせんや是の故に念仏の一門に依る」と云云、此の序の意は慧心先徳も法華真言等を破するに非ず但偏に我等頑魯の者の機に当つて法華真言は聞き難く行じ難きが故に我身鈍根なるが故なり、敢て法体(ほったい)を嫌うに非ず、其の上序より已外正宗に至るまで十門有り大文第八の門に述べて云く「今念仏を勧むること是れ余の種種の妙行を遮(しゃ)するに非ず只是れ男女・貴賤・行住坐臥を簡ばず時処諸縁を論ぜず之を修するに難からず乃至・臨終には往生を願求するに其の便宜を得ること念仏には如かず」已上此等の文を見るに源空の選択集と源信の往生要集と一巻三巻の不同有りと雖も一代聖教の中には易行を撰んで末代の愚人を救わんと欲する意趣は但同じ事なり、源空上人・法華真言を難行と立てて悪道に堕せば慧心先徳も亦此の失を免るべからず如何、答えて云く汝・師の謗法の失を救わんが為に事を源信の往生要集に寄せて謗法の上に弥(いよいよ)重罪を招く者なり其の故は釈迦如来五十年の説教に総じて先き四十二年の意を無量義経に定めて云く「険逕(けんぎょう)を行くに留難多き故に」と無量義経の已後を定めて云く「大直道を行くに留難無きが故に」と仏自ら難易・勝劣の二道を分ちたまえり、仏より外等覚已下末代の凡師に至るまで自義を以て難易の二道を分ち此の義に背く者は外道魔王の説に同じきか、随つて四依の大士・竜樹菩薩の十住毘婆沙論には法華已前に於て難易の二道を分ち敢て四十余年已後の経に於て難行の義を存せず、其の上若し修し易きを以て易行と定めば法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり、若し亦勝を以て易行と定めば分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間の檀・戒・忍・進・念仏三昧等先きの五波羅蜜の功徳を以て法華経の一念信解の功徳に比するに一念信解の功徳は念仏三昧等の先きの五波羅蜜に勝るる事百千万億倍なり、難易・勝劣と云い行浅功深と云い観経等の念仏三昧を法華経に比するに難行の中の極難行・劣が中の極劣なり。
其の上悪人愚人を扶(たす)くること亦教の浅深に依る阿含十二年の戒門には現身に四重五逆の者に得道を許さず、華厳方等般若雙観経等の諸経は阿含経より教深き故に勧門の時は重罪の者を摂すと雖も猶戒門の日は七逆の者に現身の受戒を許さず、然りと雖も決定性の二乗・無性の闡提に於て誡勧共に之を許さず、法華涅槃等には唯五逆七逆謗法の者を摂するのみに非ず亦定性無性をも摂す、就中(なかんずく)末法に於ては常没の闡提之多し豈観経等の四十余年の諸経に於て之を扶く可けんや無性の常没・決定性の二乗は但法華涅槃等に限れり、四十余年の経に依る人師は彼の経の機と取る此の人は未だ教相を知らざる故なり。

但し往生要集は一往序分を見る時は法華真言等を以て顕密の内に入れて殆ど末代の機に叶わずと書すと雖も文に入つて委細に一部三巻の始末を見るに、第十の問答料簡の下に正しく諸行の勝劣を定むる時・観仏三昧・般舟三昧・十住毘婆沙論・宝積・大集等の爾前の経論を引いて一切の万行に対して念仏三昧を以て王三昧と立て了んぬ、最後に一つの問答有り爾前の禅定・念仏三昧を以て法華経の一念信解に対するに百千万億倍劣ると定む、復問を通ずる時念仏三昧を万行に勝るると云うは爾前の当分なりと云云、当に知るべし慧心の意は往生要集を造つて末代の愚機を調えて法華経に入れんが為なり、例せば仏の四十余年の経を以て権機を調え法華経に入れ給うが如し。

故に最後に一乗要決を造る其の序に云く「諸宗の権実は古来の諍いなり倶に経論に拠て互いに是非を執す、余寛弘丙午(ひのえうま)の歳冬十月病中に歎いて云く仏法に遇うと雖も仏意を了せず若し終に手を空うせば後悔何ぞ追わん、爰に経論の文義・賢哲の章疏或は人をして尋ねしめ或は自ら思択し全く自宗他宗の偏党を捨つる時・専ら権智実智の深奥を深ぐるに終に一乗は真実の理・五乗は方便の説を得る者なり、既に今生の蒙を開く何ぞ夕死の恨(うらみ)を残さんや」已上此の序の意は偏に慧心の本意を顕すなり、自宗他宗の偏党を捨つるの時浄土の法門を捨てざらんや、一乗は真実の理と得る時専ら法華経に依るに非ずや、源信僧都は永観二年甲申の冬十一月往生要集を造り寛弘二年丙午の冬十月の比・一乗要決を作る其の中間二十余年なり権を先にし実を後にする宛も仏の如く亦竜樹・天親・天台等の如し、汝往生要集を便りとして師の謗法の失を救わんと欲すれども敢えて其の義類に似ず義類の同じきを以て一処に聚むとならば何等の義類同なるや、華厳経の如きは二乗界を隔つるが故に十界互具無し方等・般若の諸経は亦十界互具を許さず観経等の往生極楽も亦方便の往生なり成仏往生倶に法華経の如き往生に非ず皆別時意趣の往生成仏なり。
其の上源信僧都の意は四威儀に行じ易き故に念仏を以て易行と云い四威儀に行じ難きが故に法華を以て難行と称せば天台・妙楽の釈を破する人なり所以に妙楽大師の末代の鈍者無智の者等の法華経を行ずるに普賢菩薩並に多宝十方の諸仏を見奉るを易行と定めて云く「散心に法華を誦し禅三昧に入らず坐立行(ざりゅうぎょう)・一心に法華の文字を念ぜよ」已上此の釈の意趣は末代の愚者を摂せんが為なり散心とは定心に対する語なり誦法華とは八巻一巻一字一句一偈題目一心一念随喜の者五十展転等なり、坐立行とは四威儀を嫌わざるなり一心とは定の一心に非ず理の一心に非ず散心の中の一心なり念法華文字とは此の経は諸経の文字に似ず一字を誦すと雖も八万宝蔵の文字を含み一切諸仏の功徳を納むるなり天台大師玄義の八に云く「手に巻を執らざれども常に是の経を読み口に言声無けれども遍く衆典を誦し仏・説法せざれども恒に梵音を聞き心に思惟せざれども普く法界を照す」已上此の文の意は手に法華経一部八巻を執らざれども是の経を信ずる人は昼夜十二時の持経者なり口に読経の声を出さざれども法華経を信ずる者は日日時時念念に一切経を読む者なり。

仏の入滅は既に二千余年を経たり然りと雖も法華経を信ずる者の許に仏の音声を留めて時時・刻刻・念念に我死せざる由を聞かしむ、心に一念三千を観ぜざれども遍く十方法界を照す者なり此等の徳は偏に法華経を行ずる者に備わるなり、是の故に法華経を信ずる者は設い臨終の時・心に仏を念ぜず口に経を誦せず道場に入らざれども心無くして法界を照し音無くして一切経を誦し巻軸を取らずして法華経八巻を拳る徳之有り是れ豈権教の念仏者の臨終正念を期して・十念の念仏を唱えんと欲する者に・百千万倍勝るる易行に非ずや、故に天台大師文句の十に云く「都て諸教に勝るるが故に随喜功徳品と云う」妙楽大師の法華経は諸経より浅機を取る而るを人師此の義を弁えざる故に法華経の機を深く取る事を破して云く「恐らくは人謬つて解する者初心の功徳の大なることを測らずして功を上位に推り此の初心を蔑る故に今彼の行は浅く功は深きことを示して以て経力を顕す」已上以顕経力の釈の意趣は法華経は観経等の権経に勝れたるが故に行は浅く功は深し浅機を摂むる故なり、若し慧心の先徳・法華経を以て念仏より難行と定め愚者頑魯の者を摂せずと云わば恐らくは逆路伽耶陀(ぎゃくろがやだ)の罪を招かざらんや、恐人謬解(くにんみょうげ)の内に入らざらんや。

総じて天台・妙楽の三大部の本末の意には法華経は諸経に漏れたる愚者・悪人・女人・常没闡提(じょうぼつせんだい)等を摂し給う、他師仏意を覚らざる故に法華経を諸経に同じ或は地住の機を取り或は凡夫に於ても別時意趣の義を存す、此等の邪義を破して人天四悪を以て法華経の機と定む、種類相対を以て過去の善悪を収む人天に生ずる人豈過去の五戒十善無からんや等と定め了んぬ、若し慧心此の義に背かば豈天台宗を知れる人ならんや、而るを源空深く此の義に迷うが故に往生要集に於て僻見(びゃっけん)を起し自ら失(あやま)ち他をも誤る者なり、適宿善有つて実教に入りながら一切衆生を化して権教に還らしめ剰(あまつさ)え実教を破せしむ豈悪師に非ずや、彼の久遠下種・大通結縁の者の如き五百・三千の塵劫を経るが如きは法華の大教を捨てて爾前の権小に遷るが故に後に権経を捨てて六道を回りぬ不軽軽毀の衆は千劫阿鼻地獄に堕つ、権師を信じ実経を弘むる者に誹謗を作したるが故なり。而るに源空我が身唯実経を捨てて権経に入るのみに非ず人を勧めて実経を捨てて権経に入らしめ亦権人をして実経に入らしめず剰え実経の行者を罵るの罪永劫にも浮び難からんか。

問うて云く十住毘婆沙論は一代の通論なり難易の二道の内に何ぞ法華・真言・涅槃を入れざるや、答えて云く一代の諸大乗経に於て華厳経の如きは初頓後分有り初頓の華厳は二乗の成不成を論ぜず方等部の諸経には一向に二乗・無性闡提の成仏を斥う般若部の諸経も之に同じ総じて四十余年の諸大乗経の意は法華・涅槃・大日経等の如くには二乗・無性の成仏を許さず、此等を以て之を検うるに爾前法華の相違は水火の如し滅後の論師・竜樹・天親も亦倶に千部の論師なり所造の論に通別の二論有り通論に於ても亦二有り四十余年の通論と一代五十年の通論となり、其の差別を分つに決定性の二乗・無性闡提の成不成を以て論の権実を定むるなり、而るに大論は竜樹菩薩の造・羅什三蔵の訳なり此の論にも亦二乗作仏を許さず、之を以て知んぬ法華已前の諸大乗経の意を申べたる論なることを。
問うて云く十住毘婆沙論の何処に二乗作仏を許さざるの文出でたるや、答えて云く十住毘婆沙論の第五に云く「若し声聞地及び辟支仏地に堕する是を菩薩の死と名く則ち一切の利を失す若し地獄に堕すとも是の如き畏れを生ぜじ若し二乗地に堕すれば則ち大怖畏と為す地獄の中に堕すとも畢竟して仏に至ることを得・若し二乗地に堕すれば畢竟して仏道を遮す」已上此の文二乗作仏を許さず、宛(あたか)も浄名等の「於仏法中以如敗種」の文の如し。
問うて云く大論は般若経に依つて二乗作仏を許さず法華経に依つて二乗作仏を許すの文如何、答えて云く大論の一百に云く「問うて云く更に何の法か甚深にして般若に勝れたる者あれば而も般若を以て阿難に属累し余経を以て菩薩に属累するや、答えて云く般若波羅蜜は秘密の法に非ず而るに法華等の諸経は阿羅漢の受決作仏を説く所以に大菩薩能く受けて持用す譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と、亦九十三に云く「阿羅漢の成仏は論義者の知る所に非ず唯仏のみ能く了し給う」已上此等の文を以て之を思うに論師の権実は宛も仏の権実の如し而るを権経に依る人師猥(みだ)りに法華等を以て観経等の権説に同じ法華・涅槃等の義を仮りて浄土三部経の徳と作し決定性の二乗・無性の闡提・常没の往生を許す権実雑乱の失脱れ難し、例せば外典の儒者・内典を賊(ぬす)みて外典を荘(かざ)るが如し、謗法の失免れ難きか、仏自ら権実を分ち給う其の詮を探るに決定性の二乗・無性有情の成・不成是なり、而るに此の義を弁えざる訳者・爾前の経経を訳する時・二乗の作仏・無性の成仏を許す此の義を知る訳者は爾前の経を訳する時・二乗の作仏無性の成仏を許さず、之に依つて仏意を覚らざる人師も亦爾前の経に於て決定性・無性の成仏を明すと見て法華と爾前と同じき思いを作し或は爾前の経に於て決定無性を嫌う文を見・此の義を以て了義経と為し法華・涅槃を以て不了義経と為す共に仏意を覚らず権実二経に迷えり、此等の誤りを出さば但源空一人に限るのみに非ず天竺の論師並に訳者より唐土の人師に至るまで其の義有り、所謂地論師・摂論師の一代の別時意趣・善導・懐感(えかん)の法華経の一称南無仏の別時意趣・此等は皆権実を弁えざるが故に出来する所の誤りなり、論を造る菩薩・経を訳する三蔵・三昧発得の人師猶以て是くの如し况や末代の凡師に於てをや。

問うて云く汝末学の身として何ぞ論師並に訳者人師を破するや、答えて云く敢て此の難を致すこと勿れ摂論師並に善導等の釈は権実二教を弁えずして猥りに法華経を以て別時意趣と立つ故に天台妙楽の釈と水火を作す間・且らく人師の相違を閣いて経論に付て是非を検うる時権実の二教は仏説より出でたり天親・竜樹重ねて之を定む、此の義に順ずる人師をば且らく之を仰ぎ此の義に順ぜざる人師をば且らく之を用いず敢て自義を以て是非を定むるに非ず但相違を出す計りなり。

その四に続く

by johsei1129 | 2015-08-17 19:31 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
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