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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 12月 04日

立正安国論による国家諌暁に備えた書【念仏者追放宣旨事】

【念仏者追放宣旨事】
■出筆時期:正元元年(1259年)三十八歳 御作
■出筆場所:鎌倉 松葉ケ谷の草庵にて。
■出筆の経緯:本抄は「浄土三部の外は衆経を棄置すべし」と仏法を破壊する説を唱えた法然の専修念仏を対治する目的で、延暦寺から出された念仏禁止の奏上、またそれに呼応した幕府の宣旨等をとりまとめた書となっております。大聖人は本書を記した翌年に「立正安国論」を時の最高権力者・北条時鎌に提出しますが、本書はその準備の意味もあって著されたと思われます。
■ご真筆:現存しておりません。


[念仏者追放宣旨事 本文]

 念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状

 夫れ以(おもん)みれば仏法流布の砌(みぎり)には天下静謐(せいひつ)なり、神明仰崇(ぎょうそ)の界には国土豊饒(ぶにょう)なり。之に依つて月氏より日域に覃(およ)んで君王より人民に至るまで、此の義改むること無き職として然り。

 爰(ここ)に後鳥羽院の御宇に源空法師と云う者あり。道俗を欺くが故に専修を興して顕密の教理を破し、男女を誑(たぶら)かすが故に邪義を構えて仏神の威光を滅し、常に四衆を誘(いざな)うて云く、浄土三部の外は衆経を棄置(きち)すべし。唱名一行の外は余行を廃退すべし。矧(いわ)んや神祇冥道(じんぎみょうどう)の恭敬(くぎょう)に於ておや、況(いわん)や孝養報恩の事善に於ておや。之を信ぜざる者は本願を疑うなりと。爰に頑愚の類は甚深の妙典を軽慢し、無智の族は神明の威徳を蔑如(べつじょ)す。就中(なかんずく)止観・遮那(しゃな)の学窓に臨む者は出離を抑(おさ)ゆる癡人なり、三論・法相の稽古を励む者は菩提を塞(ふさ)ぐ誑人(きょうじん)なりと云云。

 之に依つて仏法・日に衰え、迷執・月に増す然る間、南都北嶺の明徳・奏聞を経て天聴に達するの刻(きざみ)、源空が過咎遁(かぐ・のが)れ難きの間・遠流(おんる)の宣を蒙むり、配所の境に赴き畢(おわ)んぬ。其の後、門徒猶(なお)勅命を憚(はばか)からずして弥(いよいよ)専修を興すること殆ど先代に超えたり。違勅の至り・責めても余り有り。故に重ねて専修を停廃し、源空の門徒を流罪すべきの由・綸言頻(りんげん・しきり)に下る。又関東の御下知・勅宣に相添う。

 門葉等は遁(のが)るべきの術を失い、或は山林に流浪(るろう)し・或は遠国に逃隠(とういん)す。爾してより華夷(かい)・称名を抛(なげう)ちて男女・正説に帰する者なり。然るに又近来先規を弁えざるの輩・仏神を崇めざるの類、再び専修の行を企て猶邪悪を増すこと甚し。

 日蓮不肖なりと雖も且は天下の安寧(あんねい)を思うが為、且は仏法の繁昌を致さんが為に強(あなが)ちに先賢の語を宣説し、称名の行を停廃せんと欲し又愚懐(ぐかい)の勘文を添え、頗(すこぶ)る邪人の慢幢(まんどう)を倒さんとす。勘注の文繁くして見難し。知り易からしめんが為に要を取り・諸を省き・略して五篇を列ぬ。委細の旨は広本に在(お)くのみ。

 奏状篇 詮を取りて之を注す。委くは広本に在り。

 南都の奏状に云く、
一、謗人謗法の事
 右源空・顕密の諸宗を軽んずること土の如く・沙(すな)の如く、智行の高位を蔑(ないがし)ろにすること蟻(ぎ)の如く・螻(ろう)の如し。常に自讃して曰く、広く一代聖教を見て知れるは我なり。能く八宗の精微(せいび)を解する者は我なり。我諸行を捨つ。況(いわん)や余人に於ておやと。愚癡の道俗・之を仰ぐこと仏の如く、弟子の偏執・遥に其の師に超え、檀那の邪見・弥(いよいよ)本説に倍し、一天四海漸く以て徧(あまね)し。事の奇特を聞くに驚かずんば有る可からず。其の中、殊に法華の修行を以て専修の讐敵となす。或は此の経を読む者は皆地獄に堕すと云い、或は其の行を修せん者は永く生死に留まると云い、或は僅に仏道の結縁を許し、或は都て浄土の正因を嫌う。然る間・本八軸十軸の文を誦し、千部万部の功を積める者も永く以て廃退し、剰(あまつさ)え前非を悔ゆ。捨つる所の本行の宿習は実に深く、企つる所の念仏の薫習(くんじゅう)は未だ積まず。中途に天を仰いで歎息する者多し。此の外・般若・華厳の帰依・真言・止観の結縁・十の八九皆棄置(きち)す 之を略す

一、霊神を蔑如する事
 右我が朝は本是れ神国なり。百王・彼の苗裔(びょうえい)を承(う)けて四海其の加護を仰ぐ。而るに専修の輩・永く神明を別(わきま)えず、権化(ごんげ)・実類を論ぜず、宗廟(そうびょう)・祖社を恐れず。若し神明を憑(たの)まば魔界に堕すと云云。 実類の鬼神に於ては置いて論ぜざるか。権化の垂迹(すいじゃく)に至つては既に是れ大聖なり。上代の高僧皆以て帰伏す。行教(ぎょうきょう)和尚・宇佐の宮に参るに釈迦三尊の影・月の如くに顕れ、仲算(ちゅうざん)大徳・熊野山に詣るに飛滝千仭(ひりゅうせんじん)の水・簾(すだれ)の如くに巻く。凡そ行基(ぎょうき)・護命(ごみょう)・増利(ぞうり)・聖宝(しょうほう)・空海・最澄・円珍等は皆神社に於て新に霊異(れいい)を感ず。是くの若(ごと)きは源空に及ばざるの人か。又魔界に堕つ可きの類か 之を略す

山門の奏状に云く。
一、一向専修の党類・神明に向背する不当の事。
 右我が朝は神国なり。神道を敬うを以て国の勤めと為す。謹んで百神の本を討(たず)ぬるに諸仏の迹に非ること無し。所謂(いわゆる)伊勢大神宮・八幡・加茂・日吉・春日等は皆是れ釈迦・薬師・弥陀・観音等の示現なり。各宿習の地を卜(し)め、専ら有縁の儀を調う。乃至其の内証に随いて彼の法施を資(たす)け、念誦・読経・神に依つて事異なり、世を挙げて信を取り・人毎に益を被(こうむ)る。而るに今専修の徒・事を念仏に寄せて永く神明を敬うこと無し。既に国の礼を失い・仍(なお)神を無(なみ)するの咎あり。当に知るべし、有勢の神祇(じんぎ)定めて降伏の眸(まなじり)を回らして睨(にら)みたまわん 之を略す

一、一向専修和漢の例快からざる事
 右慈覚大師の入唐巡礼記を按(あん)ずるに云く、唐の武宗皇帝・会昌(えしょう)元年、章敬寺の鏡霜法師(きょうそうほっし)に勅令して諸寺に於て弥陀念仏の教を伝え寺毎に三日巡輪して絶えず。同じく二年廻鶻(かいかつ)国の軍兵等・唐の界(さかい)を侵(おか)す。同じく三年河北の節度使・忽ち乱を起す。其の後大蕃国更に命を拒(こば)む。廻鶻国重ねて地を奪いぬ。凡そ兵乱秦項(しんこう)の代に同じく、災火邑里(さいかゆうり)の際に起る。何(いか)に況(いわん)や武宗大に仏法を破し・多く寺塔を滅す。撥乱(はつらん)すること能わずして遂に以て事有り 已上取意。是れ則ち恣(ほしいまま)に浄土の一門を信じて護国の諸教を仰がざるに依つてなり。而るに吾朝一向専修を弘通してより以来(このかた)、国衰微に属し俗多く艱難す 已上之を略す。又云く、音の哀楽を以て国の盛衰を知る。詩の序に云く治世の音は安んじて以て楽しむ。其の政・和げばなり。乱世の音は怨んで以て怒る。其の政・乖(そむ)けばなり。亡国の音は哀んで以て思う。其の民・困(くるし)めばなりと云云。近代念仏の曲を聞くに理世撫民(ぶみん)の音に背き、已に哀慟(あいどう)の響を成す。是れ亡国の音なる可し是四。已上奏状。

山門の奏状詮を取る此の如し。
又大和の荘の法印俊範(しゅんぱん)・宝地房の法印宗源(そうげん)・同坊の永尊竪者(ようそんりっしゃ) 後に僧都と云う並に題者なり 等、源空が門徒を対治せんが為に各各子細を述ぶ其の文広本に在り。又諸宗の明徳、面面に書を作りて選択集(せんちゃくしゅう)を破し専修を対治する書籍世に伝う。

宣旨篇
 南都北嶺の訴状に依つて専修を対治し、行者を流罪す可きの由、度度の宣旨の内今は少を載せ多を省く。委(くわし)くは広本に在り。
 永尊竪者(ようそんりっしゃ)の状に云く弾選択(だんせんちゃく)等上送せられて後・山上に披露す。弾選択に於ては人毎に之を翫(もてあそ)び、顕選択は諸人之を謗ず。法然上人の墓所は感神院の犬神人(つるめそう)に仰付て之を破郤(はきゃく)せしめ畢(おわ)んぬ。其の後・奏聞に及んで裁許(さいきょ)を蒙り畢んぬ。七月の上旬に法勝寺の御八講(みはっこう)の次(ついで)、山門より南都に触れて云く、清水寺・祇園の辺・南都山門の末寺たるの処に専修の輩・身を容れし草菴(そうあん)に於ては悉(ことごと)く破郤(はきゃく)せしめ畢んぬ。其の身に於ては使庁に仰せて之を搦(から)め取らるるの間、礼讃の声・黒衣の色・京洛の中に都(すべ)て以て止め畢んぬ。張本三人流罪に定めらると雖も逐電(ちくでん)の間、未だ配所に向わず。山門今に訴え申し候なり。

 此の十一日の僉議(せんぎ)に云く、法然房所造の選択は謗法の書なり。天下に之を止め置く可からず。仍つて在在所所の所持並に其の印板を大講堂に取り上げ、三世の仏恩を報ぜんが為に焼失すべきの由・奏聞仕り候い畢んぬ。重ねて仰せ下され候か、恐恐。
 嘉禄三年(注・1227年)十月十五日

 専修念仏の張本・成覚法師、讃岐(さぬき)の大手嶋(じま)に経回すと云云。実否分明ならず慥(たしか)に検知(けんち)を加えらる可きの由・山門の人人申す。相尋ね申さしめ給う可きの由、殿下の御気色・候(うかが)う所なり。仍つて執達件(しったつくだん)の如し。
 嘉禄三年十月二十日    参議範輔(のりすけ)在り判
 修理権亮(ごんのすけ)殿

 関東より宣旨の御返事
 隆寛律師の事、右大弁宰相家(うだいべん・さいしょうけ)の御奉書・披露候い畢んぬ。件の律師去る七月(ふづき)の比(ころ)・下向せしむ。鎌倉近辺に経回すると雖も京都の制符に任せ念仏者を追放せらるるの間、奥州の方へ流浪せしめ畢んぬ云云。早く在所を尋ね捜して仰せ下さるるの旨に任せ、対馬の嶋に追遣(おいやる)可きなり。此の旨を以て言上せしむ可きの状、鎌倉殿の仰せに依つて執達・件(しったつ・くだん)の如し。
 嘉禄三年十月十五日     武蔵守在り判
               相模守在り判
掃部助(かもんのすけ)殿
修理亮(しゅりのすけ)殿

 専修念仏の事、停廃(ていはい)の宣下・重畳の上、偸(ひそ)かに尚興行するの条更に公家の知(しろ)しめす所にあらず。偏に有司の怠慢たり。早く先符に任せて禁遏(きんあつ)せらる可し。其の上衆徒の蜂起に於ては宜(よろし)く制止を加えしめ給うべし。天気に依つて言上・件の如し。信盛・頓首恐惶謹言
 嘉禄三年六月二十九日       左衛門権佐信盛 奉る
 進上 天台座主大僧正御房     政所   

 右弁官下(うべんかん・くだ)す    延暦寺
 早く僧の隆寛・幸西(こうさい)・空阿弥陀仏の土縁を取り進(まいら)すべき事の書、権大納言(ごんだいなごん)源朝臣・雅親(みなもとのあそん・まさちか)宣奉勅(せんぶちょく)、件の隆寛等の坐(つみ)せらるること配流・宜(はいる・よろし)く彼の寺に仰せて度縁を取り進(まいら)せしむ可し。者(てい)れば宜(よろし)く承知して宣(せん)に依つて之を行うべし。違失ある可からず。
嘉禄三年七月六日    左太史小槻宿禰(おつぎすくね)在り判
            左少弁藤原朝臣在り判

 太政官(だじょうかん)の符(ふ)・五畿内の諸国司(こくし)まさに宜く専修念仏の興行を停廃し、早く隆寛・幸西・空阿弥陀仏等の遺弟の留まる処に禁法を犯す所の輩を捉え搦むべきの事。
 弘仁聖代の格条(かくじょう)眼に在り。左大臣・勅を宣奉し宜く五畿七道に課(おお)せて興行の道を停廃し違犯(いはん)の身を捉え搦むべし。者(てい)れば諸国司・宜く承知して宣に依つて之を行え。符(ふ)到らば奉行を致せ。
嘉禄三年七月十七日
  修理右宮城使正四位下行右中弁藤原朝臣
  修理東大寺大仏長官正五位下左大史兼備前権介小槻宿禰

 専修念仏興行の輩(ともがら)停止す可きの由、五畿七道に宣下(せんげ)せられ候い畢んぬ。且(か)つは御存知有る可く候。者(てい)れば綸言・此(りんげん・かく)の如し・之を悉(つまびらか)にせよ。頼隆・誠恐頓首(せいきょうとんしゅ)謹言。
 嘉禄三年七月十三日     右中弁頼隆 在り判
 進上 天台座主大僧正御房         政所
 隆寛、対馬の国に改めらる可きの由宣下せられ畢んぬ。其の由御下知有る可きの旨仰せ下さる所に候なり。此の趣を以て申し入れしめ給う可きの状・件の如し。
               右中弁頼隆 在り判
 中納言律師御房
 
 隆寛律師専修の張本たるに依つて山門より訴え申すの間、陸奥(みちのく)に配流(はいる)せられ畢んぬ。而るに衆徒尚(なお)申す旨有り。仍つて配所を改めて対馬の嶋に追い遣(や)らる可きなり。当時東国の辺に経回(きょうかい)すと云云。不日に彼の島に追い遣らる可きの由・関東に申さる可し。者(てい)れば殿下の御気色に依つて執達件の如し。
 嘉禄三年九月二十六日      参議 在り判
 修理権亮(ごんのすけ)殿

 専修専修念仏の事。京畿七道に仰せて永く停止せらる可きの由・先日宣下せられ候い畢んぬ。而るに諸国に尚其の聞え有りと云云。宣旨の状を守りて沙汰致す可きの由、地頭・守護所等に仰付けらる可きの由・山門訴え申し候。御下知有る可く候。此の旨を以て沙汰申さしめ給う可きの由・殿下の御気色候所なり。仍つて執達件の如し。
 嘉禄三年十月十日        参議 在り判
 武蔵守殿

 嵯峨に下されし院宣
 近頃(このごろ)破戒不善の輩・厳禁に拘(かか)わらず、猶専修念仏を企つるの由其の聞え有り。而るに先師法眼(ほうげん)存日の時・清涼寺の辺に多く以て止住すと云云。遺跡を相継ぎて若し同意有らば彼の寺の執務、縦(たと)い相承(そうじょう)の理を帯すとも免許の義有る可からざるなり。早く此の旨を存して禁止せしめ給う可し。院宣此くの如し。仍つて執達件の如し。
 建保七年(注:1219年)二月四日    按 察 使(あぜち)在り判
 治部卿律師御房
 謹んで請く 院宣(いんぜん)一紙
 右当寺四至の内に破戒不善の専修念仏の輩、法に任せて制止ある可く候。更に以て芳心(ほうしん)有る可からず候。若し猶寺家の力に拘わらずんば事の由を申し上ぐ可く候。謹んで請(う)くる所件の如し。
建保七年閏(うるう)二月四日        権律師良暁

 左弁官下す 綱所
 まさに諸寺の執務人に下知して専修念仏の輩を糾断(きゅうだん)せしむべき事。
 右・左大臣勅を宣奉(せんぶ)す。専修念仏の行は諸宗衰微(すいび)の基(もとい)なり。仍つて去る建永二年(注・1207年)の春、厳制五箇条の裁許を以てせる官符の施行・先に畢んぬ。傾く者は進んでは憲章(けんしょう)を恐れず、退いては仏勅を憚(はばか)からず、或は梵宇(ぼんう)を占め・或は聚洛(じゅらく)に交わる破戒の沙門(しゃもん)・党を道場に結んで偏(ひとえ)に今按(きんあん)の佯(いつわり)を以てす。仏号を唱えんが為に妄りに邪音を作し、将に蕩(とろか)して人心を放逸(ほういつ)にせんとす。見聞満座の処には賢善の形を現ずと雖も。寂寞破窓(じゃくばく・はそう)の夕には流俗の睡りに異ならず。是れ則ち発心の修善に非ず、濫行(らんぎょう)の奸謀(かんぼう)を企つるなり。豈仏陀の元意僧徒の所行と謂わんや。
 宜しく有司に仰せて慥(たしか)に糾断(きゅうだん)せしむべし。若し猶・違犯の者は罪科の趣き一(ひとえ)に先符に同じ。但し道心修行の人をして以て仏法違越(いおつ)の者に濫(らん)ぜしむること莫(なか)れ。更に弥陀の教説を忽(ゆるが)せにするに非ず、只釈氏の法文を全からしめんとなり。兼ては又諸寺執務の人・五保監行(けんぎょう)の輩、聞知して言わずんば与同罪曾つて寛宥(かんゆう)せざれ。者(てい)れば宜しく承知して宣旨に依つて之を行うべし。
 建保七年閏二月八日    太史小槻宿禰(おつぎすくね)在り判

 謹んで請(う)く 綱所
 宣旨一通載せらるるはまさに諸寺の執務(しゅうむ)人に下知して専修念仏の輩を糾断せしむべき事。
 右宣旨の状に任せ、諸寺に告げ触る可きの状、謹んで請くる所件の如し。
 建保七年閏二月二十二日之を行う。

 頃年(きょうねん)以来、無慚(むざん)の徒・不法の侶・如如の戒行を守らず、処処の厳制を恐れず、恣(ほしいまま)に念仏の別宗を建て猥(みだ)りに衆僧の勤学を謗ず。しかのみならず内には妄執(もうしゅう)を凝らして仏意に乖(そむ)き、外には哀音を引いて人心を蕩(とろ)かす。遠近併(おんごん・しかしなが)ら専修の一行に帰し、緇素(しそ)殆んど顕密の両教を褊(さみ)す。仏法の衰滅(すいめつ)而も斯に由る。自由の奸悪(かんあく)誠に禁じても余り有り。
 是を以て教雅(きょうが)法師に於ては本源を温(たず)ねて遠流し、此の外同行の余党等慥(たし)かに其の行を帝土の中に停廃し・悉(ことごと)く其の身を洛陽(らくよう)の外に追郤(ついきゃく)せよ。但し或は自行の為・或は化他の為に至心(ししん)専念・如法修行の輩(ともがら)に於ては制の限りに在らず。
  天福二年(注・1234年)六月晦日   藤原中納言権弁奉る
  天福二年文暦と改む四条院の御宇後堀河院の太子なり、武蔵前司入道殿の御時。

 祇園(ぎおん)の執行に仰せ付けらるる山門の下知(げち)状。
 大衆の僉議(せんぎ)に云く専修念仏者・天下に繁昌す。是れ則ち近年山門無沙汰の致す所なり。件の族(やから)は八宗仏法の怨敵なり、円頓行者の順魔(じゅんま)なり。先ず京都往返の類・在家称名の所に於ては例に任せ犬神人(つるめそう)に仰せて宜しく停止せしむべし云云。者(てい)れば大衆僉議の旨斯(か)くの如し。早く先例に任せ犬神人等に仰せ含めて専修念仏者を停止せしめ給う可し云云。恐恐謹言。
  延応二年五月十四日   公文勾当審賢(くもん・こうとうしんけん)
  四条院の御宇武蔵前司殿の御時。

 謹上 祇園の執行法眼御房
 逐つて申す。去る夜・大衆僉議(せんぎ)して先ず此の異名に於て殊に犬神人に付けて之を責む可きの由・仰せ含めぬ。仍つて実名之を獻ず。専修念仏の張本の事・唯仏(ゆいぶつ)・鏡仏(きょうぶつ)・智願(ちがん)・定真(じょうしん)・円真・正(しょう)阿弥陀仏・名(みょう)阿弥陀仏・善慧(ぜんね)・道弁、真如堂狼藉(ろうぜき)の張本なり已上。唐橋油小路(からはし・あぶらのこうじ)並に八条大御堂六波羅(おおみどうろくはら)の総門の向いの堂・已上・当時興行の所なり。
 延暦寺 別院雲居(うんご)寺

 早く一向専修の悪行を禁断す可き事
 右頃年以来、愚蒙(ぐもう)の結党(けっとう)・姧宄(かんき)の会衆(えしゅ)を名けて専修と曰い、闐閭(てんりょ)に旁(あま)ねし。心に一分の慧解無く・口に衆罪の悪言を吐き、言を一念十声(じっしょう)の悲願に寄せて、敢て三毒五蓋(ごがい)の重悪を憚からず。盲瞑(もうみょう)の輩・是非を弁えず、唯情に順ずるを以て多く愚誨(ぐかい)に信伏す。持戒修善の人を笑うて之を雑行と号し、鎮国護王(ちんこくごおう)の教を謗りて之を魔業と称す。諸善を擯棄(ひんき)し・衆悪を選択し・罪を山岳に積み・報(むくい)を泥梨(ないり)に招く。毒気深く入つて禁じても改むること無く、偏(ひとえ)に欲楽(よくらく)を嗜(たしな)んで自ら止むこと能わず。猶蒼蝿(そうよう)の唾の為に黏(ねや)さるるが如く、何ぞ狂狗(きょうく)の雷を逐(お)うて走るに異ならん。恣(ほしい)ままに三寸の舌を振いて衆生の眼目を抜き、五尺の身を養わんが為に諸仏の肝心を滅す。併(しかしなが)ら只仏法の怨魔(えんま)と為り、専ら緇門(しもん)の妖怪(ようかい)と謂う可し。
 是を以て邪師存生の昔は永く罪条に沈み、滅後の今は亦屍骨(しこつ)を刎(はね)らる。其の徒・住蓮(じゅうれん)と安楽とは死を原野に賜い、成覚(じょうかく)と薩生(さっしょう)とは刑を遠流に蒙(こうむ)りぬ。此の現罰を以て其の後報を察す可し。方(まさ)に今・且(いま・かつ)は釈尊の遺法を護らんが為、且(かつ)は衆生の塗炭(とたん)を救わんが為に宜(よろし)く諸国の末寺・荘園(しょうえん)・神人・寄人等に仰せて・重ねて彼の邪法を禁断すべし。縦(たと)い片時と雖も彼の凶類を寄宿せしむ可からず。縦(たと)い一言と雖も其の邪説を聴受(ちょうじゅ)す可からず。若し又山門所部の内に専修興行の輩有らば、永く重科に処して寛宥(かんゆう)有ること勿れ。者(てい)れば三千衆徒の僉議(せんぎ)に依つて仰す所件の如し。
 延応二年(注・1240年)

 山門申状
 近来二つの妖怪(ようかい)有り、人の耳目を驚かす。所謂達磨(だるま)の邪法と念仏の哀音となり。顕密の法門に属せず王臣の祈請(きしょう)を致さず。誠に端拱(たんこう)にして世を蔑(あなど)り暗証にして人を軽んず。小生の浅識を崇(あが)めて見性成仏の仁と為し、耆年(ぎねん)の宿老(しゅくろう)を笑うて螻蟻蟁蝱(るぎもんもう)の類に擬(ぎ)す。論談を致さざれば才の長短を表さず、決択(けっちゃく)に交らざれば智の賢愚を測らず。唯牆壁(しょうびゃく)に向うて独り道を得たりと謂い、三依纔(わず)に紆(まど)い七慢専ら盛んなり。長く舒巻(じょかん)を抛(なげう)つ。附仏法の外道・吾が朝に既に出現す、妖怪の至り慎まずんばあるべからず。何ぞ強(あなが)ちに亡国流浪の僧を撰んで伽藍伝持の主と為さんや。
 御式目に云く右大将家以後・代代の将軍並びに二位殿の御時に於ての事、一向に御沙汰を改ること無きか。追加の状に云く、嘉禄元年(注・1225年)より仁治(1240年)に至るまで御成敗の事・正嘉二年(1258年)二月十日評定、右自今以後に於ては三代の将軍並に二位家の御成敗に準じて御沙汰を改むるに及ばずと云云。
 
 念仏停廃(ていはい)の事、宣旨御教書の趣(おもむ)き・南都北嶺の状・粗(ほぼ)此くの如し。日蓮尫弱(おうじゃく)為りと雖も勅宣並に御下知の旨を守りて偏(ひとえ)に南北明哲の賢懐(けんかい)を述ぶ。猶此の義を棄置(きち)せらるるに非ずんば綸言(りんげん)徳政を故(はか)らる可きか、将(は)た御下知を仰せらるる可きか。称名念仏の行者又賞翫(しょうがん)せらると雖も既に違勅の者なり。関東の御勘気未だ御免許をも蒙らず。何ぞ恣(ほしいまま)に関東の近住を企てんや。就中・武蔵前司殿の御下知に至りては三代の将軍並に二位家の御沙汰に準じて御沙汰を改むること有る可からずと云云。
 然るに今念仏者・何の威勢に依つてか宣旨に背くのみに非ず、御下知を軽蔑(けいべつ)して重ねて称名念仏の専修を結構(けっこう)せん。人に依つて事異なりと云う・此の謂在るか。何ぞ恣(ほしいまま)に華夷(かい)縦横の経回を致さんや。
勘文篇

念仏者追放宣旨御教書の事




by johsei1129 | 2019-12-04 22:32 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
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