【宿屋入道再御状】
■出筆時期:文永五年(1268年)九月 四十七歳 御作
■出筆場所:鎌倉 草庵にて。
■出筆の経緯:大聖人は八年前の文応元年に、立正安国論を幕府・寺社奉行の宿屋入道を通じて、時の最高実力者・前執権の北条時頼に提出しました。そして本状を著した文永五年の一月十八日、蒙古の使者が皇帝の牒状を携えて鎌倉に到着します。この事実を把握した大聖人は八月二十一日宿屋入道に対し「今年大蒙古国より牒状之有る由・風聞す等云云。経文の如くんば・彼の国より此の国を責めん事必定なり。而るに日本国の中には日蓮一人当に彼の西戎を調伏するの人たる可しと兼て之を知り・論文に之を勘う、君の為・国の為・神の為・仏の為・内奏を経らる可きか」と認めて書状(宿屋入道許御状)を送ります。しかし、九月になっても返答がなく、大聖人は再び本状を記されて宿屋入道に送られました。尚、本状のご真筆は後半部分が欠損しているため、その箇所の内容は不明となっております。
■ご真筆:京都市本圀寺 所蔵。
[宿屋入道再御状 本文]
去ぬる八月の比、愚札を進ぜしむるの後、今月に至るも是非に付け・返報を給はらず。鬱念(うつねん)散じ難し。忽々(そうそう)の故に想亡せしむるか。軽略せらるるの故に此の一行を慳(おし)むか。
本文に云はく「師子は少兎(しょうと)を蔑(あなど)らず大象を畏れず」等云云。
若し又万一他国の兵、此の国を襲ふ事出来せぱ、知りて奏せざるの失(とが)・偏に貴辺に懸るべし。
仏法を学ぶの法は、身命を捨て国恩を報ぜんが為なり。全く自身の為に非ず。
本文に云はく「雨を見て竜を知り、蓮を見て池を知る」等云云。
災難・急を見る故に度々之を驚かす。用ひざるに而も之を諫む。
強(以下欠損している)