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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 08月 12日

観心本尊抄文段 上三十  此の本尊を受持する衆生は皆(みな)久遠元初の仏道に入る、故に「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」と云うなり


一 四大(しだい)声聞(しょうもん)領解(りょうげ)に云く「無上宝聚(むじょうほうじゅ)不求(ふぐ)自得(じとく)」等

此の下は次に(しゃく)(じょう)二と()す。初めに上を()けて下を()こし、次に経に云う「我が如く等しく」の下は正しく釈成するなり。初めに上を()けて下を起こすとは、此の「無上宝聚・不求自得」の一文は正しく上の「自然(じねん)譲与(じょうよ)」を承けて、下の本尊行者体一を引き起す。故に承上(しょうじょう)起下(きげ)云うなり。

文に「無上宝聚」等と云うは、()(ぜん)は有上・迹門は無上、迹門は有上・本門は無上、(だっ)(ちゃく)は有上・下種は無上なり。故に此の文底下種の本尊は無上の中の(ごく)無上なり。故に「無上」と云うなり。

此の妙法五字の本尊に釈尊の因位の万行、果位の万徳の宝を(あつ)む、故に「宝聚(ほうじゅ)」と云うなり。故に此の本尊を功徳聚(くどくじゅ)と名づくるなり。()くの如き無上の宝聚を辛労(しんろう)無く、(ぎょう)(こう)無く(ただ)信心()(しょう)を以て、自然(じねん)是れを受得す。故に「不求自得」と云うなり。

文に「我等が()(しん)の声聞界」と云うとは、文意は我等が己心の声聞の不求自得なる故に(すなわ)ち我等が不求自得なり。故に「我等が()(しん)」等と云うなり。

一 経に云く我が如く(ひと)くして異なる事無し等

此の下は次に(まさ)しく釈成(しゃくじょう)するなり。(まさ)に知るべし、前の正釈の中には人(そく)法に約す。故に「我等此の五字を受持すれば」等と云うなり。今の釈成の中には法即人に約するなり。是れ(また)二意あり。一には三身即一身に約す。(いわ)く、久遠元初の自受用身なり。二には一身即三身に約す、謂く本地(ほんち)無作(むさ)の三身是れなり。

此の釈成の文(また)分ちて三と()す。初めに「我が如く等しく」の下は自受用(じじゅゆう)に約して師弟不二(ふに)を示し、次に「宝塔品」の下は無作(むさ)三身に約して親子一体を示し、三に「寿量品」の下は久遠元(くおんがん)(じょ)に約して君臣合体を示す云云。

初めに自受用身に約して師弟不二を示すとは、(いわ)く「(にょ)我等(がとう)無異(むい)」の一句は(おのずか)是れ標の文なり。「(にょ)()(しゃく)所願(しょがん)」の下の四句は(おのずか)是れ釈の文なり。何が故に「如我等無異」なるや。謂く「我願(ががん)()(まん)、衆生皆入(かいにゅう)仏道(ぶつどう)」の故なり。「如我等」の我の字、「如我(しゃく)」の我の字、(なら)びに是れ久遠元初の自受用身なり。故に「昔」と云うなり。言う所の「昔」とは、天台(てんだい)(みょう)(らく)此の文を釈して(げん)(せん)の第三に展転明久の判釈(はんじゃく)丁寧(ていねい)なり。

(しか)りと(いえど)も、当流の意は「本行菩薩道」の時、(なお)(はなは)だ近きを(うら)む。正し是れ久遠元初の所願なり。故に「(にょ)()(しゃく)所願(しょがん)」というなり。()久遠元初の自受(じじゅ)(ゆう)(しん)、末法に出現して此の本尊を授与したもう。故に「(こん)者已(じゃい)満足(まんぞく)」と云うなり。此の本尊を受持する衆生は(みな)久遠元初の仏道に入る、故に「一切衆生を化して、(みな)仏道に入らしむ」と云うなり。(すで)に久遠元初の仏道に入る我等衆生の凡身の当体、(まった)是れ久遠元初の自受用身なり。自受用身の当体、全く是れ我等衆生なり。故に「(みょう)(かく)の釈尊は我等が血肉(けつにく)なり因果の功徳は骨髄(こつずい)に非ずや」と云うなり。自受用は是れ師、我等は是れ弟子、(すで)に「如我等無異」なり。(あに)師弟不二に非ずや。


つづく
文段上 目次



by johsei1129 | 2015-08-12 14:52 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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