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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 08月 12日

観心本尊抄文段 上二九  末法今時の幼児は唯(ただ)仏力・法力に依って能く観心を成ず。何ぞ自力思惟(しゅい)の観察を借らんや。


一 我等()の五字を受持すれば

此の文は正しく是れ受持即観心の義なり。是れ(すなわ)ち「我が滅度の後に(おい)て、(まさ)()の経を受持すべし」の文の意なり。「我等」と言うは「我が滅度の後に於て」の末法の我等なり。即ち長行の「()の故に(なんだ)()如来の滅後に於て」の文是れなり。

「受持」と言うは(まった)く経文に同ず。即ち是れ観心なり。「此の五字」とは経文の「()(きょう)」の両字、即ち是れ本尊なり。此の経文の「斯経」の二字は即ち長行の四句の要法なり。故に(みょう)(らく)此の文を(しゃく)して云く「(にゃく)能持(のうじ)と言うは四法を(たも)つなり」と云云。宗祖の云う名体(みょうたい)宗用(しゅうゆう)(きょう)の南無妙法蓮華経」の意なり。故に滅後末法の我等衆生、()五字の本尊を受持(じゅじ)するを即ち観心と名づくるなり。

問う、何ぞ受持を以て(すなわ)ち観心と名づくるや。

答う、(およ)そ当家の意は(ただ)信心口唱を以て即ち観心と名づけ、而して受持とは正しく信心口唱に(あた)る。故に受持即観心と云うなり。

問う、何を以てか受持正しく信心口唱に(あた)ることを知るを得んや。

答う、今(つつし)んで経文を案ずるに、受持に二義あり。一には総体の受持、二には別体(べったい)の受持なり。

総体の受持とは五種の妙行を総じて受持と名づくるなり。是れ(すなわ)ち受持は五種の妙行に通じ、五種の妙行を総する故なり。今経処々(しょしょ)の「()く是の経を(たも)たん」の文及び「受持無行(むぎょう)()(ぎょう)徒然(とねん)」の文の意、()く能く是れを思うべし。

二には別体の受持(じゅじ)とは、即ち五種の妙行の中の第一の受持是れなり。「信力の故に受け、念力の故に(たも)つ」「文を()るを(どく)と為し、忘れざるを(じゅ)と為す」等是れなり。所以(ゆえ)結要(けっちょう)付嘱(ふぞく)の文に若し長行の中には別体に約して説く、故に「()()に一心に受持し、読誦し、解説(げせつ)し、書写し、説の如く修行すべし」と云うなり。是れ(すなわ)ち要法五種の妙行なり。偈頌(げじゅ)の中に(いた)っては総体に約して説く、故に(ただ)「応()の経を受持すべし」と云うなり。是れ(すなわ)ち宗祖の所謂(いわゆる)(ただ)受持の一行にして成仏すべし」とは是れなり。

(しか)るに当抄の意、正しく()の文に()る。故に今「受持」とは即ち是れ()の中の総体の受持なり。故に五種の妙行に通じ、五種の妙行を総するなり。

(しか)るに今、受持正しく信心口唱に当るとは、信心は即ち是れ受持が(いえ)の受持なり。口唱は即ち是れ受持が家の読誦(どくじゅ)なり。当に知るべし、受持が家の受持読誦は()れ即ち自行なり。(いま)自行の観心を明かす故に(ただ)自行の辺を取るなり。解説(げせつ)書写(しょしゃ)は化他を面と()る故に之を論ぜず。解説は知んぬべし。本尊書写(しょしゃ)(あに)()()に非ずや。

(また)(また)(まさ)に知るべし、此の文の中に四種の力用(りきゆう)を明かすなり。(いわ)く「我等受持」とは(すなわ)是れ信力・行力なり。「此の五字」とは即ち是れ法力なり。「自然(じねん)譲与(じょうよ)」は(あに)仏力に非ずや。

所謂「信力」とは一向に(ただ)此の本尊を信じ、此の本尊の(ほか)には全く仏に成る道無しと強盛に信ずるを即ち「信力」と名づくるなり。天台(てんだい)所謂(いわゆる)(ただ)法性を信じて、()(もろもろ)を信ぜず」とは是れなり。

「行力」と云うは、日()すれば(ともしび)(せん)無し、雨降るに露は詮無し。今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。故に余事を(まじ)えず、(ただ)南無妙法蓮華経と唱うるは(すなわ)是れ「行力」なり。

「法力」と言うは、既に迹中(しゃくちゅう)()()の三世の諸仏の因果の功徳を以て、本地自行の妙法五字に()(そく)す。故に此の本尊の力用(りきゆう)、化功広大・利潤(りにん)()(じん)なるは即ち是れ「法力」なり。

「仏力」と言うは、久遠(くおん)元初(がんじょ)の自受用我が身の当体、自行化他の因果の功徳具足(ぐそく)円満の妙法五字を「()本立(ほんりゅう)誓願(せいがん)」の大悲力を以ての故に一幅(いっぷく)の本尊に図顕し、末法の幼稚(ようち)に授与する時、我等此の本尊を受持すれば、自然に()の自行化他の因果の功徳を(ゆず)り与え、皆(ことごと)く我等が功徳と成し「(にょ)我等(がとう)無異(むい)」の悟りを開かしめたもうは(ひとえ)是れ「仏力」なり。若し仏力、法力に依らずんば何ぞ()く我等が観心を成ぜんや。大論の第一に云く「譬えば蓮華の水に在って、若し日光を得ざれば翳死(えいし)することを疑わざるが如く、衆生の善根(ぜんこん)も若し仏に()わざれば(じょう)を得るに(よし)無し」等云云。(注 翳死(えいし):しぼみ枯れること)

今此の文を解して云く、華は信力の如し。蓮は行力の如し。水は法力の如し。日は仏力の如し。(まさ)に知るべし、蓮華は水に()って生じ、我等が信力・行力は必ず法力に()って生ずるなり。()し水無くんば(すなわ)ち蓮華生ぜず、()し法力無くんば何ぞ信行を生ぜん。是の故に本尊を(あお)(たてまつ)り法力を祈るべし。水に依って蓮華を生ずと(いえど)も、若し日光を得ざれば則ち翳死(えいし)疑わざるが如く、我等法力に依って信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転(さら)に疑うべからず。蓮華の()し日光を得れば則ち必ず()く栄え()くが如く、我等仏力を(こうむ)れば則ち信行成就(じょうじゅ)して(すみや)かに菩提を得るなり。故に末法今時の幼児は(ただ)仏力・法力に依って能く観心を成ず。何ぞ自力()(ゆい)の観察を借らんや。

止観(しかん)第五に云く「(こう)(じょう)に骨を(くだ)き、(せつ)(れい)に身を投ずるとも、(また)何ぞ以て徳に報いるに足らん」等云云。又第一に云く「常啼(じょうたい)は東に()い、(ぜん)(ざい)は南に求め、葉王は手を焼き、()(みょう)(こうべ)()ねらる。一日に三たび恒河沙(ごうがしゃ)に身を捨つるとも、(なお)一句の力を報ずる(あた)わず。(いわん)や両肩に荷負(かぶ)すること百千万劫(まんこう)すとも(いずくん)ぞ仏法の恩を(むく)いんをや」云云。之を思え、之を思え。


                    つづく

文段上 目次




by johsei1129 | 2015-08-12 14:28 | 日寛上人 御書文段 | Trackback | Comments(0)
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