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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 08月 11日

伊豆流罪という法難に揺れる弟子信徒を諭すために著した書【顕謗法抄】二

[顕謗法抄 本文] その二


第四に行者仏法を弘むる用心を明さば、夫れ仏法をひろめんと・をもはんものは必ず五義を存して正法をひろむべし、五義とは一には教・二には機・三には時・四には国・五には仏法流布の前後なり、第一に教とは如来一代五十年の説教は大小・権実・顕密の差別あり、華厳宗には五教を立て一代ををさめ其の中には華厳・法華を最勝とし華厳・法華の中に華厳経を以て第一とす、南三・北七・並に華厳宗の祖師・日本国の東寺の弘法大師・此の義なり、法相宗は三時に一代ををさめ其の中に深密・法華経を一代の聖教にすぐれたりとす、深密・法華の中・法華経は了義経の中の不了義経・深密経は了義経の中の了義経なり、三論宗に又二蔵・三時を立つ三時の中の第三・中道教とは般若・法華なり、般若・法華の中には般若最第一なり、真言宗には日本国に二の流あり東寺流は弘法大師・十住心を立て第八法華・第九華厳・第十真言・法華経は大日経に劣るのみならず猶華厳経に下るなり、天台の真言は慈覚大師等・大日経と法華経とは広略の異・法華経は理秘密・大日経は事理倶密(じりぐみつ)なり、浄土宗には聖道・浄土・難行・易行・雑行・正行を立てたり浄土の三部経より外の法華経等の一切経は難行・聖道・雑行なり、禅宗には二の流あり一流は一切経・一切の宗の深義は禅宗なり一流は如来一代の聖教は皆言説・如来の口輪(くりん)の方便なり禅師は如来の意密言説にをよばず教外の別伝なり、倶舎宗・成実宗・律宗は小乗宗なり天竺・震旦には小乗宗の者・大乗を破する事これ多し日本国には其の義なし。

問うて云く諸宗の異義区(まちまち)なり一一に其の謂れありて得道をなるべきか・又諸宗・皆謗法となりて一宗計り正義となるべきか、答えて云く異論相違ありといえども皆得道なるか、仏の滅後四百年にあたりて健駄羅国の迦弐色迦(かにしか)王仏法を貴み一夏(いちげ)・僧を供し仏法をといしに一一の僧・異義多し此の王不審して云く仏説は定て一ならんと終に脇(きょう)尊者に問う、尊者答て云く金杖(こんじょう)を折つて種種の物につくるに形は別なれども金杖は一なり形の異なるをば諍うといへども金(こがね)たる事をあらそはず、門門不同なればいりかどをば諍えども入理は一なり等と云云、又求那跋摩(くなばつま)云く諸論各異端なれども修行の理は二無し偏執に是非有りとも達者は違諍無し等と云云、又五百羅漢の真因各異なれども同く聖理をえたり、大論の四悉檀の中の対治悉檀・摂論の四意趣の中の衆生意楽(いぎょう)意趣・此等は此の善を嫌い此の善をほむ、檀戒進等一一にそしり一一にほむる皆得道をなる、此等を以てこれを思うに護法・清弁のあらそい・智光・戒賢の空中・南三・北七の頓・漸・不定・一時・二時・三時・四時・五時・四宗・五宗・六宗・天台の五時・華厳の五教・真言教の東寺・天台の諍・浄土宗の聖道・浄土・禅宗の教外・教内、入門は差別せりというとも実理に入る事は但一なるべきか。

難じて云く華厳の五教・法相・三論の三時・禅宗の教外・浄土宗の難行・易行・南三北七の五時等門はことなりと・いへども入理・一にして皆仏意に叶い謗法とならずといはば謗法という事あるべからざるか・謗法とは法に背くという事なり法に背くと申すは小乗は小乗経に背き大乗は大乗経に背く法に背かばあに謗法とならざらん謗法とならば・なんぞ苦果をまねかざらん、此の道理にそむく・これひとつ、大般若経に云く「般若を謗ずる者は十方の大阿鼻地獄に堕つべし」法華経に云く「若し人信ぜずして乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と涅槃経に云く「世に難治の病三あり・一には四重・二には五逆・三には謗大乗なり」此等の経文あに・むなしかるべき、此等は証文なり、されば無垢(むく)論師・大慢婆羅門・熈連(きれん)禅師・嵩霊(すうりょう)法師等は正法を謗じて現身に大阿鼻地獄に堕ち舌口中に爛れたりこれは現証なり、天親菩薩は小乗の論を作つて諸大乗経をはしき、後に無著菩薩に対して此の罪を懺悔せんがために舌を切らんとくい給いき、謗法もし罪とならずんば・いかんが千部の論師懺悔をいたすべき、闡提(せんだい)とは天竺の語此には不信と翻す不信とは一切衆生・悉有仏性を信ぜざるは闡提の人と見へたり。

不信とは謗法の者なり恒河の七種の衆生の第一は一闡提・謗法常没の者なり、第二は五逆謗法・常没等の者なりあに謗法ををそれざらん、答えて云く謗法とは只由なく仏法を謗ずるを謗法というか我が宗をたてんがために余法を謗ずるは謗法にあらざるか、摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣とは仮令(たとい)人ありて一生の間一善をも修せず但悪を作る者あり而るに小縁にあいて何れの善にてもあれ一善を修せんと申すこれは随喜讃歎すべし、又善人あり一生の間ただ一善を修す而るを他の善え・うつさんがために・そのぜんをそしる、一事の中に於て或は呵し或は讃すというこれなり、大論の四悉檀の中の対治悉檀又これをなじ、浄名経の弾呵(だんか)と申すは阿含経の時ほめし法をそしるなり、此等を以てをもふに或は衆生多く小乗の機あれば大乗を謗りて小乗経に信心をまし或は衆生多く大乗の機なれば小乗をそしりて大乗経に信心をあつくす、或は衆生・弥陀仏に縁あれば諸仏をそしりて弥陀に信心をまさしめ、或は衆生多く地蔵に縁あれば諸菩薩をそしりて地蔵をほむ、或は衆生多く華厳経に縁あれば諸経をそしりて華厳経をほむ、或は衆生・大般若経に縁あれば諸経をそしりて大般若経をほむ、或は衆生法華経・或は衆生・大日経等同く心うべし、機を見て或は讃め或は毀る共に謗法とならず而るを機をしらざる者みだりに或は讃め或は呰るは謗法となるべきか、例せば華厳宗・三論・法相・天台・真言・禅・浄土等の諸師の諸経をはして我が宗を立つるは謗法とならざるか。

難じて云く宗を立てんに諸経・諸宗を破し仏・菩薩を讃むるに仏・菩薩を破し他の善根を修せしめんがために・この善根をはする・くるしからずば阿含等の諸の小乗経に華厳経等の諸大乗経をはしたる文ありや、華厳経に法華・大日経等の諸大乗経をはしたる文これありや、答えて云く阿含・小乗経に諸大乗経をはしたる文はなけれども華厳経には二乗・大乗・一乗をあげて二乗・大乗をはし・涅槃経には諸大乗経をあげて涅槃経に対してこれをはす、密厳経には一切経中王ととき・無量義経には四十余年未顕真実ととかれ・阿弥陀経には念仏に対して諸経を小善根ととかる、これらの例一にあらず故に又彼の経経による人師皆此の義を存せり、

此等をもつて思うに宗を立つる方は我が宗に対して諸経を破るはくるしからざるか、難じて云く華厳経には小乗・大乗・一乗とあげ・密厳経には一切経中王ととかれ涅槃経には是諸大乗とあげ阿弥陀経には念仏に対して諸経を小善根とは・とかれたれども無量義経のごとく四十余年と年限を指して其の間の大部の諸経・阿含・方等・般若・華厳等の名をよびあげて勝劣をとける事これなし、涅槃経の是諸大乗の文計(ばか)りこそ雙林最後の経として是諸大乗と・とかれたれば涅槃経には一切経は嫌はるかとをぼうれども是諸大乗経と挙げて次ぎ下に諸大乗経を列(つら)ねたるに十二部・修多羅・方等・般若等とあげたり無量義経・法華経をば載せず、但し無量義経に挙ぐるところは四十余年の阿含・方等・般若・華厳経をあげたり、いまだ法華経・涅槃経の勝劣はみへず密厳に一切経中王とはあげたれども一切経をあぐる中に華厳・勝鬘(しょうまん)等の諸経の名をあげて一切経中王ととく故に法華経等とはみへず、阿弥陀経の小善根は時節もなし善根の相貌もみへず、たれかしる小乗経を小善根というか又人天の善根を小善根というか又観経・雙観経の所説の諸善を小善根というかいまだ一代を念仏に対して小善根というとはきこえず。

又大日経・六波羅蜜経等の諸の秘教の中にも一代の一切経を嫌うてその経をほめたる文はなし、但し無量義経計りこそ前四十余年の諸経を嫌い法華経一経に限りて已説(いせつ)の四十余年・今説の無量義経・当説の未来にとくべき涅槃経を嫌うて法華経計りをほめたり、釈迦如来・過去・現在・未来の三世の諸仏・世にいで給いて各各一切経を説き給うにいづれの仏も法華経第一なり、例せば上郎(じょうろう)・下郎(げろう)・不定なり田舎にしては百姓・郎従等は侍(さむらい)を上郎といふ、洛陽にして源平等已下を下郎といふ三家を上郎といふ、又主を王といはば百姓も宅中の王なり地頭・領家等も又村・郷・郡・国の王なりしかれども大王にはあらず、小乗経には無為涅槃の理が王なり小乗の戒定等に対して智慧は王なり、諸大乗経には中道の理が王なり又華厳経は円融相即の王・般若経は空理の王・大集経は守護正法の王・薬師経は薬師如来の別願を説く経の中の王・雙観(そうかん)経は阿弥陀仏の四十八願を説く経の中の王・大日経は印真言を説く経の中の王・一代一切経の王にはあらず、法華経は真諦・俗諦・空仮中・印真言・無為の理・十二大願・四十八願・一切諸経の所説の所詮の法門の大王なり、これ教をしれる者なり而るを善無畏・金剛智・不空・法蔵・澄観・慈恩・嘉祥(かじょう)・南三・北七・曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導・達磨(だるま)等の我が所立の依経を一代第一といえるは教をしらざる者なり、但し一切の人師の中には天台智者大師・一人教をしれる人なり、曇鸞・道綽等の聖道・浄土・難行・易行・正行・雑行は源と十住毘婆沙論(じゅうびばしゃろん)に依る、彼本論に難行の内に法華・真言等を入ると謂(おもえる)は僻案(びゃくあん)なり、論主の心と論の始中終をしらざる失(とが)あり、慈恩が深密経の三時に一代ををさめたる事、又本経の三時に一切経の摂らざる事をしらざる失あり、法蔵澄観等が五教に一代ををさむる中に法華経・華厳経を円教と立て又華厳経は法華経に勝れたりと・をもえるは所依の華厳経に二乗作仏・久遠実成(くおんじつじょう)をあかさざるに記小久成ありと・をもひ華厳よりも超過の法華経を我経に劣ると謂うは僻見なり、三論の嘉祥の二蔵等・又法華経に・般若経すぐれたりとをもう事は僻案なり、善無畏等が大日経は法華経に勝れたりという、法華経の心をしらざるのみならず大日経をもしらざる者なり。

問て云く此等皆謗法ならば悪道に堕ちたるか如何、答て云く謗法に上中下雑の謗法あり、慈恩・嘉祥・澄観等が謗法は上中の謗法か、其上自身も謗法としれるかの間悔還(くいかえ)す筆これあるか、又他師をはするに二あり、能破似破これなり、教はまさりとしれども是非をあらはさんがために法をはすこれは似破なり、能破とは実にまされる経を劣とをもうてこれをはすこれは悪能破なり、又現に・をとれるをはす・これ善能破なり、但し脇尊者の金杖の譬は小乗経は多しといえども同じ苦空無常無我の理なり、諸人同く此の義を存じて十八部・二十部相ひ諍論(じょうろん)あれども但門の諍にて理の諍にはあらず、故に共に謗法とならず、外道が小乗経を破するは外道の理は常住なり小乗経の理は無常なり空なり、故に外道が小乗経をはするは謗法となる、大乗経の理は中道なり小乗経は空なり、小乗経の者が大乗経をはするは謗法となる大乗経の者が小乗経をはするは破法とならず、諸大乗経の中の理は未開会の理いまだ記小久成これなし法華経の理は開会の理・記小久成これあり、諸大乗経の者が法華経をはするは謗法となるべし法華経の者の諸大乗経を謗するは謗法となるべからず、大日経・真言宗は未開会(みかいえ)・記小久成(きしょうくじょう)なくば法華経已前なり開会・記小久成を許さば涅槃経とをなじ、但し善無畏三蔵・金剛智・不空・一行等の性悪の法門・一念三千の法門は天台智者の法門をぬすめるか、若し爾らば善無畏等の謗法は似破か又雑謗法か、五百羅漢の真因は小乗十二因縁の事なり無明行等を縁として空理に入ると見へたり、門は諍(あらそ)えども謗法とならず、摂論の四意趣・大論の四悉檀(しつだん)等は無著(むじゃく)菩薩・竜樹菩薩・滅後の論師として法華経を以て一切経の心をえて四悉・四意趣等を用いて爾前の経経の意を判ずるなり、未開会の四意趣四悉檀と開会の四意趣・四悉檀を同ぜば、あに謗法にあらずや此等をよくよくしるは教をしれる者なり、四句あり一に信而不解(しんにふげ)・二に解而不信(げにふしん)・三に亦信亦解(やくしんやくげ)・四に非信非解(ひしんひげ)、問うて云く信而不解の者は謗法なるか、答えて云く法華経に云く「信を以つて入ることを得」等と云云、涅槃経の九に云く難じて云く涅槃経三十六に云く我契経の中に於て説く二種の人有り仏法僧を謗ずと、一には不信にして瞋恚の心あるが故に、二には信ずと雖も義を解せざるが故に、善男子若し人信心あつて智慧有ること無き是の人は則ち能く無明を増長す、若し智慧有つて信心あること無き是の人は則ち能く邪見を増長す、善男子不信の人は瞋恚の心あるが故に説いて仏法僧宝有ること無しと言わん、信者は慧無く顛倒して義を解するが故に法を聞く者をして仏法僧を謗ぜしむ等と云云、此の二人の中には信じて解せざる者を謗法と説く如何、答えて云く此の信而不解の者は涅槃経の三十六に恒河の七種の衆生の第二の者を説くなり、此の第二の者は涅槃経の一切衆生悉有仏性(しつうぶっしょう)の説を聞いて之を信ずと雖も又不信の者なり。

問うて云く如何ぞ信ずと雖も不信なるや、答えて云く一切衆生悉有仏性の説を聞きて之を信ずと雖も又心を爾前の経に寄する一類の衆生をば無仏性の者と云うなり、此れ信而不信の者なり、問うて云く証文如何、答えて云く恒河第二の衆生を説いて云く経に云く「是くの如き大涅槃経を聞くことを得て信心を生ず、是を名けて出と為す」と又云く「仏性は是れ衆生に有りと信ずと雖も必ずしも一切皆悉(ことごと)く之有らず、是の故に名けて信不具足と為す」文此の文の如くんば口には涅槃を信ずと雖も心に爾前の義を存する者なり又此の第二の人を説いて云く「信ずる者にして慧無く顛倒して義を解するが故に」等と云云、顛倒解義(てんどうげぎ)とは実経の文を得て権経の義を覚る者なり。

問うて云く信而不解・得道の文如何、答えて云く涅槃経の三十二に云く「是れ菩提の因は復(また)無量なりと雖も若し信心を説けば已に摂尽(しょうじん)す」文九に云く「此の経を聞き已(おわ)つて悉く皆菩提の因縁と作る、法声(ほうしょう)光明毛孔(もうこう)に入る者は必定して当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし」等と云云、法華経に云く「信を以て入ることを得」等と云云、問うて云く解而不信の者は如何、答う恒河の第一の者なり、問うて云く証文如何、答えて云く涅槃経の三十六に第一を説て云く「人有りて是の大涅槃経の如来常住無有変易(へんにゃく)常楽我浄を聞くとも終に畢竟して於涅槃の一切衆生悉有仏性に入らざるは一闡提の人なり方等経を謗じ五逆罪を作り四重禁を犯すとも必ず当に菩提の道を成ずることを得べし須陀洹(しゅだおん)の人・斯陀含(しだごん)の人・阿那含(あなごん)の人・阿羅漢の人・辟支仏(びゃくしぶつ)等必ず当に阿○菩提を成ずることを得べし是の語を聞き已つて不信の心を生ず」等と云云。

問うて云く此の文不信とは見えたり解而不信(げにふしん)とは見えず如何、答えて云く第一の結文に云く「若し智慧有つて信心有ること無き是の人は則ち能く邪見を増長す」文。

by johsei1129 | 2015-08-11 23:17 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
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