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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 08月 11日

伊豆流罪という法難に揺れる弟子信徒を諭すために著した書【顕謗法抄】一

【顕謗法抄】
■出筆時期:弘長二年(西暦1262年) 四十一歳御作。
■出筆場所:伊豆・伊東 伊東八郎左衛門尉の屋敷にて。
■出筆の経緯:本抄は大聖人が伊豆流罪中に、弟子・信徒一同に向けて著された書と思われます。
 恐らく大聖人の意図は、二年前の文応元年七月十六日、立正安国論で国家諫暁したことにより「伊豆流罪」の法難を受けたことで、弟子信徒に法華経信仰に対し動揺が生じたことをみて、法華経を捨てることは則ち無間地獄に落ちることだと諌めるために本書を認めたものと推知されます。
大聖人は本書冒頭で「第一に八大地獄の因果を明し、第二に無間地獄の因果の軽重を明し、第三に問答料簡を明し、第四に行者弘経の用心を明す」とことわり、四段に分けて詳細にわかりやすく論じられておられます。
■ご真筆:身延久遠寺に存在したが明治八年の大火で焼失。

[顕謗法抄 本文] その一

本朝沙門 日 蓮 撰

第一に八大地獄の因果を明し、第二に無間地獄の因果の軽重を明し、第三に問答料簡を明し、第四に行者弘経の用心を明す。
第一に八大地獄の因果を明さば、
第一に等活地獄とは此の閻浮提の地の下・一千由旬にあり此の地獄は縦広斉等にして一万由旬なり、此の中の罪人は・たがいに害心をいだく若たまたま相見れば犬と猿とのあえるがごとし、各鉄の爪をもて互につかみさく血肉既に尽きぬれば唯骨のみあり、或は獄卒手に鉄杖を取つて頭より足にいたるまで皆打くだく身体くだけて沙のごとし、或は利刀をもつて分分に肉をさく然れども又よみがへり・よみがへりするなり・此の地獄の寿命は人間の昼夜五十年をもつて第一・四王天の一日一夜として四王天の天人の寿命五百歳なり、四王天の五百歳を此れ等活地獄の一日一夜として其の寿命五百歳なり、此の地獄の業因をいはば・ものの命をたつもの此の地獄に堕つ螻蟻蚊もう等の小虫を殺せる者も懺悔なければ必ず此の地獄に堕つべし、譬へばはりなれども水の上にをけば沈まざることなきが如し、又懺悔すれども懺悔の後に重ねて此の罪を作れば後の懺悔には此の罪きえがたし、譬へばぬすみをして獄に入りぬるものの・しばらく経て後に御免を蒙りて獄を出ずれども又重ねて盗をして獄に入りぬれば出ゆるされがたきが如し、されば当世の日本国の人は上一人より下万民に至まで此の地獄をまぬがるる人は一人もありがたかるべし、何に持戒のをぼへを・とれる持律の僧たりとも蟻虱なんどを殺さず蚊〓をあやまたざるべきか、況や其外山野の鳥鹿・江海の魚鱗を日日に殺すものをや、何に況や牛馬人等を殺す者をや。

第二に黒繩地獄とは等活地獄の下にあり縦広は等活地獄の如し、獄卒・罪人をとらえて熱鉄の地にふせて熱鉄の繩をもつて身にすみうつて熱鉄の斧をもつて繩に随つてきり・さきけづる又鋸を以てひく・又左右に大なる鉄の山あり山の上に鉄の幢を立て鉄の繩をはり罪人に鉄の山をををせて繩の上よりわたす繩より落ちてくだけ或は鉄のかなえに堕し入れてにらる此の苦は上の等活地獄の苦よりも十倍なり、人間の一百歳は第二のとう利天の一日一夜なり其の寿一千歳なり此の天の寿一千歳を一日一夜として此の第二の地獄の寿命一千歳なり、殺生の上に偸盗とて・ぬすみを・かさねたるもの此の地獄にをつ、当世の偸盗のもの・ものをぬすむ上・物の主を殺すもの此の地獄に堕つべし。

第三に衆合地獄とは黒繩地獄の下にあり縦広は上の如し多くの鉄の山二つづつに相向へり、牛頭・馬頭等の獄卒・手に棒を取つて罪人を駈りて山の間に入らしむ、此の時・両の山迫り来て合せ押す身体くだけて血流れて地にみつ、又種種の苦あり、人間の二百歳を第三の夜摩天の一日一夜として此の天の寿二千歳なり此の天の寿を一日一夜として此の地獄の寿命二千歳なり、殺生・偸盗の罪の上に邪婬とて他人のつまを犯す者此の地獄の中に堕つべし、而るに当世の僧・尼・士・女・多分は此の罪を犯す殊に僧にこの罪多し、士女は各各互にまほり又人目をつつまざる故に此の罪ををかさず僧は一人ある故に婬欲とぼしきところに若し有身ば父ただされ・あらはれぬべきゆへに独ある女人を・をかさず、もしや・かくるると他人の妻をうかがひ・ふかく・かくれんと・をもうなり、当世のほかたうとげなる僧の中にことに此の罪又多くあるらんと・をぼゆ、されば多分は当世たうとげなる僧・此の地獄に堕つべし。

第四に叫喚地獄とは衆合の下にあり縦広前に同じ獄卒悪声出して弓箭をもつて罪人をいる、又鉄の棒を以て頭を打つて熱鉄の地をはしらしむ、或は熱鉄のいりだなにうちかへし・うちかへし此の罪人をあぶる、或は口を開て・わける銅のゆを入るれば五臓やけて下より直に出ず、寿命をいはば人間の四百歳を第四の都率天の一日一夜とす、又都率天の四千歳なり都率天の四千歳の寿を一日一夜として此の地獄の寿命四千歳なり、此の地獄の業因をいはば殺生・偸盗・邪婬の上に飲酒とて酒のむもの此の地獄に堕つべし、当世の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆の大酒なる者・此の地獄の苦免れがたきか、大論には酒に三十六の失をいだし梵網経には酒盃をすすめる者・五百生に手なき身と生るととかせ給う人師の釈にはみみずていの者と・なるとみへたり、況や酒をうりて人にあたえたる者をや・何に況や酒に水を入れてうるものをや・当世の在家の人人この地獄の苦まぬがれがたし。

第五に大叫喚地獄とは叫喚の下にあり縦広前に同し、其の苦の相は上の四の地獄の諸の苦に十倍して重くこれをうく、寿命の長短を云わば人間の八百歳は第五の化楽天の一日一夜なり此の天の寿八千歳なり此の天の八千歳を一日一夜として此の地獄の寿命八千歳なり、殺生・偸盗・邪婬・飲酒の重罪の上に妄語とてそらごとせる者・此の地獄に堕つべし、当世の諸人は設い賢人・上人なんどいはるる人人も妄語せざる時はありとも妄語を・せざる日はあるべからず、設い日は・ありとも月は・あるべからず設い月は・ありとも年は・あるべからず設い年は・ありとも一期生・妄語せざる者はあるべからず、若ししからば当世の諸人・一人もこの地獄を・まぬがれがたきか。

第六に焦熱地獄とは大叫喚地獄の下にあり縦広前にをなじ、此の地獄に種種の苦あり若し此の地獄の豆計りの火を閻浮提にをけらんに一時にやけ尽きなん況や罪人の身の〓なること・わたのごとくなるをや、此の地獄の人は前の五つの地獄の火を見る事雪の如し、譬へば人間の火の薪の火よりも鉄銅の火の熱きが如し、寿命の長短は人間の千六百歳を第六の他化天の一日一夜として此の天の寿千六百歳なり此の天の千六百歳を一日一夜として此の地獄の寿命一千六百歳なり、業因を云わば殺生・偸盗・邪婬・飲酒・妄語の上・邪見とて因果なしという者・此の中に堕つべし、邪見とは有人の云く人飢えて死ぬれば天に生るべし等と云云、総じて因果をしらぬ者を邪見と申すなり世間の法には慈悲なき者を邪見の者という、当世の人人此の地獄を免れがたきか。

第七に大焦熱地獄とは焦熱の下にあり縦広前の如し、前の六つの地獄の一切の諸苦に十倍して重く受るなり、其の寿命は半中劫なり、業因を云わば殺生・偸盗・邪婬・飲酒・妄語・邪見の上に浄戒の比丘尼を・をかせるもの此の中に堕つべし、又比丘酒をもつて不邪婬戒を持てる婦女をたぼらかし或は財物をあたへて犯せるもの此の中に堕つべし、当世の僧の中に多く此の重罪あるなり、大悲経の文に末代には士女は多くは天に生じ僧尼は多くは地獄に堕つべしと・とかれたるは・これていの事か、心あらん人人ははづべし・はづべし。
総じて上の七大地獄の業因は諸経論をもつて勘え当世日本国の四衆にあて見るに此の七大地獄をはなるべき人を見ず又きかず、涅槃経に云く末代に入りて人間に生ぜん者は爪上の土の如し三悪道に堕つるものは十方世界の微塵の如しと説かれたり、若爾らば我等が父母・兄弟等の死ぬる人は皆上の七大地獄にこそ堕ち給いては候らめ・あさましともいうばかりなし、竜と蛇と鬼神と仏・菩薩・聖人をば未だ見ずただ・をとにのみ・これをきく当世に上の七大地獄の業を造らざるものをば未だ見ず又をとにも・きかず、而るに我が身よりはじめて一切衆生・七大地獄に堕つべしとをもえる者・一人もなし、設い言には堕つべきよしを・さえづれども心には堕つべしとも・をもわず、又僧・尼・士・女・地獄の業をば犯すとは・をもえども或は地蔵菩薩等の菩薩を信じ或は阿弥陀仏等の仏を恃み或は種種の善根を修したる者もあり、皆をもはく我はかかる善根をもてれば・なんど・うちをもひて地獄をもをぢず、或は宗宗を習へる人人は各各の智分を・たのみて又地獄の因ををぢず、而るに仏菩薩を信じたるも愛子・夫婦なんどをあいし父母主君なんどを・うやまうには雲泥なり、仏・菩薩等をばかろくをもえるなり、されば当世の人人の仏・菩薩を恃ぬれば宗宗を学したれば地獄の苦はまぬがれなん・なんど・をもえるは僻案にや心あらん人人はよくよく・はかりをもうべきか。

第八に大阿鼻地獄とは又は無間地獄と申すなり欲界の最底大焦熱地獄の下にあり此の地獄は縦広八万由旬なり、外に七重の鉄の城あり地獄の極苦は且く之を略す前の七大地獄並びに別処の一切の諸苦を以て一分として大阿鼻地獄の苦一千倍勝れたり、此の地獄の罪人は大焦熱地獄の罪人を見る事他化自在天の楽みの如し、此の地獄の香のくささを人かくならば四天下・欲界・六天の天人・皆ししなん、されども出山・没山と申す山・此の地獄の臭き気を・をさへて人間へ来らせざるなり、故に此の世界の者死せずと見へぬ、若し仏・此の地獄の苦を具に説かせ給はば人聴いて血をはいて死すべき故にくわしく仏説き給はずとみへたり、此の無間地獄の寿命の長短は一中劫なり一中劫と申すは此の人寿・無量歳なりしが百年に一寿を減じ又百年に一寿を減ずるほどに人寿十歳の時に減ずるを一減と申す、又十歳より百年に一寿を増し又百年に一寿を増する程に八万歳に増するを一増と申す、此の一増・一減の程を小劫として二十の増減を一中劫とは申すなり、此の地獄に堕ちたる者・これ程久しく無間地獄に住して大苦をうくるなり、業因を云わば五逆罪を造る人・此の地獄に堕つべし、五逆罪と申すは一に殺父・二に殺母・三に殺阿羅漢・四に出仏身血・五に破和合僧なり、今の世には仏ましまさず・しかれば出仏身血あるべからず、和合僧なければ破和合僧なし、阿羅漢なければ殺阿羅漢これなし、但殺父・殺母の罪のみありぬべし、しかれども王法のいましめきびしく・あるゆへに此の罪をかしがたし、若爾らば当世には阿鼻地獄に堕つべき人すくなし但し相似の五逆罪これあり木画の仏像・堂塔等をやきかの仏像等の寄進の所をうばいとり率兜婆等をきりやき智 人を殺しなんどするもの多し、此等は大阿鼻地獄の十六の別処に堕つべし、されば当世の衆生十六の別処に堕つるもの多きか又謗法の者この地獄に堕つべし。

第二に無間地獄の因果の軽重を明さば、問うて云く五逆罪より外の罪によりて無間地獄に堕んことあるべしや、答えて云く誹謗正法の重罪なり、問うて云く証文如何、答えて云く法華経第二に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」等と云云、此の文に謗法は阿鼻地獄の業と見へたり、問うて云く五逆と謗法と罪の軽重如何、答て云く大品経に云く「舎利弗仏に白して言く世尊五逆罪と破法罪と相似するや、仏舎利弗に告わく相似と言うべからず所以は何ん若し般若波羅蜜を破れば則ち十方諸仏の一切智一切種智を破るに為んぬ、仏宝を破るが故に法宝を破るが故に僧宝を破るが故に三宝を破るが故に則ち世間の正見を破す世間の正見を破れば○則ち無量無辺阿僧祇の罪を得るなり無量無辺阿僧祇の罪を得已つて則ち無量無辺阿僧祇の憂苦を受るなり」文又云く「破法の業因縁集るが故に無量百千万億歳大地獄の中に堕つ、此の破法人の輩一大地獄より一大地獄に至る若し劫火起る時は他方の大地獄の中に至る、是くの如く十方に〓くして彼の間に劫火起る故に彼より死し破法の業因縁未だ尽きざるが故に是の間の大地獄の中に還来す」等と云云、法華経第七に云く「四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者あり悪口罵詈して言く是れ無智の比丘と、或は杖木瓦石を以て之れを打擲す乃至千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」等と云云、此の経文の心は法華経の行者を悪口し及び杖を以て打擲せるもの其の後に懺悔せりといえども罪いまだ滅せずして千劫・阿鼻地獄に堕ちたりと見えぬ、懺悔せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり況や懺悔せざらん謗法にをいては阿鼻地獄を出ずる期かたかるべし、故に法華経第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん」等と云云。

第三に問答料簡を明さば問うて云く五逆罪と謗法罪との軽重はしんぬ謗法の相貌如何、答えて云く天台智者大師の梵網経の疏に云く謗とは背なり等と云云、法に背くが謗法にてはあるか天親の仏性論に云く若し憎は背くなり等と云云、この文の心は正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり、問うて云く委細に相貌をしらんとをもうあらあら・しめすべし、答えて云く涅槃経第五に云く「若し人有りて如来は無常なりと言わん云何ぞ是の人舌堕落せざらん」等云云、此の文の心は仏を無常といはん人は舌堕落すべしと云云、問うて云く諸の小乗経に仏を無常と説かるる上又所化の衆皆無常と談じき若爾らば仏・並に所化の衆の舌堕落すべしや、答えて云く小乗経の仏を小乗経の人が無常ととき談ずるは舌ただれざるか、大乗経に向つて仏を無常と談じ小乗経に対して大乗経を破するが舌は堕落するか、此れをもつて・をもうにをのれが依経には随えども依経より・すぐれたる経を破するは破法となるか、若爾らば設い観経・華厳経等の権大乗経の人人・所依の経の文の如く修行すともかの経にすぐれたる経経に随はず又すぐれざる由を談ぜば謗法となるべきか、されば観経等の経の如く法をえたりとも観経等を破せる経の出来したらん時・其の経に随わずば破法となるべきか、小乗経を以て・なぞらえて心うべし。
問うて云く雙観経等に乃至十念・即得往生なんと・とかれて候が彼のけうの教の如く十念申して往生すべきを後の経を以て申しやぶらば謗法にては候まじきか、答えて云く仏・観経等の四十余年の経経を束て未顕真実と説かせ給いぬれば此の経文に随つて乃至十念・即得往生等は実には往生しがたしと申す此の経文なくば謗法となるべし、問うて云く或人云く無量義経の四十余年未顕真実の文はあえて四十余年の一切の経経・並に文文・句句を皆未顕真実と説き給にはあらず、但四十余年の経経に処処に決定性の二乗を永不成仏ときらはせ給い釈迦如来を始成正覚と説き給しを其の言ばかりをさして未顕真実とは申すなりあえて余事にはあらず、而るをみだりに四十余年の文を見て観経等の凡夫のために九品往生なんぞを説きたるを妄りに往生はなき事なりなんど押し申すあに・をそろしき謗法の者にあらずや・なんど申すはいかに、答えて云く此の料簡は東土の得一が料簡に似たり、得一が云く未顕真実とは決定性の二乗を仏・爾前の経にして永不成仏ととかれしを未顕真実とは嫌はるるなり前四味の一切には亘るべからずと申しき、伝教大師は前四味に亘りて文文句句に未顕真実と立て給いき、さればこの料簡は古の謗法者の料簡に似たり、但し且く汝等が料簡に随て尋ね明らめん、問う法華已前に二乗作仏を嫌いけるを今未顕真実というとならば先ず決定性の二乗を仏の永不成仏と説かせ給し処処の経文ばかりは未顕真実の仏の妄語なりと承伏せさせ給うか、さては仏の妄語は勿論なり若し爾らば妄語の人の申すことは有無共に用いぬ事にてあるぞかし、決定性の二乗・永不成仏の語ばかり妄語となり若し余の菩薩・凡夫の往生成仏等は実語となるべきならば信用しがたき事なり、譬へば東方を西方と妄語し申さん人は西方を東方と申すべし二乗を永不成仏と説く仏は余の菩薩の成仏をゆるすも又妄語にあらずや、五乗は但一仏性なり二乗の仏性をかくし菩薩・凡夫の仏性をあらはすは返つて菩薩・凡夫の仏性をかくすなり。
有人云く四十余年未顕真実とは成仏の道ばかり未顕真実なり往生等は未顕真実にはあらず、又難じて云く四十余年が間の説の成仏を未顕真実と承伏せさせ給はば雙観経に云う不取正覚成仏已来凡歴十劫等の文は未顕真実と承伏せさせ給うか、若し爾らば四十余年の経経にして法蔵比丘の阿弥陀仏になり給はずば法蔵比丘の成仏すでに妄語なり、若し成仏妄語ならば何の仏か行者を迎え給うべきや、又かれ此の難を通して云ん四十余年が間は成仏はなし阿弥陀仏は今の成仏にはあらず過去の成仏なり等と云云、今難じて云く今日の四十余年の経経にして実の凡夫の成仏を許されずば過去遠遠劫の四十余年の権経にても成仏叶いがたきか、三世の諸仏の説法の儀式皆同きが故なり、或は云く不得疾成・無上菩提ととかるれば四十余年の経経にては疾くこそ仏にはならねども遅く劫を経てはなるか、難じて云く次下の大荘厳菩薩等の領解に云く「不可思議無量無辺阿僧祇劫を過るとも終に無上菩提を成ずることを得ず」等と云云、此の文の如くならば劫を経ても爾前の経計りにては成仏はかたきか。
有は云う華厳宗の料簡に云く四十余年の内には華厳経計りは入るべからず、華厳経にすでに往生成仏此ありなんぞ華厳経を行じて往生成仏をとげざらん、答えて云く四十余年の内に華厳経入るべからずとは華厳宗の人師の義なり、無量義経には正く四十余年の内に華厳海空と名目を呼び出して四十余年の内にかずへ入れられたり、人師を本とせば仏に背くになりぬ。

問うて云く法華経をはなれて往生成仏をとげずば仏世に出させ給ては但法華経計をこそ説き給はめ、なんぞ・わづらはしく四十余年の経経を説かせ給うや、答えて云く此の難は仏自ら答え給えり「若し但仏乗を讃せば衆生苦に没在して法を破して信ぜざるが故に三悪道に墜ちなん」等の経文これなり、問うて云くいかなれば爾前の経をば衆生謗せざるや、答えて云く爾前の経経は万差なれども束ねて此れを論ずれば随他意と申して衆生の心をとかれてはんべり故に違する事なし、譬へば水に石を・なぐるに・あらそうこと・なきがごとし・又しなじなの説教はんべれども九界の衆生の心を出でず衆生の心は皆善につけ悪につけて迷を本とするゆへに仏にはならざるか、問うて云く衆生謗ずべきゆへに仏・最初に法華経をとき給はずして四十余年の後に法華経をとき給はば汝なんぞ当世に権経をばとかずして左右なく法華経をといて人に謗をなさせて悪道に堕すや、答えて云く仏在世には仏・菩提樹の下に坐し給いて機をかがみ給うに当時・法華経を説くならば衆生・謗じて悪道に堕ちぬべし、四十余年すぎて後にとかば謗せずして初住不退・乃至妙覚にのぼりぬべしと知見しましましき、末代濁世には当機にして初住の位に入るべき人は万に一人もありがたかるべし、又能化の人も仏にあらざれば機をかがみん事もこれかたし、されば逆縁・順縁のために先ず法華経を説くべしと仏ゆるし給へり、但し又滅後なりとも当機衆になりぬべきものには先ず権教をとく事もあるべし、又悲を先とする人は先ず権経をとく釈迦仏のごとし慈を先とする人は先ず実経をとくべし不軽菩薩のごとし、又末代の凡夫はなにとなくとも悪道を免れんことはかたかるべし同じく悪道に堕るならば法華経を謗ぜさせて堕すならば世間の罪をもて堕ちたるには・にるべからず、聞法生謗・堕於地獄・勝於供養・恒沙仏者等の文のごとし、此の文の心は法華経をはうじて地獄に堕ちたるは釈迦仏・阿弥陀仏等の恒河沙の仏を供養し帰依渇仰する功徳には百千万倍すぎたりととかれたり。

問うて云く上の義のごとくならば華厳・法相・三論・真言・浄土等の祖師はみな謗法に堕すべきか、華厳宗には華厳経は法華経には雲泥超過せり法相三論もてかくのごとし、真言宗には日本国に二の流あり東寺の真言は法華経は華厳経にをとれり何に況や大日経にをいてをや、天台の真言には大日経と法華経とは理は斉等なり印真言等は超過せりと云云、此等は皆悪道に堕つべしや、答えて云く宗をたて経経の勝劣を判ずるに二の義あり、一は似破二は能破なり一に似破とは他の義は吉とをもえども此をはすかの正義を分明にあらはさんがためか、二に能破とは実に他人の義の勝れたるをば弁えずして迷うて我が義すぐれたりと・をもひて心中よりこれを破するをば能破という・されば彼の宗宗の祖師に似破・能破の二の義あるべし、心中には法華経は諸経に勝れたりと思えども且く違して法華経の義を顕さんと・をもひて・これをはする事あり、提婆達多・阿闍世王・諸の外道が仏のかたきとなりて仏徳を顕し後には仏に帰せしがごとし、又実の凡夫が仏のかたきとなりて悪道に堕つる事これ多し、されば諸宗の祖師の中に回心の筆をかかずば謗法の者・悪道に堕ちたりとしるべし、三論の嘉祥・華厳の澄観・法相の慈恩・東寺の弘法等は回心の筆これあるか、よくよく尋ねならうべし。

問うて云くまことに今度生死をはなれんと・をもはんに・なにものをか・いとひなにものをか願うべきや、答う諸の経文には女人等をいとうべしと・みへたれども雙林・最後の涅槃経に云く「菩薩是の身に無量の過患具足充満すと見ると雖も涅槃経を受持せんと欲するを為ての故に猶好く将護して乏少ならしめず、菩薩悪象等に於ては心に恐怖すること無れ悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ、何を以ての故に是れ悪象等は唯能く身を壊りて心を壊る事能わず、悪知識は二倶に壊るが故に、悪象の若きは唯一身を壊る悪知識は無量の身無量の善心を壊る、悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては三趣に至る」等と云云此の経文の心は後世を願はん人は一切の悪縁を恐るべし一切の悪縁よりは悪知識を・をそるべしとみえたり。
されば大荘厳仏の末の四の比丘は自ら悪法を行じて十方の大阿鼻地獄を経るのみならず、六百億人の檀那等をも十方の地獄に堕しぬ、鴦堀摩羅は摩尼跋陀が教に随つて九百九十九人の指をきり結句・母・並に仏をがいせんとぎす、善星比丘は仏の御子・十二部経を受持し四禅定をえ欲界の結を断じたりしかども苦得外道の法を習うて生身に阿鼻地獄に堕ちぬ、提婆が六万蔵・八万蔵を暗じたりしかども外道の五法を行じて現に無間に堕ちにき、阿闍世王の父を殺し母を害せんと擬せし大象を放つて仏をうしない・たてまつらんとせしも悪師提婆が教なり、倶伽利比丘が舎利弗・目連をそしりて生身に阿鼻に堕せし、大族王の五竺の仏法僧をほろぼせし、大族王の舎弟は加〓弥羅国の王となりて健駄羅国の率都婆・寺塔・一千六百所をうしなひし、金耳国王の仏法をほろぼせし、波瑠璃王の九千九十万人の人をころして血ながれて池をなせし、設賞迦王の仏法を滅し菩提樹をきり根をほりし、後周の宇文王の四千六百余所の寺院を失ひ二十六万六百余の僧尼を還俗せしめし、此等は皆悪師を信じ悪鬼其の身に入りし故なり。
問うて云く天竺・震旦は外道が仏法をほろぼし小乗が大乗をやぶるとみえたり、此の日本国もしかるべきか、答えて云く月支・尸那には外道あり小乗あり此の日本国には外道なし小乗の者なし、紀典博士等これあれども仏法の敵となるものこれなし、小乗の三宗これあれども彼宗を用て生死をはなれんとをもはず但大乗を心うる才覚とをもえり、但し此の国には大乗の五宗のみこれあり人人皆をもえらく彼の宗宗にして生死をはなるべしとをもう故にあらそいも多くいできたり、又檀那の帰依も多くあるゆへに利養の心もふかし。

[顕謗法抄 本文] その二に続く

by johsei1129 | 2015-08-11 22:47 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)
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