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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 26日

人生の目的は法華経如来寿量品に説かれている「衆生所遊楽」であると説いた【四条金吾殿御返事】

【四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)】
■出筆時期:建治二年(西暦1276年)六月二十七日 五十五歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本書はこの時期主君・江馬氏に疎まれ、同僚からも嫌われ不遇の状況下にあった四条金吾を大聖人が励ますべく送られたご消息文です。
本書は比較的短いお手紙ですが、この中で大聖人は人生の目的は、法華経の要である如来寿量品・第十六で説かれている「衆生所遊楽」にあり、そのためには「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり」と断じられておられます。

つまりご本尊に向かい南妙法蓮華経と唱え、自らの仏界=慈悲心を開き、貪・瞋・癡の煩悩におかされることない人生を歩むことで「衆生所遊楽」が実現することを意味しておられます。さらに文末では「世間の留難来るともとりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず。ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ」と記し、潔い信仰をするよう強く励まされておられます。
■ご真筆: 現存していない。

[四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書) 本文]

 一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり。経に云はく「衆生所遊楽」云云。

 此の文あに自受法楽にあらずや。衆生のうちに貴殿もれ給ふべきや。所とは一閻浮提なり、日本国は閻浮提の内なり。

 遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千・自受用身(じじゅ・ゆうしん)の仏にあらずや。法華経を持(たも)ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏・後生善処とは是なり。

 たゞ世間の留難来たるとも、とりあへ給ふべからず。賢人聖人も此の事はのがれず。たゞ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ。

 苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて南無妙法蓮華経とうち・とな(唱)へ・ゐ(居)させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。
 いよいよ強盛の信力をいた(致)し給へ。恐々謹言。

 建治二年丙子(ひのえね)六月二十七日  日蓮 花押

 四条金吾殿御返事


【妙法蓮華経 如来寿量品第十六】
 
 衆生見劫尽 大火所焼時
 我此土安穏 天人常充満 
 園林諸堂閣 種種宝荘厳
 宝樹多花果 衆生所遊楽 
 諸天撃天鼓 常作衆伎楽
 雨曼陀羅華 散仏及大衆 
 我浄土不毀 而衆見焼尽
 憂怖諸苦悩 如是悉充満 
 是諸罪衆生 以悪業因縁
 過阿僧祇劫 不聞三宝名 
 諸有修功徳 柔和質直者
 則皆見我身 在此而説法 
 
[和訳]
 
 衆生が劫が尽きて、大火に焼かるると見る時も、
 我が仏国土は、安穏で天人が常に満ちている。
 園林及び諸の堂閣は種種の宝で荘厳され
 宝樹には花果多くして、衆生の遊楽する所なり。
 諸天は天の鼓を撃ち、常にもろもろの伎楽を作し
 曼陀羅華(注1)をふらし 仏及大衆に散らす。
 我が浄土は毀されずとも、而して衆生は焼尽と見て
 諸々の苦悩、憂い怖れが、悉くかくの如く充満していると見る。 
 これら諸の罪ある衆生は、悪業の因縁を以ての故に
 阿僧祇劫(注2)を過ぎても、三宝(注3)の名を聞くことはない。 
 諸の功徳を修め、柔和にして質直で有る者は、
 則ち皆、我(仏)身が、而して此処にありて法を説くと見るのだ。
 
注1 梵語māndāravaの音訳。仏が説法する時に天から降る美しい花。
注2 梵語の音訳で、数えることができない程長い宇宙的な年月。
    江戸時代の数学書『塵劫記』では、一阿僧祇は10の56乗と記されている。
注3 仏・法・僧(仏と、仏が覚知した法と、それを修行し衆生に説く僧の事)




by johsei1129 | 2019-10-26 16:29 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)


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