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日蓮大聖人『御書』解説

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2019年 10月 26日

法報応三身如来は法華経寿量品より外の一切経には釈尊秘めて説き給はずと断じた【四条金吾釈迦仏供養事】

【四条金吾釈迦仏供養事】
■出筆時期:建治二年(西暦1276年)七月十五日 五十五歳御作。
■出筆場所:身延山中 草庵にて。
■出筆の経緯:本抄はこの頃四条金吾が父母の追善供養で釈迦仏の木像を造立、大聖人にその開眼を願い出た事への返書となっております。 
大聖人は釈迦仏の木像の力用について「草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起る。木と申すは木像・是より出来す。此の画木に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入るる事は法華経の力なり」と示し、釈迦の仏像といえど法華経でなければ魂魄を入れることはできないと諭されております。

大聖人が信徒による釈迦仏の造立を容認されたのは、当時の鎌倉仏教が、阿弥陀如来、大日如来等の末法では功力を失った本尊雑乱の状況を踏まえ、仏教の始祖である釈尊に立ち返る事を重視したためと思われます。その上で、釈迦仏像開眼には、法報応の三身如来が必要で、この事は「法華経の寿量品より外の一切経には教主釈尊秘めて説き給はずとなり」と断じておられます。
■ご真筆: 神奈川県・妙本寺に第十八紙所蔵。その他全て身延久遠寺に存在したが明治の大火で焼失。
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真筆箇所本文:どうれひ・ならびに他人と我宅ならで夜中の御さかもり・あるべからず。主のめさん時は・ひるならばいそぎまいらせ給べし。夜ならば三度までは頓病の由申せ給て、三度にすぎば下人又他人をかたらひて、つじをみせなんどして御出仕あるべし。かうつゝませ給はんほどに、むこ人もよせなんどし候わば、人の心又さきにひきかへ候べし。かたきを打心とどまるべし。申せ給事は御あやまちありとも、左右なく御内を出させ給べからず。ましてなからんにはなにとも人申せ、くるしからず。をもひのまゝに入道にもなりてをはせば、さきさきならば]

[四条金吾釈迦仏供養事 本文]

 御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云。
 開眼の事・普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり」等云云。又云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり。諸仏・是に因つて五眼を具することを得たもう」云云。
 此の経の中に得具五眼とは、一には肉眼・二には天眼・三には慧眼・四には法眼・五には仏眼なり。此の五眼をば法華経を持つ者は自然に相具(あいぐ)し候。譬へば王位につく人は自然に国のしたがうがごとし、大海の主となる者の自然に魚を得るに似たり。華厳・阿含・方等・般若・大日経等には五眼の名はありといへども其の義なし。今の法華経には名もあり・義も備わりて候。設ひ名はなけれども必ず其の義あり。

 三身の事。普賢経に云く「仏・三種の身は方等より生ず。是の大法印は涅槃海を印す。此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は人天の福田にして応供(おうぐ)の中の最なり」云云。
 
 三身とは一には法身如来、二には報身如来、三には応身如来なり。此の三身如来をば一切の諸仏必ず・あひぐ(相具)す。譬へば月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身にたとう。一の月に三のことわりあり、一仏に三身の徳まします。
 この五眼・三身の法門は法華経より外には全く候はず。故に天台大師の云く「仏・三世に於て等しく三身有り。諸教の中に於て之を秘して伝えず」云云。此の釈の中に於諸教中とかかれて候は、華厳・方等・般若のみならず、法華経より外の一切経なり。秘之不伝とかかれて候は法華経の寿量品より外(ほか)の一切経には教主釈尊秘めて説き給はずとなり。

 されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。其の上・一念三千の法門と申すは三種の世間より・をこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二には五陰世間、三には国土世間なり。
 前の二(ふたつ)は且らく之を置く、第三の国土世間と申すは草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐ(絵具)は草木なり。画像これより起る。木と申すは木像、是より出来す。此の画木に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入るる事は法華経の力(ちから)なり、天台大師のさとりなり。此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ、画木にて申せば草木成仏と申すなり。止観の明静なる・前代いまだきかずと・かかれて候と無情仏性・惑耳驚心(わくにきょうしん)等とのべられて候は是なり。

 此の法門は前代になき上(うえ)・後代にも又あるべからず。設ひ出来せば此の法門を偸盗(ちゅうとう)せるなるべし。然るに天台以後二百余年の後、善無畏・金剛智・不空等、大日経に真言宗と申す宗をかまへて仏説の大日経等には・なかりしを、法華経・天台の釈を盗み入れて真言宗の肝心とし、しかも事を天竺によせて漢土・日本の末学を誑惑(おうわく)せしかば皆人・此の事を知らず、一同に信伏して今に五百余年なり。然る間・真言宗已前の木画の像は霊験・殊勝なり、真言已後の寺塔は利生うすし。事多き故に委しく注(しる)さず。

 此の仏こそ生身(しょうしん)の仏にておはしまし候へ。優填(うでん)大王の木像と影顕(ようけん)王の木像と一分もたがうべからず。梵・帝・日月・四天等、必定(ひつじょう)して影の身に随うが如く貴辺をば・まほらせ給うべし是一。
 御日記に云く、毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間、大日天子に仕えさせ給ふ事。大日天子と申すは宮殿七宝なり。其の大きさは八百十六里・五十一由旬なり。其の中に大日天子居し給ふ。勝・無勝と申して二人の后(きさき)あり。左右には七曜・九曜つらなり、前には摩利支天女まします。七宝の車を八匹の駿馬にかけて四天下を一日一夜にめぐり、四州の衆生の眼目と成り給う。他の仏・菩薩・天子等は利生のいみじくまします事・耳にこれを・きくとも愚眼に未だ見えず。是は疑うべきにあらず眼前の利生なり。教主釈尊にましまさずば争でか是くの如くあらたなる事候べき、一乗の妙経の力にあらずんば争でか眼前の奇異をば現ず可き、不思議に思ひ候。争でか此の天の御恩をば報ずべきと・もとめ候に、仏法以前の人人も心ある人は皆或は礼拝をまいらせ・或は供養を申し・皆しるしあり。又逆をなす人は皆ばつ(罰)あり。

 今内典を以てかんがへて候に・金光明経に云く「日天子及以(および)月天子、是の経を聞くが故に精気充実す」等云云。最勝王経に云く「此の経王の力に由つて流暉(るき)四天下を遶(めぐ)る」等云云。当に知るべし日月天の四天下をめぐり給うは仏法の力なり。彼の金光明経・最勝王経は法華経の方便なり。勝劣を論ずれば乳と醍醐と金と宝珠との如し。劣なる経を食(め)しましまして尚四天下をめぐり給う。何に況んや法華経の醍醐の甘味を甞(なめ)させ給はんをや。故に法華経の序品には普香天子とつらなりまします。法師品には阿耨多羅三藐三菩提と記せられさせ給う、火持如来是なり。其の上・慈父よりあひつたはりて二代我が身となりて・としひさし。争でかすてさせたまひ候べき。其の上日蓮も又此の天を恃(たの)みたてまつり、日本国にたてあひて数年なり。既に日蓮かちぬべき心地す。利生のあらたなる事・外にもとむべきにあらず。是より外に御日記たうとさ申す計りなけれども紙上に尽し難し。
 なによりも日蓮が心にたつとき事候。父母御孝養の事・度度の御文に候上(うえ)に、今日の御文・なんだ(涙)更にとどまらず。我が父母・地獄にや・おはすらんとなげかせ給う事のあわれさよ。仏の弟子の御中に目犍尊者と申しけるは、父をば・きつせん(吉占)師子と申し、母をば青提女(しょうだいにょ)と申しけるが、餓鬼道におちさせ給いけるを、凡夫にてをはしける時はしらせ給わざりければ・なげきもなかりける程に、仏の御弟子とならせ給いて後・阿羅漢となりて天眼をもつて御らんありければ餓鬼道におはしけり。是を御らんありて飲食をまいらせしかば、炎となりて・いよいよ苦をましさせ・まいらせ給いしかば、いそぎ・はしりかへり・仏に此の由を申させ給いしぞかし。爾の時の御心を・おもひやらせ給へ。
 今貴辺は凡夫なり。肉眼なれば御らんなけれども、もしも・さもあらばと・なげかせ給う。こ(是)は孝養の一分なり。梵天・帝釈・日月・四天も定めてあはれとおぼさんか。華厳経に云く「恩を知らざる者は多く横死に遭う」等云云。観仏相海経に云く「是れ阿鼻(あび)の因なり」等云云。今既に孝養の志あつし、定めて天も納受あらんか是二。

 御消息の中に申しあはさせ給う事・くはしく事の心を案ずるに・あるべからぬ事なり。日蓮をば日本国の人あだむ。是はひとへに・さがみどの(相模殿)のあだませ給うにて候。ゆへなき御政りごとなれども、いまだ此の事にあはざりし時より・かかる事あるべしと知りしかば、今更いかなる事ありとも人をあだむ心あるべからずと・をもひ候へば、此の心のいのりとなりて候やらん、そこばくのなん(難)をのがれて候。いまは事なきやうになりて候。
 日蓮がさどの国にても・かつ(飢)えし(死)なず・又これまで山中にして法華経をよみまいらせ候は・たれか・たすけん、ひとへに・との(殿)の御たすけなり。又殿の御たすけは・なにゆへぞと・たづぬれば入道殿の御故ぞかし。あら(顕)わには・しろしめさねども、定めて御いのりともなるらん。かうあるならば・かへりて又とのの御いのりとなるべし。父母の孝養も又彼の人の御恩ぞかし。かかる人の御内を如何なる事有ればとて・すてさせ給うべきや。かれより度度すてられんずらんは・いかがすべき。又いかなる命(いのち)になる事なりとも・すてまいらせ給うべからず。
 上にひきぬる経文に不知恩の者は横死有りと見えぬ。孝養の者は又横死有る可からず。鵜(う)と申す鳥の食する鉄(くろがね)はとくれども・腹の中の子はとけず、石を食する魚あり又腹の中の子はしなず。栴檀の木は火に焼けず、浄居の火は水に消へず、仏の御身をば三十二人の力士・火をつけしかども・やけず、仏の御身よりいでし火は三界の竜神・雨をふらして消(けし)しかども・きえず。殿は日蓮が功徳をたすけたる人なり、悪人にやぶらるる事かたし。もしやの事あらば先生(せんしょう)に法華経の行者を・あだみたりけるが・今生にむくふなるべし。此の事は如何なる山中・海上にても・のがれがたし。不軽菩薩の杖木の責めも、目連尊者の竹杖に殺されしも是なり。なにしにか歎かせ給うべき。

 但し横難をば忍(しのぶ)には・しかじと見へて候。此の文・御覧ありて後は・けつして百日が間・をぼろげならでは・どうれい(同隷)並びに他人と我が宅ならで・夜中の御さかもりあるべからず。主の召さん時は昼ならば・いそぎ参らせ給うべし。夜ならば三度までは頓病の由を申させ給いて三度にすぎば、下人又他人をかたらひて・つじを見せなんどして御出仕あるべし。かうつつ(慎)しませ給はんほどに、むこ(蒙古)の人もよせなんどし候はば人の心又さきにひきかへ候べし、かたきをうつ心とどまるべし。申させ給う事は御あやまち・ありとも、左右なく御内を出でさせ給うべからず。まして・なからんには・なにとも人申せ・くるしかるべからず。おもひのままに入道にもなりておはせば、さきさきならばくるしからず。又身にも心にもあはぬ事あまた出来せば・なかなか悪縁・度度・来たるべし。このごろは女は尼になりて人をはかり、男は入道になりて大悪をつくるなり、ゆめゆめ・あるべからぬ事なり。身に病なくとも・やいと(灸)を一二箇所やいて病の由あるべし。さわぐ事ありとも・しばらく人をもつて見せ・をほせ・させ給へ。
 事事くはしくは・かきつくしがたし、此の故に法門もかき候はず。御経の事はすず(涼)しくなり候いて・か(書)いてまいらせ候はん。恐恐謹言。

 建治二年丙子七月十五日     日 蓮 花 押

 四条金吾殿御返事




by johsei1129 | 2019-10-26 16:49 | 四条金吾・日眼女 | Trackback | Comments(0)


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