2015年 07月 21日
[聖愚問答抄 下 本文]その二 爰に愚人云く、今聖人の教誡を聴聞するに日来(ひごろ)の矇昧(もうまい)忽ちに開けぬ。天真発明とも云つべし。理非顕然なれば誰か信仰せざらんや。但し世上を見るに上一人より下万民に至るまで念仏・真言・禅・律を深く信受し御座(おわ)す。さる前には国土に生を受けながら争か王命を背かんや。其の上我が親と云い・祖と云い、旁(かたがた)念仏等の法理を信じて他界の雲に交り畢んぬ。又日本には上下の人数・幾(いくばく)か有る。然りと雖も権教権宗の者は多く、此の法門を信ずる人は未だ其の名をも聞かず。仍て善処・悪処をいはず邪法・正法を簡ばず、内典・五千七千の多きも外典・三千余巻の広きも、只主君の命に随ひ父母の義に叶うが肝心なり。されば教主釈尊は天竺にして孝養報恩の理を説き、孔子は大唐にして忠功孝高の道を示す。師の恩を報ずる人は肉をさき身をなぐ、主の恩をしる人は弘演は腹をさき・予譲は剣をのむ。親の恩を思いし人は丁蘭(ていらん)は木をきざみ、伯瑜(はくゆ)は杖になく。儒・外・内・道は異なりといへども報恩謝徳の教は替る事なし。然れば主師親のいまだ信ぜざる法理を我始めて信ぜん事、既に違背の過に沈みなん。法門の道理は経文・明白なれば疑網都て尽きぬ、後生を願はずば来世・苦に沈むべし。進退・惟谷(これ・きわま)れり、我如何がせんや。 聖人云く、汝此の理を知りながら猶是の語をなす。理の通ぜざるか意の及ばざるか。我釈尊の遺法をまなび・仏法に肩を入れしより已来(このかた)、知恩をもて最とし・報恩をもて前とす。世に四恩あり。之を知るを人倫となづけ知らざるを畜生とす。予・父母の後世を助け・国家の恩徳を報ぜんと思うが故に身命を捨つる事・敢て他事にあらず。唯知恩を旨とする計りなり。 先ず汝・目をふさぎ心を静めて道理を思へ。我は善道を知りながら親と主との悪道にかからんを諌めざらんや。又愚心の狂ひ酔つて毒を服せんを、我知りながら是をいましめざらんや。其の如く法門の道理を存じて火・血・刀の苦を知りながら・争でか恩を蒙る人の悪道におちん事を歎かざらんや。身をもなげ・命をも捨つべし。諌めても・あきたらず。歎きても限りなし。今世に眼を合する苦しみ・猶是を悲しむ。況んや悠悠たる冥途の悲しみ・豈に痛まざらんや。恐れても恐るべきは後世、慎みても慎むべきは来世なり。而るを是非を論ぜず・親の命に随ひ、邪正を簡ばず・主の仰せに順はんと云う事、愚癡の前には忠孝に似たれども、賢人の意には不忠不孝・是に過ぐべからず。 されば教主釈尊は転輪聖王の末・師子頬王の孫・浄飯王の嫡子として五天竺の大王たるべしといへども、生死無常の理(ことわり)をさとり、出離解脱の道を願つて世を厭ひ給ひしかば、浄飯大王・是を歎き、四方に四季の色を顕して太子の御意を留め奉らんと巧み給ふ。先づ東には霞(かすみ)たなびく・たえまより・かりがね(雁音)・こしぢ(越路)に帰り、窓の梅の香・玉簾(たまだれ)の中にかよひ、でうでう(嫋々)たる花の色・ももさへづり(百囀󠄀)の鴬(うぐいす)春の気色を顕はせり。南には泉の色・白たへにしてかの玉川の卯の華・信太(しのだ)の森のほととぎす(子規)夏のすがたを顕はせり。西には紅葉常葉(もみじ・ときわ)に交れば、さながら錦をおり交え・荻(おぎ)ふく風・閑(のど)かにして松の嵐・ものすごし。過ぎにし夏のなごりには沢辺にみゆる螢の光・あまつ空なる星かと誤り、松虫・鈴虫の声声・涙を催せり。北には枯野の色いつしか・ものうく、池の汀(なぎさ)につらら(氷柱)ゐて谷の小川も・をとさび(寂)ぬ。かかるありさまを造つて御意をなぐさめ給うのみならず、四門に五百人づつの兵(つわもの)を置いて守護し給いしかども、終に太子の御年十九と申せし二月八日の夜半の比(ころ)、車匿(しゃのく)を召して金泥駒(こんじく)に鞍置かせ、伽耶城を出て檀特山に入り十二年、高山に薪をとり深谷(みさわ)に水を結んで難行苦行し給ひ、三十成道の妙果を感得して三界の独尊・一代の教主と成つて父母を救ひ、群生を導き給いしをば、さて不孝の人と申すべきか。 仏を不孝の人と云いしは九十五種の外道なり。父母の命に背いて無為に入り、還つて父母を導くは孝の手本なる事・仏其の証拠なるべし。彼の浄蔵・浄眼は父の妙荘厳王・外道の法に著して仏法に背き給いしかども、二人の太子は父の命に背いて雲雷音王仏の御弟子となり、終に父を導いて沙羅樹王仏と申す仏になし申されけるは不孝の人と云うべきか。経文には「恩を棄てゝ無為に入るは真実の報恩者」と説いて、今生の恩愛をば皆すてて仏法の実の道に入る、是れ実に恩をしれる人なりと見えたり。 又主君の恩の深き事・汝よりも能くしれり。汝若し知恩の望あらば深く諌め・強いて奏せよ。非道にも主命に随はんと云う事・佞臣(ねいしん)の至り・不忠の極りなり。殷の紂王は悪王・比干は忠臣なり。政事(まつりごと)理に違いしを見て強ひて諌めしかば・即ち比干は胸を割(さ)かる。紂王は比干死して後、周の王に打たれぬ。今の世までも比干は忠臣といはれ、紂王は悪王といはる。夏の桀王を諌めし竜蓬は頭をきられぬ。されども桀王は悪王・竜蓬は忠臣とぞ云う。主君を三度・諌むるに用ゐずば山林に交れとこそ教へたれ。何ぞ其の非を見ながら黙せんと云うや。古の賢人・世を遁れて山林に交りし先蹤(せんしょう)を集めて聊(いささ)か汝が愚耳(ぐじ)に聞かしめん。殷の代の太公望は皤渓(はけい)と云う谷に隠る。周の代の伯夷・叔斉は首陽山と云う山に篭る。秦の綺里季(きりき)は商洛山に入り、漢の厳光は孤亭に居し、晋の介子綏(かいしすい)は緜上山(めんじょうざん)に隠れぬ。此等をば不忠と云うべきか。愚かなり。汝忠を存ぜば諌むべし、孝を思はば言うべきなり。 先ず汝権教・権宗の人は多く、此の宗の人は少し。何ぞ多を捨て少に付くと云う事、必ず多きが尊くして・少きが卑しきにあらず。賢善の人は希に・愚悪の者は多し。麒麟(きりん)・鸞鳳は禽獣の奇秀なり、然れども是は甚だ少し。牛羊(ごよう)・烏鴿(うごう)は畜鳥の拙卑(せっぴ)なり、されども是は転(うたた)多し。必ず多きがたつとくして少きがいやしくば麒麟をすてて牛羊をとり、鸞鳳を閣(さしお)いて烏鴿をとるべきか。摩尼・金剛は金石の霊異なり。此の宝は乏しく瓦礫、土石は徒物(いたずらもの)の至り・是は又巨多なり。汝が言の如くならば、玉なんどをば捨てて瓦礫を用ゆべきか、はかなし・はかなし。聖君は希にして千年に一たび出で、賢佐は五百年に一たび顕はる。摩尼は空しく名のみ聞く、麟鳳(りんぽう)誰か実を見たるや。世間出世・善き者は乏しく・悪き者は多き事眼前なり。然れば何ぞ強(あなが)ちに少なきを・おろかにして多きを詮とするや。土沙は多けれども米穀は希なり、木皮は充満すれども布絹は些少なり。汝・只正理を以て前とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ。 爰に愚人席をさり・袂(たもと)をかいつくろいて云はく、誠に聖教の理をきくに人身は得難く、天上の絲筋の海底の針に貫けるよりも希に仏法は聞き難くして、一眼の亀の浮木に遇うよりも難し。今既に得難き人界に生をうけ、値い難き仏教を見聞しつ。今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき。夫れ一劫受生の骨は山よりも高けれども、仏法の為には・いまだ一骨をもすてず。多生恩愛の涙は海よりも深けれども、尚後世の為には一滴をも落さず。拙きが中に拙く・愚かなるが中に愚かなり。設ひ命をすて身をやぶるとも生を軽くして仏道に入り、父母の菩提を資け・愚身が獄縛をも免るべし。能く能く教を示し給へ。抑(そもそも)法華経を信ずる其の行相如何。五種の行の中には先ず何れの行をか修すべき。丁寧に尊教を聞かん事を願う。 聖人示して云く、汝蘭室の友に交つて麻畝の性と成る。誠に禿樹・禿(とくじゅ・かぶろ)に非ず。春に遇つて栄え・華さく。枯草枯るに非ず・夏に入つて鮮かに注(うるお)ふ。若し先非を悔いて正理に入らば湛寂(たんじゃく)の潭(ふち)に遊泳して無為の宮に優遊せん事・疑なかるべし。 抑仏法を弘通し群生を利益せんには先ず教・機・時・国・教法流布の前後を弁ふべきものなり。所以は時に正像末あり、法に大小乗あり、修行に摂折(しょうしゃく)あり。摂受の時・折伏を行ずるも非なり、折伏の時・摂受を行ずるも失(とが)なり。然るに今世は摂受の時か・折伏の時か・先づ是を知るべし。摂受の行は此の国に法華一純に弘まりて邪法邪師・一人もなしといはん。此の時は山林に交つて観法を修し、五種・六種・乃至十種等を行ずべきなり。折伏の時はかくの如くならず。経教のおきて蘭菊に・諸宗のおぎろ(頤)誉れを擅(ほしいまま)にし、邪正肩を並べ大小先を争はん時は万事を閣(さしお)いて謗法を責むべし。是れ折伏の修行なり。此の旨を知らずして摂折・途(みち)に違はば得道は思もよらず悪道に堕つべしと云う事、法華・涅槃に定め置き、天台妙楽の解釈にも分明なり。是れ仏法修行の大事なるべし。 譬ば文武両道を以て天下を治るに、武を先とすべき時もあり、文を旨とすべき時もあり。天下無為にして国土静かならん時は文を先とすべし。東夷・南蛮・西戎・北狄・蜂起して野心をさしはさまんには武を先とすべきなり。文武のよき事計りを心えて時をもしらず、万邦・安堵の思をなして世間無為ならん時、甲冑(かっちゅう)をよろひ・兵杖(へいじょう)をもたん事も非なり。又王敵起らん時、戦場にて武具をば閣(さしお)いて筆硯(ひっけん)を提(ひっさげ)ん事・是も亦時に相応せず。 摂受・折伏の法門も亦是くの如し。正法のみ弘まつて邪法邪師・無からん時は深谷にも入り、閑静にも居して読誦書写をもし・観念工夫をも凝(こら)すべし。是れ天下の静かならん時、筆硯(ひっけん)を用ゆるが如し。権宗・謗法・国にあらん時は諸事を閣いて謗法を責むべし。是れ合戦の場に兵杖を用ゆるが如し。然れば章安大師・涅槃の疏に釈して云く「昔は時平かにして法弘まる、応に戒を持すべし、杖を持すること勿れ。今は時嶮(さか)しくして法翳(かく)る、応に杖を持すべし、戒を持すること勿れ。今昔倶に嶮しくば倶に杖を持すべし、今昔倶に平かならば応に倶に戒を持すべし。取捨宜(よろし)きを得て一向にす可からず」と。此の釈の意分明なり。 昔は世もすなをに・人もただしくして邪法邪義・無かりき。されば威儀をただし・穏便に行業を積んで杖をもつて人を責めず、邪法をとがむる事無かりき。今の世は濁世なり。人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき・又法門を以ても邪義を責めよとなり。取捨其の旨を得て一向に執する事なかれと書けり。今の世を見るに正法一純に弘まる国か、邪法の興盛する国か勘ふべし。 然るを浄土宗の法然は念仏に対して法華経を捨閉閣抛とよみ、善導は法華経を雑行と名け、剰(あまつさ)へ千中無一とて・千人信ずとも一人得道の者あるべからずと書けり。真言宗の弘法は法華経を華厳にも劣り、大日経には三重の劣と書き、戯論の法と定めたり。正覚房は法華経は大日経のはきものとりにも及ばずと云ひ、釈尊をば大日如来の牛飼にもたらずと判せり。禅宗は法華経を・吐たる・つばき、月をさす指・教網なんど下す。小乗律等は法華経は邪教・天魔の所説と名けたり。此等豈謗法にあらずや。責めても猶あまりあり、禁(いまし)めても亦たらず。 愚人云く、日本六十余州、人替り・法異なりといへども或は念仏者・或は真言師・或は禅・或は律・誠に一人として謗法ならざる人はなし。然りと雖も人の上沙汰してなにかせん。只我が心中に深く信受して人の誤りをば余所の事にせんと思ふ。 聖人示して云く、汝言う所実にしかなり。我も其の義を存ぜし処に、経文には或は不惜身命とも或は寧喪身命(ねいそうしんみょう)とも説く。何故にかやうには説かるるやと存ずるに、只人をはばからず・経文のままに法理を弘通せば、謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有つて命にも及ぶべしと見えたり。其の仏法の違目を見ながら我もせめず・国主にも訴へずば、教へに背いて仏弟子にはあらずと説かれたり。 涅槃経第三に云く「若し善比丘あつて法を壊(やぶ)らん者を見て・置いて・呵責(かしゃく)し・駈遣(くけん)し・挙処(こしょ)せずんば当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し・呵責し・挙処せば是れ我が弟子、真の声聞なり」と。此の文の意は仏の正法を弘めん者・経教の義を悪く説かんを聞き見ながら・我もせめず・我が身及ばずば国主に申し上げても是を対治せずば仏法の中の敵なり。若し経文の如くに人をも・はばからず・我もせめ・国主にも申さん人は仏弟子にして真の僧なりと説かれて候。されば仏法中怨の責を免れんとて・かやうに諸人に悪まるれども、命を釈尊と法華経に奉り、慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす。汝実に後世を恐れば身を軽しめ・法を重んぜよ。是を以て章安大師云く「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれとは身は軽く法は重し。身を死(ころ)して法を弘めよ」と。此の文の意は身命をば・ほろぼすとも正法をかくさざれ。其の故は身はかろく法はおもし、身をばころすとも法をば弘めよとなり。 悲いかな生者必滅の習なれば設ひ長寿を得たりとも終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外(うちと)の程を思へば夢の中の夢なり。非想の八万歳・未だ無常を免れず、忉利(とうり)の一千年も猶退没の風に破らる。況んや人間・閻浮(えんぶ)の習ひは露よりも・あやうく、芭蕉よりも・もろく、泡沫よりもあだなり。水中に宿る月のあるか・なきかの如く、草葉にをく露のをくれ・さきだつ身なり。若し此の道理を得ば後世を一大事とせよ。歓喜仏の末の世の覚徳比丘・正法を弘めしに無量の破戒此の行者を怨みて責めしかば、有徳国王・正法を守る故に・謗法を責めて終に命終して阿閦仏(あしゅくぶつ)の国に生れて彼の仏の第一の弟子となる。大乗を重んじて五百人の婆羅門の謗法を誡めし仙予国王は不退の位に登る。憑(たのも)しいかな正法の僧を重んじて邪悪の侶(とも)を誡むる人・かくの如くの徳あり。 されば今の世に摂受を行ぜん人は謗人と倶に悪道に堕ちん事疑い無し。南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有つて悪人を将護し治罰すること能わず乃至其の人命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん」と。此の文の意は若し仏法を行ずる人有つて謗法の悪人を治罰せずして観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず、詐(いつわ)つて慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云う文なり。今真言・念仏・禅・律の謗人をたださず、いつはつて慈悲を現ずる人・此の文の如くなるべし。 爰に愚人意を竊(ひそか)にし言を顕にして云く、誠に君を諌めて家を正しくする事・先賢の教へ本文に明白なり。外典此くの如し、内典是に違うべからず。悪を見ていましめず、謗を知つてせめずば経文に背き祖師に違せん。其の禁め・殊に重し。今より信心を至すべし。但し此の経を修行し奉らん事叶いがたし。若し其の最要あらば証拠を聞かんと思ふ。 聖人示して云く、今汝の道意を見るに鄭重・慇懃(いんぎん)なり。所謂諸仏の誠諦(じょうたい)得道の最要は只是れ妙法蓮華経の五字なり。檀王の宝位を退き、竜女が蛇身を改めしも只此の五字の致す所なり。夫れ以(おもんみ)れば今の経は受持の多少をば一偈一句と宣べ、修行の時刻をば一念随喜と定めたり。凡そ八万法蔵の広きも一部八巻の多きも只是の五字を説かんためなり。霊山の雲の上・鷲峯(じゅほう)の霞(かすみ)の中に釈尊・要を結び、地涌付属を得ることありしも法体は何事ぞ、只此の要法に在り。天台妙楽の六千張の疏・玉を連ぬるも、道邃(どうずい)行満の数軸の釈・金を並ぶるも、併しながら此の義趣を出でず。誠に生死を恐れ・涅槃を欣(ねが)い・信心を運び・渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢・菩提の覚悟は今日のうつつなるべし。只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき・来らぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり・甚深なり、是を信受すべし。 愚人掌を合せ・膝を折つて云く、貴命肝に染み教訓・意を動ぜり。然りと雖も上能兼下の理(ことわり)なれば・広きは狭きを括り・多は少を兼ぬ。然る処に五字は少く文言は多し、首題は狭く八軸は広し。如何ぞ功徳斉等ならんや。 聖人云く、汝愚かなり。捨少取多の執・須弥よりも高く、軽狭重広の情・溟海よりも深し。今の文の初後は必ず多きが尊く少きが卑しきにあらざる事、前に示すが如し。爰に又小が大を兼ね、一が多に勝ると云う事之を談ぜん。尼拘類樹(にくるじゅ)の実は芥子・三分が一のせい(長)なり。されども五百輛の車を隠す徳あり。是(これ)小が大を含めるにあらずや。又如意宝珠は一あれども万宝を雨して欠くる処・之れ無し。是れ又少が多を兼ねたるにあらずや。世間のことわざにも一は万が母といへり。此等の道理を知らずや。所詮実相の理の背契を論ぜよ、強ちに多少を執する事なかれ。汝至つて愚かなり。今一の譬へを仮らん。 夫れ妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり。仏性とは法性なり。法性とは菩提なり。所謂釈迦・多宝・十方の諸仏・上行・無辺行等・普賢・文殊・舎利弗・目連等、大梵天王・釈提桓因(しゃくだいかんにん)・日月・明星・北斗・七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・竜神・八部・人天大会・閻魔法王、上は非想の雲の上、下は那落の炎の底まで、所有(あらゆる)一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり。されば一遍・此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰(ここ)に集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕はれ出ずる、是を成仏とは申すなり。例せば篭(かご)の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる、是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し。 爰に愚人云く、首題の功徳・妙法の義趣、今聞く所・詳(つまびら)かなり。但し此の旨趣正しく経文に是をのせたりや如何。 聖人云く、其の理詳(つまびら)かならん上は文を尋ぬるに及ばざるか。然れども請ひに随つて之れを示さん。法華経第八・陀羅尼品に云く「汝等但能く法華の名(みな)を受持せん者を擁護(おうご)せん福・量るべからず」此の文の意は仏・鬼子母神・十羅刹女の法華経の行者を守らんと誓い給うを讃むるとして、汝等法華の首題を持つ人を守るべしと誓ふ。其の功徳は三世了達の仏の智慧も尚及びがたしと説かれたり。仏智の及ばぬ事何かあるべきなれども、法華の題名受持の功徳ばかりは是を知らずと宣べたり。 法華一部の功徳は只妙法等の五字の内に篭(こも)れり。一部八巻・文文ごとに二十八品・生起かはれども首題の五字は同等なり。譬へば日本の二字の中に六十余州・島二つ入らぬ国やあるべき、篭らぬ郡やあるべき。飛鳥とよべば空をかける者と知り、走獣といへば地を・はしる者と心うる。一切名の大切なる事・蓋し以て是くの如し。天台は名詮自性・句詮差別とも名者大綱とも判ずる・此の謂れなり。又名は物をめす徳あり、物は名に応ずる用あり。法華題名の功徳も亦以て此くの如し。 愚人云く、聖人の言の如くば実に首題の功・莫大なり。但し知ると知らざるとの不同あり。我は弓箭に携(たずさわ)り、兵杖をむねとして未だ仏法の真味を知らず。若し然れば得る所の功徳・何ぞ其れ深からんや。 聖人云く、円頓の教理は初後全く不二にして初位に後位の徳あり。一行・一切行にして功徳備わらざるは之れ無し。若し汝が言の如くば・功徳を知つて植えずんば、上は等覚より下は名字に至るまで得益更にあるべからず。今の経は唯仏与仏と談ずるが故なり。譬喩品に云く「汝・舎利弗、尚此の経に於ては信を以て入ることを得たり。況んや余の声聞をや」文の心は大智・舎利弗も法華経には信を以て入る。其の智分の力にはあらず。況んや自余の声聞をやとなり。されば法華経に来たつて信ぜしかば永不成仏の名を削りて華光如来となり。 嬰児(ように)に乳をふくむるに其の味をしらずといへども自然に其の身を生長す、医師が病者に薬を与うるに病者・薬の根源をしらずといへども服すれば任運(にんうん)と病・愈(い)ゆ。若し薬の源をしらずと云つて医師の与ふる薬を服せずば其の病・愈ゆべしや。薬を知るも知らざるも服すれば病の愈ゆる事・以て是れ同じ。既に仏を良医と号し、法を良薬に譬へ、衆生を病人に譬ふ。されば如来一代の教法を擣簁和合(とうしわごう)して妙法一粒の良薬に丸ぜり。豈知るも知らざるも服せん者・煩悩の病愈えざるべしや。病者は薬をもしらず病をも弁へずといへども服すれば必ず愈ゆ、行者も亦然なり。法理をもしらず・煩悩をもしらずといへども、只信ずれば見思・塵沙・無明の三惑の病を同時に断じて実報寂光の台(うてな)にのぼり、本有三身の膚(はだえ)を磨かん事疑いあるべからず。 されば伝教大師云く「能化・所化倶に歴劫無く、妙法経の力・即身成仏す」と。法華経の法理を教へん師匠も又習はん弟子も久しからずして法華経の力をもつて倶に仏になるべしと云う文なり。天台大師も法華経に付いて玄義・文句・止観の三十巻の釈を造り給う。妙楽大師は又釈籤(しゃくせん)・疏記・輔行(ふぎょう)の三十巻の末文を重ねて消釈す。天台六十巻とは是なり。玄義には名体宗用教の五重玄を建立して妙法蓮華経の五字の功能を判釈す。五重玄を釈する中の宗の釈に云く「綱維を提(ひっさ)ぐるに目(もく)として動かざること無く、衣の一角を牽くに縷(る)として来らざる無きが如し」と。意は此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に功徳として来らざる事なく、善根として動かざる事なし。譬へば網の目・無量なれども一つの大綱を引くに動かざる目もなく、衣の糸筋・巨多(あまた)なれども一角(すみ)を取るに糸筋として来らざることなきが如しと云う義なり。さて文句には如是我聞より作礼而去(さらいにこ)まで文文・句句に因縁・約教・本迹・観心の四種の釈を設けたり。次に止観には妙解の上に立てる所の観不思議境の一念三千・是れ本覚の立行・本具の理心なり。今爰に委しくせず。 悦ばしいかな生を五濁悪世に受くといへども、一乗の真文を見聞する事を得たり。熈連恒沙(きれんごうじゃ)の善根を致せる者・此の経にあい奉つて信を取ると見えたり。汝・今一念随喜の信を致す、函蓋(かんがい)相応・感応道交疑い無し。 愚人頭を低(た)れ手を挙げて云く、我れ今よりは一実の経王を受持し、三界の独尊を本師として今身自(こんじん・よ)り仏身に至るまで此の信心敢へて退転無けん。設ひ五逆の雲厚くとも、乞ふ・提婆達多が成仏を続ぎ、十悪の波あらくとも願くは王子・覆講(ふこう)の結縁に同じからん。 聖人云く、人の心は水の器にしたがふが如く、物の性は月の波に動くに似たり。故に汝・当座は信ずといふとも後日は必ず翻へさん。魔来たり鬼来たるとも騒乱する事なかれ。夫れ天魔は仏法をにくむ、外道は内道をきらふ。されば猪の金山を摺(す)り、衆流の海に入り、薪の火を盛んになし、風の求羅をますが如くせば豈好き事にあらずや。 [聖愚問答抄 上下 本文] 完
by johsei1129
| 2015-07-21 01:02
| 重要法門(十大部除く)
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