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日蓮大聖人『御書』解説

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2015年 07月 21日

妙法蓮華経とは一切衆生の仏性なり、仏性とは法性なりと説いた【聖愚問答抄 下】一

[聖愚問答抄 下 本文]その一
 爰に愚人聊か和いで云く、経文は明鏡なり、疑慮をいたすに及ばず。但し法華経は三説に秀で一代に超ゆるといへども、言説に拘はらず経文に留まらざる我等が心の本分の禅の一法には・しくべからず。凡そ万法を払遣(ほっけん)して言語の及ばざる処を禅法とは名けたり。されば跋提河(ばつだいが)の辺(ほと)り、沙羅林の下にして釈尊・金棺より御足を出し、拈華微笑(ねんげみしょう)して此の法門を迦葉に付属ありしより已来、天竺二十八祖・系乱れず・唐土には六祖次第に弘通せり。達磨は西天にしては二十八祖の終はり・東土にしては六祖の始めなり。相伝をうしなはず教網に滞るべからず。爰を以て大梵天王・問仏決疑経に云く「吾に正法眼蔵の涅槃妙心・実相無相・微妙の法門有り。教外に別に伝う、文字を立てず。摩訶迦葉に付属す」とて迦葉に此の禅の一法をば教外に伝ふと見えたり。都て修多羅の経教は月をさす指、月を見て後は指何かはせん。心の本分・禅の一理を知つて後は仏教に心を留むべしや。されば古人の云く十二部経は総て是れ閑文字(かんもじ)と云云。仍つて此の宗の六祖慧能の壇経を披見するに、実に以て然なり。言下に契会して後は教は何かせん。此の理・如何が弁えんや。
 聖人示して云く、汝先ず法門を置いて道理を案ぜよ。抑(そもそも)我一代の大途を伺わず・十宗の淵底を究めずして国を諌め・人を教ふべきか。汝が談ずる所の禅は我最前に習い極めて其の至極を見るに甚だ以て僻事(ひがごと)なり。禅に三種あり。所謂如来禅と教禅と祖師禅となり。汝が言う所の祖師禅等の一端之を示さん、聞いて其の旨を知れ。若し教を離れて之を伝うといわば教を離れて理なく、理を離れて教無し。理全く教・教全く理と云う道理・汝之を知らざるや。拈華微笑して迦葉に付属し給うと云うも是れ教なり、不立文字と云う四字も即ち教なり・文字なり。此の事・和漢両国に事旧りぬ。今いへば事新きに似たれども一両の文を勘えて汝が迷を払はしめん。
 補註十一に云く「又復若し言説に滞ると謂わば且らく娑婆世界には何を将つて仏事と為るや。禅徒豈言説をもつて人に示さざらんや。文字を離れて解脱の義を談ずること無し。豈に聞かざらんや」乃至次ぎ下に云く「豈に達磨・西来して直指人心・見性成仏すと。而るに華厳等の諸大乗経に此の事無からんや。嗚呼世人何ぞ其れ愚かなるや。汝等当に仏の所説を信ずべし。諸仏如来は言(みこと)虚妄無し」と。此の文の意は若し教文にとどこほり、言説にかかはるとて教の外に修行すといはば此の娑婆国には・さて如何がして仏事善根を作すべき。さように云うところの禅人も人に教ゆる時は言を以て云はざるべしや。其の上・仏道の解了を云う時、文字を離れて義なし。又達磨・西より来つて直に人心を指して仏なりと云う是程の理は華厳・大集・大般若等の法華已前の権大乗経にも在在処処に之を談ぜり。是をいみじき事とせんは無下に云いがひ(甲斐)なき事なり。嗚呼今世の人・何ぞ甚ひがめるや。只中道実相の理に契当せる妙覚果満の如来誠諦の言を信ずべきなり。
 又妙楽大師の弘決の一に此の理を釈して云く「世人・教を蔑(ないがしろ)にして理観を尚ぶは誤れるかな・誤れるかな」と。此の文の意は今の世の人人は観心観法を先として経教を尋ね学ばず、還つて教をあなづり・経をかろしむる。是れ誤れりと云う文なり。其の上当世の禅人・自宗に迷へり。続高僧伝を披見するに習禅の初祖・達磨大師の伝に云く教に藉(よ)つて宗を悟ると。如来一代の聖教の道理を習学し法門の旨・宗宗の沙汰を知るべきなり。
 又達磨の弟子・六祖の第二祖慧可の伝に云く「達磨禅師・四巻の楞伽(りょうが)を以て可に授けて云く、我漢の地を観るに唯此の経のみ有り。仁者(きみ)依行せば自ら世を度する事を得ん」と。此の文の意は達磨大師・天竺より唐土に来つて四巻の楞伽経をもつて慧可に授けて云く、我此の国を見るに是の経殊に勝れたり。汝持ち修行して仏に成れとなり。此等の祖師・既に経文を前とす。若し之に依つて経に依ると云はば大乗か・小乗か・権教か・実教か・能く能く弁ふべし。或は経を用いるには禅宗も楞伽経・首楞厳経・金剛・般若経等による。是れ皆法華已前の権教・覆蔵(ふぞう)の説なり。只諸経に是心即仏・即心是仏等の理の方を説ける。一両の文と句とに迷いて大小・権実・顕露・覆蔵をも尋ねず、只不二を立てて而二を知らず。謂己均仏(いこきんぶつ)の大慢を成せり。彼の月氏の大慢が迹(あと)をつぎ、此の尸那の三階禅師が古風を追う。然りと雖も大慢は生(いき)ながら無間に入り、三階は死して大蛇と成りぬ。をそろし・をそろし。
 釈尊は三世了達の解了朗(あきら)かに、妙覚果満の智月・潔くして未来を鑒みたまい、像法決疑経に記して云く「諸の悪比丘或は禅を修する有つて経論に依らず。自ら己見を逐つて非を以て是と為し、是邪是正と分別すること能わず。遍く道俗に向つて是くの如き言を作(な)さく、我能く是を知り・我能く是を見ると。当に知るべし此の人は速やかに我が法を滅す」と。此の文の意は諸悪比丘あつて禅を信仰して経論をも尋ねず、邪見を本として法門の是非をば弁えずして而も男女・尼法師等に向つて我よく法門を知れり、人はしらずと云つて此の禅を弘むべし。当に知るべし此の人は我が正法を滅すべしとなり。此の文をもつて当世を見るに宛も符契の如し、汝慎むべし・汝畏るべし。
 先に談ずる所の天竺に二十八祖有つて此の法門を口伝すと云う事・其の証拠何(いずれ)に出でたるや。仏法を相伝する人・二十四人・或は二十三人と見えたり。然るを二十八祖と立つる事・所出の翻訳何(いずれ)にかある。全く見えざるところなり。此の付法蔵の人の事・私に書くべきにあらず。如来の記文分明なり。其の付法蔵伝に云く「復比丘有り。名けて師子と曰う。罽賓国(けいひんこく)に於て大に仏事を作す。時に彼の国王をば弥羅掘(みらくつ)と名け邪見熾盛にして心に敬信無く、罽賓国に於て塔寺を毀壊し衆僧を殺害す。即ち利剣を以て用いて師子を斬る。頚(くび)の中・血無く唯乳のみ流出す。法を相付する人・是に於て便ち絶えん」此の文の意は仏我が入涅槃の後に我が法を相伝する人二十四人あるべし。其の中に最後・弘通の人に当るをば師子比丘と云わん。罽賓国と云う国にて我が法を弘むべし。彼の国の王をば檀弥羅(だんみら)王と云うべし。邪見放逸にして仏法を信ぜず衆僧を敬はず。堂塔を破り失ひ、剣をもつて諸僧の頚を切るべし。即ち師子比丘の頚をきらん時に頚の中に血無く只乳のみ出ずべし。是の時に仏法を相伝せん人絶ゆべしと定められたり。案の如く仏の御言違わず師子尊者・頚をきられ給う事・実に以て爾なり。王のかいな共につれて落ち畢んぬ。
 二十八祖を立つる事・甚(はなはだ)以て僻見なり。禅の僻事(ひがごと)是より興るなるべし。今慧能が壇経に二十八祖を立つる事は達磨を高祖と定むる時、師子と達磨との年紀遥かなる間、三人の禅師を私に作り入れて天竺より来れる付法蔵・系乱れずと云うて人に重んぜさせん為の僻事なり。此の事異朝にして事旧りぬ。補註の十一に云く「今家は二十三祖を承用す、豈悞(あやまり)有らんや。若し二十八祖を立つるは未だ所出の翻訳を見ざるなり。近来更に石に刻み版に鏤(ちりば)め七仏二十八祖を図状し、各(おのおの)一偈を以て伝授相付すること有り。嗚呼(ああ)仮託何ぞ其れ甚だしきや。識者力有らば宜しく斯の弊を革(あらた)むべし」是も二十八祖を立て石にきざみ版にちりばめて伝うる事・甚だ以て誤れり。此の事を知る人あらば此の誤りをあらためなをせとなり。祖師禅・甚だ僻事なる事是にあり。
 先に引く所の大梵天王問仏決疑経の文を教外別伝の証拠に汝之を引く。既に自語相違せり。其の上此の経は説相権教なり。又開元貞元の再度の目録にも全く載せず。是録外の経なる上・権教と見えたり。然れば世間の学者用ゐざるところなり。証拠とするにたらず。
 抑(そもそも)今の法華経を説かるる時、益をうる輩・迹門界如三千の時・敗種の二乗仏種を萠(きざ)す。四十二年の間は永不成仏と嫌はれて在在処処の集会にして罵詈誹謗の音(こえ)をのみ聞き、人天大会に思いうとまれて既に飢え死ぬべかりし人人も、今の経に来つて舎利弗は華光如来・目連は多摩羅跋旃檀香(たまらばつ・せんだんこう)如来・阿難は山海慧自在通王仏・羅睺羅(らごら)は踏七宝華如来・五百の羅漢は普明如来・二千の声聞は宝相如来の記別に予る。顕本遠寿の日は微塵数の菩薩、増道損生して位・大覚に鄰(とな)る。されば天台大師の釈を披見するに、他経には菩薩は仏になると云つて二乗の得道は永く之れ無し、善人は仏になると云つて悪人の成仏を明さず、男子は仏になると説いて女人は地獄の使と定む、人天は仏になると云つて畜類は仏になるといはず。然るを今の経は是等が皆仏になると説く。たのもしきかな末代濁世に生を受くといへども提婆が如くに五逆をも造らず・三逆をも犯さず。而るに提婆・猶天王如来の記別を得たり、況んや犯さざる我等が身をや。八歳の竜女・既に蛇身を改めずして南方に妙果を証す、況んや人界に生を受けたる女人をや。只得難きは人身・値い難きは正法なり。汝早く邪を翻えし・正に付き・凡を転じて・聖を証せんと思はば、念仏・真言・禅・律を捨てて此の一乗妙典を受持すべし。若し爾らば妄染(もうぜん)の塵穢(じんえ)を払つて清浄の覚体を証せん事疑ひなかるべし。




by johsei1129 | 2015-07-21 00:59 | 重要法門(十大部除く) | Trackback | Comments(0)


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